第 06 話文化柘榴口の暗がりをくぐって、湯屋の二階へ上がる
〜見知らぬ者どうしは、湯気の中でどう口をきいたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
「小間物屋の旦那。風呂屋は、どちらで」
店の戸に手をかけたところで、後ろから声がかかった。振り向くと、背に風呂敷を負った若い男が、肩で息をしながら立っている。物言いの抑揚で、上方から出てきて間もないと知れた。
あっしは戸から手を離して、ひと呼吸おいた。
「湯屋かい。木戸を出て、二つ目の角だ」
「へえ、湯屋。わたし、万造いいます。先月、こっちへ出てきました」
文化十年(一八一三年)の秋、日はもう裏長屋の屋根に落ちかかっていた。溝板には、洗い物の水がうす赤く光っている。
手ぬぐいも持たず、巾着を帯からのぞかせた男を、ひとりで行かせるのは気がかりだった。あっしは棚から手ぬぐいを二本抜くと、店の戸を引いて錠をおろし、万造と並んで木戸のほうへ歩きだした。
◇ ◇ ◇
暖簾をくぐると、番台の女房が顔を上げた。
「作蔵さん、今日は連れがいるのかい」
女房は万造の足もとから頭まで、ひとわたり見て、「今日は湯が熱いよ」とだけ付け足した。
あっしは湯銭を二人ぶん、台に置いた。万造が巾着を探る手は、手のひらで止めた。万造は、番台の高い座にすわる女房を、きまり悪そうに見上げた。番台からは、脱ぎ場がひと目で見わたせる。そこに座るのが、この湯屋のいちばんの古株だった。
脱ぎ場の棚には、同じ籠がずらりと並んでいる。万造は着物を畳んで、そのまま風呂敷に包みはじめた。あっしは籠をひとつ取って、その前に置いた。隠居の羽織も、棒手振りの半纏も、よその籠の中で、同じように丸まっていた。万造の着物が納まった籠は、棒手振りの半纏の隣になった。どちらの持ち物とも、じきに見分けがつかなくなる。
板敷きの流し場は、湯気で白かった。万造は、まっすぐ湯船のほうへ歩いてゆく。あっしは腕をつかんで引き戻し、桶をひとつ手渡した。
「先に、これだ」
桶に湯をくんで、肩へ。あっしは三度かぶって見せた。万造も真似をする。湯がかかるたび、肩がすこしずつ下がるのが分かった。足の裏の板敷きは濡れて、すべりやすい。
流し場には、すでに何人もしゃがんでいた。手ぬぐいをしぼる者、背中を流し合う者。ひとりは、あっしに会釈をして、万造にも会釈をした。見ず知らずの顔にまで、そうする。湯屋では、みなそうだった。

流し場のいちばん奥に、壁のような板の仕切りが立っている。天井近くから足もとまで板が下りて、人ひとりがやっとかがんで通れるほどの口が、下にあいていた。口の向こうは、湯気で白く、もう暗い。
「あれが柘榴口だ。腰を落として、頭を下げな」
あっしが先に、膝を折ってくぐった。
中は、鼻先の手もよく見えぬほどの湯気だった。湯の音と人の声ばかりが、やけに近い。湯船のあちこちに、人の頭がぼんやり浮いている。
ごつ、と鈍い音がして、後ろで万造が「いっ」と声をあげた。額を口の縁に打ったらしい。
「新顔かい」
暗がりの奥から、笑いまじりの声がした。
「へ、へえ。すんまへん」
「どこの長屋だい」
別の声が、湯気のむこうから訊いた。顔は見えない。見えないぶん、声はいくらでも気安くなる。
「蕎麦屋の裏の、……まだ越してきたばかりで」
「ああ、あの端の部屋か。壁の薄いほうだ。夜は、咳をこらえときな」
笑い声が湯船に広がって、万造の肩がすこしゆるんだ。
すぐ隣では、棒手振りが首まで湯に沈めて、目を閉じていた。そのまた隣に、隠居の白い頭がある。商いも身の上もちがう二人が、肩を寄せて、同じ湯を分けあっていた。
万造は湯船のふちで足の先をつけて、引っこめた。あっしは先に肩まで沈んで、数をかぞえはじめた。いち、に、さん。万造は七つのあたりで足を戻し、十まで数えるあいだに、肩まで浸かった。熱いうちは肩をすぼめず、息をゆっくり吐けと言うと、万造は言われたとおりにして、「ほんまや」と小さく笑った。
「なんで、こない暗うて低い口なんです」
「湯気を逃がさぬためだと聞く。冷めちまったら、湯屋は商いにならねえ」
万造は、頭上の闇を見上げて、ふうんと息をついた。湯の熱さが、じわりと腰まで上がってくる。
