第 23 話道具行灯の火を米粒ほどにして針を運ぶ、神田の後家おさん
〜皿の底をなめるほどの油で夜を越す後家は、その夜なぜ灯心をもう一本足したのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
「そんなに詰めちゃ、見えめえよ。もちっと芯を出しなせえ」
あっしはそう言って、行灯の皿の縁にある灯心を箸の先でつまみ、指二本ぶん、引き出した。
火が、ぐんと背を伸ばした。
◇ ◇ ◇
文政五年(一八二二年)の秋、神田の裏長屋の、いちばん奥の一間である。女は後家のおさんといって、八つになる男の子と二人で暮らし、近所の仕立て直しを夜なべで引き受けていた。あっしは油売りになって日の浅い身で、長屋から長屋へ油を量って歩き、柄杓で皿へ移すときのしずくの減り具合から、どの家の台所が苦しいかを覚えはじめたところだった。おさんの家は、減りが長屋でいちばん少ない。皿の底をなめるほどの菜種油を、幾晩ももたせている。魚油なら半値で済むはずなのに、おさんは亭主の代から菜種だけを買っていた。晒に臭いが移るのを嫌ってのことと聞く。
行灯は、四角い木の枠に紙を張った火袋のなかへ、油皿をひとつ据えたものだ。皿の縁へ灯心を寝かせ、先だけを外へ出して火をつける。おさんの灯心は、その先を短く詰めてあって、火は米粒ほどしかなかった。紙を透かした光が、針先の三寸ばかりを、ぼんやり照らしているだけだ。
灯心の先は、燃えるうちに炭になって固まり、火を暗くする。おさんは、そのつど箸の先でちょいと落としては、針を進めていた。先ごろ、この人はあっしに、灯心をひと包み求めた。皿の縁の一本は、そうそう減らぬ細さだから、使いきれまいにと思ったが、客の事情を詮索するのは商いの外だ。包みは封を切らぬまま、行灯の脇に置かれていた。
見かねたのだ。それに、あっしの手が覚えていた。芯は、出せば出しただけ、灯が立つものだと。
「与一さん、いいんですよ」
おさんは手を止めずにそう言ったが、あっしは聞き流した。火が背を伸ばして、部屋の隅まで黄色い光が届いたとき、ほらみろ、と思った。
そのとき、火の先が、すうっと細い黒い筋を吐いた。
筋はゆらゆらとのぼり、ほどけて、細かい粒になって降ってきた。おさんの膝には、仕立て直しの晒の襟がのっている。その白い襟へ、黒い点が三つ、落ちた。鼻の奥が、焦げた油の匂いでつんとした。あっしの手にも黒い粉がついていて、こすると、いっそう広がった。

おさんは何も言わなかった。針を置き、箸を取って、灯心を、もとの短さまで押し戻した。火は米粒に縮み、黒い筋は消えた。ただ、襟の点は消えなかった。
「洗い張りに出せば、落ちます」
洗い張りの手間賃は、おさんの稼ぎから出る。夜なべ一晩ぶんの縫い賃が、その襟一枚で消えるのだ。
「すまねえ。今夜の油は、あっしの持ちにさせてくれ」
おさんは、首を横に振った。
「いただいた分しか、お代は払えません。ですが与一さん、明日も、洗い張り屋の前をお通りですか」
通る。あっしの商いの道筋だ。
「ならば、これを持っていってくださいな。仕上がったら、また引き取って」
襟は、あっしの懐におさまった。情けで足した一しずくは突き返す人が、頼まれ事のほうは、受け取ってくれたのだった。
翌朝、あっしは荷を担いだまま、洗い張り屋の暖簾をくぐった。表の板には、洗い終えた長い布が、幾筋も張られて干してある。女房は、襟をひろげて、ふん、と鼻を鳴らした。
「煤だね。油の煙の煤は、水じゃ落ちないよ。灰汁に漬けて、時をかけるのさ」
手間賃は、あっしが先に払っておいた。油売りの儲けは薄い。その日の上がりが、半分ほど消えた。おさんには言わなかった。
◇ ◇ ◇
ボクの知る灯は、芯をくり出せば、明るくなるものだった。手が先にそう覚えていて、行灯の前でも、その覚えのままに動いた。黒い点が三つ落ちるまで、そのやり方が通らない場所があるとは、思いもしなかった。
