第 82 話衣服雨の日の下駄屋、勘右衛門の歯入れの手もと
〜減った歯の根もとに、誰の暮らしが残っていたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
勘右衛門は、客の顔を見るより先に、客の足元を見る男だった。
ボクがあの爺さんを覚えているのは、顔でも声でもない。下駄を裏返すときの、親指の動きだ。歯の底を、ついと一度だけなでる。それが勘右衛門の挨拶だった。
客のほうも心得たもので、店に入ると、まず下駄を脱いで差し出す。名を告げるのは、そのあとだ。五十年そうやって、この町の足を預かってきた爺さんだった。
◇ ◇ ◇
天保三年——西暦でいえば一八三二年の、江戸の下町。
降りだした雨をよけて、裏長屋の木戸のそばの、小さな下駄屋の軒先へ駆けこんだ。ひどい降りで、屋根を叩く音にまじって、路地じゅうからからんころんと下駄が鳴っている。濡れた地べたを跳ねる音、ぬかるみを蹴る音、水たまりを踏みぬく音。同じ下駄でも、鳴り方が一足ごとに違う。
店の奥の板の間に、勘右衛門が座っていた。片膝に膏薬の布を巻きつけて、土間へ降りられずにいる。膝の前には低い据え台、わきに木槌、背のうしろの柱には、樫の歯を十本ばかり通した縄が掛けてある。手を伸ばせば届くところだ。
「おう、そこの。濡れ鼠で突っ立ってちゃ、客が入れねえ。上がんな」
言われるまま上がり框に腰を掛けると、勘右衛門は据え台を膝先で押しやってきた。
「小僧が使いに出たきり戻らねえ。この降りだ、歯の減ったのが一度にどっと来る。台を押さえててくんな」
断る口実を探しているうちに、あっしの膝の上には、もう台が載っていた。軒を借りた手前、いやだとは言いにくい。
最初に駆けこんできたのは、天秤をかついだ魚売りの男だった。角助というらしい。濡れた片方の下駄を突き出す。歯が外側へ斜めに減って、歩けば体が傾ぐのだという。
勘右衛門は顔も見ずに受け取り、裏を返した。親指が、歯の底をついとなでる。
歯の底には、古い斜めの減りの上に、もうひとつ浅い減りが重なっていた。溝には、魚の鱗が一枚、貼りついて光っている。
「ひと月ばかり前に、荷を担ぐ肩を替えたな」
「へえ、そのとおりで。右を痛めまして」
あっしが歯の底をのぞきこんでも、勘右衛門は口の端ひとつ動かさなかった。ただ、後ろへ手を回して縄をたぐり、新しい歯を一本、手もとへ寄せた。
「古いのを抜く。そっちを膝で締めな。動かすなよ」
木槌が歯の頭をこつ、こつと叩くと、減った歯が台の溝からすぽんと抜けた。根もとまで丸く磨れている。勘右衛門は縄から取った新しい樫の歯の根を溝に合わせて、頭を叩き込んだ。一打ごとに、かん、かん、と乾いた音が高くなる。その震えが、あっしの膝にまで伝わってきた。

「音が詰まったら入ったってこった。鳴りが濁るうちは、まだ浮いてる」
鼻緒には手をつけなかった。まだ足のかたちをしているからだという。台の桐は白く軽く、歯だけが新しい。角助は、とんとんと土間を踏んで確かめ、雨のなかへ出ていった。からん、ころん。
台を押さえるのも、骨が要る。木槌が落ちるたびに、台は膝のなかで跳ねようとする。力を抜けば歯が斜めに入り、入れすぎれば台の溝が割れる。勘右衛門は一打ごとに、あっしの膝の締め具合を、手のひらでぽんと叩いて知らせた。縄の歯は、一本、また一本と減っていく。路地では、木槌の音に応えるように、下駄の鳴る音が近づいては遠のき、また近づいてくる。
そのころには、あっしの腕は肩まで痺れていた。膝の上の台は、雨を吸ったように重く感じられた。雨は弱まらない。小僧は帰らない。
つぎは、杖をついた按摩の老人だった。目が見えない。戸口で足を止め、軒の雨だれの音で、店の間口を測るようにして入ってくる。下駄を差し出すと、勘右衛門は裏を返し、歯の底を一度なでて、黙って新しい歯を縄から選んだ。この下駄の歯は、左右がそろって、ほとんど同じ高さに減っていた。
「ことしは、これで三度めだ」と按摩が言った。「歯を替えたら、音が変わるかね」
「変わらねえように入れとくよ」
あっしが押さえた台を、勘右衛門はことさらゆっくり叩いた。按摩は、その音を、顔をすこし傾けて聞いていた。縄に残った歯は、もう三本きりだった。
三人目は、小さな男の子だった。両手で、大人の下駄を抱えている。
「おとっつぁんのだよ。歯が、ぐらぐらする」