「ここ、女衆は……」
万造が声をひそめた。
「刻を分けている湯屋もあると聞く。男も女もひとつ湯のところも、まだあってね。お上のお触れは何度も出ているが、なかなかね」
万造は「へえ」と言って、湯の中で、赤くなった額をそっと押さえた。
柘榴口をくぐって出るときも、頭を下げる。万造は、こんどはひと呼吸も迷わなかった。流し場へ出ると、もう一度、桶で湯をかぶって、からだを流した。濡れた手ぬぐいは、ふたりとも肩にかけた。あっしは桶に湯をくんで、万造の背にも回した。冷えぬうちにと、肩から流してやった。

◇ ◇ ◇
湯から上がると、番台の脇に、二階へ通じる梯子段がある。急な段で、湯上がりの足には、すこし怖い。
二階へ上がるには、別に払う。万造が、また巾着を開こうとした。あっしは番台で、二階ぶんも二人ぶん、とうに済ませてあった。万造はなにか言いかけて、やめた。
梯子段を上がりきると、広い座敷だった。窓があけ放たれて、湯上がりの肌に、夕風がすうっと当たる。茶と菓子の盆が、座敷のあちこちに出ている。窓の下には、湯屋の屋根瓦と、向かいの長屋の洗濯物が見えた。物干しの上を、雀が二羽、低く飛んでいる。部屋の隅では、隠居と棒手振りが、碁盤をはさんで唸っていた。
万造は、いちばん隅の柱のそばに、膝をそろえて座った。湯上がりで、ほかほかしているのに、背筋だけがまっすぐだった。あっしは盆から湯呑みをふたつ取って、ひとつを万造の前に置いた。茶は熱く、湯上がりの喉に、ほろ苦かった。飲み終えた湯呑みは、自分で盆へ戻す。そう決まっているわけでもないが、あっしはいつも戻していた。万造は、あっしの手つきを横目で見ていたが、湯呑みを戻すときは、盆の端に音をたてぬようそっと置いた。茶の渋さに、ちらりと眉を寄せたのも、あとで思えば愛嬌だった。
「兄さん、上方の出か」
碁盤から目も上げずに、隠居が言った。
「へ、へえ。大坂から」
「ほう。荷は担げるかい。出入りの米屋が、ひとり探していてね」
万造は、湯呑みを両手で持ったまま、うなずくのを忘れていた。隠居は、それを見て、うなずくのが遅れたことのほうを、気に入ったようだった。
棒手振りが、石を置いて、ぱちりと鳴らした。
「おうい。碁は打てるかい、兄さん」
「打てまへん」
「打てなくても、座ってりゃいい。そこへ石を置いてみな」
どっと、笑いが起きた。碁盤のわきでは、菓子の盆がまわって、団子がひとつ、万造の掌にのった。万造は、笑われているのに、笑い返した。置いた石は、隠居がしばらくじっと見て、「悪くない」とだけ言って、そのままにしてくれた。窓の外では、屋根の上の空が、藍をひと刷毛足したように暗くなってきた。額の赤みは、湯気のほてりのなかに、もう紛れていた。
帰りぎわ、梯子段の下で、万造は手ぬぐいを差し出した。
「お返しします」
「店のものだ。持っていきな」
万造は手ぬぐいを肩にかけ、何度も頭を下げて、木戸のほうへ去っていった。あっしは暖簾の内側で、その背が角を曲がるまで見ていた。
あとで聞けば、万造は翌る朝には、米屋の荷を担いで、木戸の前を通っていったという。肩には、あの手ぬぐいがかかっていた。
◇ ◇ ◇
いまの銭湯に、柘榴口はない。湯船の上は高い天井で、湯気はそこへ逃げてゆく。
ところが、ボクは、湯船の縁をまたぐとき、いまでも膝がひとりでに折れる。腰が落ちて、首がすくむ。天井に頭をぶつける心配など、どこにもないのに。
脱衣所の籠も、変わらず並んでいる。どの籠も、同じ顔をして、誰かの着物を待っている。
◇ ◇ ◇
夕方、銭湯の暖簾の前で、湯上がりの子が母親を待っている。片手に、ずしりと水を吸った手ぬぐい。
参考文献・もっと詳しく
※ 湯屋の二階は、別料金で湯上がりの茶や碁を楽しむ座敷で、主に男性の場であった。すべての湯屋に二階があったわけではない。男女の湯を刻で分ける工夫は、江戸の湯屋でしばしば試みられたが、混浴をめぐる禁令は何度も出され、実効は時期によって幅が大きい。色を売る「湯女(ゆな)風呂」は、本話の舞台である町の普通の湯屋とは別のものである。
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