灯心が油を吸いあげる量には限りがあって、芯を長く出すほど、火はその量を超えて燃えたがる。足りない分は、黒い煙になって逃げる。あのとき、おさんの火は、吸いあげる油にちょうど見合うだけの、米粒の大きさだったのだ。
あの夜の行灯は、座敷の隅まで照らすものではなかった。針先の三寸ぶんが、そのままおさんの昼だった。
◇ ◇ ◇
十日ほどして、襟はきれいになって戻ってきた。夕方、あっしは仕上がりを抱えて、おさんの戸を叩いた。

「ありがとうございます。……いつもの分を、お願いします」
柄杓の油が、皿へ細く落ちる。最後のひと垂れが切れるまで、おさんは黙って、量りの手元を見ていた。
量り終えて、あっしが帰ろうとしたとき、せがれが草紙を持って寄ってきた。反故紙の裏を綴じたもので、薄めた墨で、ぎこちない文字が連なっている。
「かか、これ。読めるか」
一行だけ、ほかのどの行より、一字一字に力がこもっていた。
——かかさま、ありがたう。
あっしは戸口で足を止めた。
おさんは、しばらくその文字を見ていた。それから針を置いて、行灯の脇の紙包みを取った。先ごろ、あっしが売った灯心の包みだ。封は切られていなかった。
包みから、藺の茎の白い髄を細く束ねたものを、一すじ抜く。それを、皿の縁へ、一本目と並べて寝かせた。間は灯心ひとつぶんだけ空け、先を揃えて短く詰め、火を移す。
じじ、と音がして、小さな火がふたつ、肩を並べて立った。ひとつひとつは、やはり米粒ほどだ。けれど重なった光のなかで、母と子の顔が、はっきり見えた。黒い筋は、どこにも立たなかった。
「与一さん。油を、もう一杯、足してもらえますか。二本にしたら、この皿は何晩もちましょうね」
あっしは、皿の深さと、柄杓の数を、頭のなかで数えた。
「一本なら七晩、二本なら、ざっと四晩だ」
おさんは、うなずいた。それから、独り言のように、四晩、と言った。仕立てを二枚多く受ければ、足りる、という声の調子だった。あっしは柄杓で、もう一杯、皿へ移した。
あっしが引き出した火は、一本きりで背を伸ばして、煤を吐いた。この火は、二本で肩を並べて、吐かない。亭主に死なれて三年、おさんはそちらの道を知っていたと、のちに長屋の者から聞いた。知っていて、油の倍の減りが怖くて、ずっと一本で通してきたのだ。
おさんは草紙を両手で持ち、倍になった灯のそばへ寄せて、読み返していた。唇が動く。ありがたう、の五文字を、八つの子が、母のために書いたのだ。その弔いでも、長屋の者の前では泣かなかった人が、その行の前で、肩をふるわせていた。
火袋の紙が、ぼうっと橙に染まっていた。おさんの針は、その夜、いつもより早く進んだ。
明日は、油をもう少し多めに積んでこよう、とあっしは思った。二本の灯心は、ふだんの倍の早さで油を吸う。その減りを量るのは、あっしの商いだ。
戸を出ると、秋の夜空が高かった。後ろの障子には、母と子の影が、いつもより大きく映っている。明日は、もう一町先の長屋まで、足を延ばしてみよう。そう思うと、足が軽かった。
◇ ◇ ◇
終バスを待つ停留所の屋根の下で、蛍光灯が白くうなっている。ベンチの端で、誰かが自販機の缶を両手に包んでいる。掌のなかの、缶の熱。
参考文献・もっと詳しく
※ 江戸期の主な灯火用油は菜種油で、行灯に灯心(藺草の髄など)を浸して点した。油は高価で、庶民は灯心の本数や芯の出し具合で明るさと油の消費を加減し、より安価で煙の多い魚油を用いる家もあったと伝わる。灯火の普及により夜なべ仕事や夜の手習いなど「夜の時間」の活用が広がったとされる。文政五年は一八二二年(文政は一八一八〜一八三〇年)。※本文の人物・会話・情景は創作。
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