勘右衛門は受け取って、台の腹を返した。鼻緒の穴のわきに、小さな木の栓が三つ、並んでいる。穴が緩むたびに塞いで、あけ直した跡だという。勘右衛門はその栓を、ゆっくり親指でなぞった。
「いい桐だ。三十年は軽いまんまだな」
それから歯を叩いて抜き、あっしの手のなかへ、抜いた歯を載せた。根もとまで、黒い泥の色が染みている。
「木戸の外の道は、泥でな。あすこを歩く者の歯は、外から先に減る。雨が三日続きゃあ、晴れの十日ぶん減る。おれの爺さまの代から、そうだった」
あっしは何も言えず、ただ新しい歯の頭を叩く音を聞いていた。かん、かん、かん。音がすっと詰まった。男の子は、土間の上がり口にしゃがんで、その音を数えるように聞いていた。
それから勘右衛門は、鼻緒の切れかけた根を指で探り、あっしに台の端を持たせて、古い緒をずるりと引き抜いた。新しい緒を通し、裏で結ぶ。歯と鼻緒は別々に傷む。ふつう、先に参るのは歯のほうだそうで、鼻緒はもう一度替えれば、台は何度でも使えるのだという。

男の子の下駄ができあがるころ、雨はようやく小やみになった。勘右衛門が仕上がった一足を差し出すと、男の子は両手で抱えこみ、木戸のほうへ駆けていった。そのうしろ姿は、路地のぬかるみに小さな波を立てて、見えなくなった。
足元には、抜いた古い歯が、いくつも転がっている。勘右衛門は捨てろとは言わず、細い藁縄でひとまとめにして、土間の竈のそばへ放った。竈の前には、燃えのこりの樫の歯が、黒い炭になって山をなしていた。うちの湯は減った歯で沸かすのだと、あとから小僧が言った。
その小僧が使いから戻ったのは、すぐあとのことだ。濡れた髪から水を垂らして、据え台の前に座りこむ。勘右衛門はその小僧に膝を譲り、あっしには何も言わなかった。ただ、背のうしろの柱の縄から樫の歯を一本ぬいて、あっしの膝へ放った。まだ削りたての、白い木肌だった。
雨雲のむこうで、日はもう傾きかけていた。その日のうちに千住へ抜けるつもりだった道は、あきらめるしかなかった。板の間の隅には、抜かれた歯の屑が、湿気でうす黒く固まっていた。
削りたての歯を懐に入れて、店を出た。井戸のある路地を抜けて木戸へ向かう。水たまりは、屋根から落ちる雨だれを受けて、まだ細かく波を立てていた。三軒目の戸口の前にさしかかると、なかから、さっきの男の子の声がした。
「おっかあ、歯、入ったよ。いい音がするよ」
からん、と下駄が土間で鳴った。店で聞いた音と、同じ高さの音だった。あっしは礼を言われる前に、足を止めずに通りすぎた。木戸の外の道は、黒い泥だった。雨に洗われて、足を抜くたびにずぷりと鳴る。歩くたびに、あっしの草履の裏にも、その泥が重く染みた。背中の店では、もう次の客が駆けこんだ頃だろう。勘右衛門はきっと、その客の足元から先に見ているのだろう。
◇ ◇ ◇
夏の宵、縁日の履物屋で、桐の下駄を一足、手に取った。
台の軽さも、鼻緒の穴が三つあるのも、あの店の下駄と同じだった。違うのは、歯だ。台と一つの木から削り出されていて、つぎ目がない。この店の一足は、叩いて抜くことができない。勘右衛門の木槌の入る隙が、ここにはない。
店の親爺に、歯を替えられるのかと訊いてみた。親爺は笑って首を振った。減ったら新しいのを買ってもらうんですよ、と。それはそれで、まっとうな商いだ。
歯の底を、ボクはつい親指でなでていた。つるりと平らで、泥の筋も、鱗もない。あの日の樫の歯は、いまも持っている。それを台の腹へ軽く当ててみた。かん、と乾いた音がした。掌に、軽い響きが残っている。
参考文献・もっと詳しく
※ 下駄は木の台に二枚の歯を立て、台に鼻緒をすげた履物で、鼻緒はすげ替えがきき台は繰り返し使えた。台に歯を差して取り替える差歯の形があり、台は桐、歯は樫などの堅木が好まれたとされる。歯が体を地面から離すため、雨やぬかるみに強く、歩けば特有の音が鳴る。履く者の歩き癖が歯の減り方に表れることは、服飾史・風俗史の範囲で語っている。本話の勘右衛門・客たちおよび会話は創作だが、道具・素材・所作・身分は時代と矛盾しない範囲にとどめた。天保三年は西暦一八三二年(天保は一八三〇〜一八四四年)。
当サイトは Amazon アソシエイト・プログラムの参加者です。上記リンク経由の購入で当サイトに収益が発生する場合があります。
この話が続いてほしいと思ったら、心ばかりの応援をしていただけます。見返りのない、任意の支援です。
このサイトを応援する →