自分の名を、はじめて書けた日のこと
〜なぜ歳を取らぬボクは、子らの震える手を、いつまでも覚えているのか〜
長いあいだ、ふつうの人は、自分の名前すら書けなかった。
言葉は、口の中にしかなかった。想いを遠くへ送るには、誰かの頭に覚えてもらって、運んでもらうしか、なかった。ボクも、ずいぶん、人の言伝を預かったものだ。
ところが江戸の世になって、町のあちこちで、静かに、とんでもないことが起きはじめた。百姓の子も、職人の子も、商人の子も、近所の小さな手習い所に通って、字を覚えはじめたんだ。読めて、書ける——それが、ひとにぎりの偉い人だけのものでは、なくなった。これは食い物や着物が変わるより、ずっと大きな変わりめだったと、ボクは、今でも思っている。
◇ ◇ ◇
文政八年(一八二五年)の春。江戸は神田の、裏長屋でのことだ。
その頃のわたしは、長屋の一間を借りて、近所の子らに、手習いを教えていた。いわゆる寺子屋ってやつだ。——歳を取らない身には、十年も同じ町に住むと、怪しまれる。だから子らがひと通り字を覚える、その数年だけ、こうして師匠におさまるのが、ちょうどよかった。
商いをしていた頃のわたしを、人は「先生」と呼んだ。
手習いの師匠といっても、わたしのような流れ者もいれば、寺の坊さんもいる。お社の神主、食いつめた浪人くずれ、近所で評判の手跡のよい町人——出自は、てんでばらばらだ。何をしてきた者かは知れずとも、字が書けて、人の子を預かるだけの人柄があれば、それで「先生」で通った。寺子屋というのは、お上がこしらえたものじゃない。町の親たちが、わが子に字を、と願って、おのずと、そこここに生まれていったものなのだ。
六畳ひと間に、子らがぎゅうづめに座る。歳もばらばらなら、進み具合も、てんでばらばらだ。もう『商売往来』を声に出して、すらすらと読みくだす十二の小僧もいれば、まだ筆の持ち方すら、おぼつかない子もいる。同じことを、一斉に教えるわけにはいかない。わたしは一人ひとりの前にしゃがんで、その子その子に合わせた手本を、書いてやる。
手本というのは、ただの書きうつしの見本じゃない。商家へ上がる子には、商いの言葉を並べた『商売往来』。在所の子には、田畑のあれこれを書いた往来物。手紙のやりとりを真似たその文句を、暮らしのなかで使う言葉ごと、覚えこませる。だから、その子がこの先どう生きるか、それを思いえがいて、一枚いちまい、手本をこしらえるのだ。
子らはそれを、ひたすら、写す。なぞって、写して、また写す。手習いというのは、つまるところ、人の書いた形を、自分の手にうつしとる稽古なのだ。背すじをのばし、肩の力を抜き、肘を張る。墨をする音、紙の上を筆が擦る音、たどたどしく読みあげる声——その混じりあったざわめきが、朝から昼まで、絶えることがなかった。
その日、わたしの前に、ひとりの男の子が、半泣きで座っていた。八つになる、豆腐屋の倅だ。筆を握る手が、ぶるぶると震えている。
「先生、おいら、どうしても書けねえ」
ほかの子らは、もう自分の名前くらい、すらすらと書く。けれどこの子だけは、なかなか、筆が言うことをきかなかった。肩に力が入りすぎて、墨はべったりとにじみ、線は、ぐにゃりと曲がる。たいていの師匠なら、できの悪い子だと、匙を投げたかもしれない。
わたしは、そうは思わなかった。
字を書くというのは、頭で覚えるより先に、まず、からだで覚えることだ。背すじ、肩、肘、手首、指の節々——その一つひとつが、ほどよく力を抜いて、はじめて筆はおもいどおりに動く。大人でさえ、なかなかできやしない。ましてや、八つの子が、慣れぬ筆の重みに、こわばってしまうのは、あたりまえのことだった。
長く生きてきて、わかっていたからだ。はじめの一歩というのは、誰にとっても、おそろしく重いものなのだと。
「あせらんでいい」とわたしは言った。「字ってのはな、誰だってはじめは書けん。わたしだって、最初はそうだった。背すじをのばして、息を、すうっと吐いて。ゆっくり、ひと筆ずつ、なぞってごらん」
わたしは、男の子の小さな手に、自分の手を、そっと重ねた。冷たくて、汗ばんだ、小さな手だった。そして、その手ごと、ゆっくりと筆を運んだ。
その子の名は、たった三文字だった。
一画、また一画。穂先が紙を噛んで、黒い跡を、残していく。とん、と打って、すうっと払う。男の子は息を止めて、自分の手の先を、まばたきもせずに、見つめていた。
最後の一画を、はらった。
紙の上に、まがりなりにも、その子の名前が、残った。
◇ ◇ ◇
男の子はしばらく、それを、じっと見ていた。それから、ゆっくりと顔を上げて、信じられない、という顔で言った。
「……これ、おいらの名めえだ。おいらが、書いた」
その目から、ぽろぽろと、涙がこぼれた。うれしくて、たまらないという涙だった。鼻のあたまに墨をつけたまま、しゃくりあげている。
夕方、迎えに来た父親に、男の子は、墨だらけの半紙を、宝物みたいに両手で突き出した。
「おとう。見ろ。おいら、名めえ書けたぞ」
豆腐屋の親父は、前掛けをしたまま走ってきたのだろう、まだ手にかすかに水の匂いをさせていた。その無骨な手で紙を受け取って、しばらく、黙って見つめていた。それから、ごつい指の背で、ぐいと目元をぬぐった。
「……そうか。書けたか。たいしたもんだ。たいしたもんだなあ」
その親父も、たぶん、自分の名前は書けなかったんだろう。だからこそ、わかったんだと思う。子が、自分にできなかったことを、できるようになった——それが、どれほどのことか。
わたしはその後も、何人もの子に、おなじように手を重ねた。商家へ奉公に上がる子。親の店を継ぐ子。なかには、遠い在所へ嫁いでいった娘もいた。みな、はじめて自分の名を書けたあの日、おなじ顔をした。世界がひとつ、ぱっと開けたような顔を。
あの豆腐屋の倅も、それからは、見ちがえるように筆が走るようになった。一年もすると、品書きだの、掛け取りの覚えだのを、自分で書きつけているという。たどたどしくはあっても、それはもう、まぎれもなく、その子の字だった。借り物ではない、その子だけの手で結んだ、その子だけの言葉だ。
◇ ◇ ◇
今では、誰もが読み、書く。文字は光になって、世界じゅうを、飛び交っている。自分の名前が書けるなんて、あたりまえすぎて、誰も、なんとも思わない。
でもボクは、忘れられない。あの、はじめて自分の名を書けた子らの、ぱっと輝いた顔を。何百人、何千人と、見てきた。
字を持つというのは、ただ暮らしが便利になる、というだけのことじゃない。自分という人間が、この世にたしかに在る——その証を、自分の手で、残せるようになる、ということだ。
名を書けるようになった子は、やがて、人に宛てて文を書く。覚え書きをのこす。値の交渉も、奉公先での挨拶も、すべて、その三文字からはじまる。あの裏長屋の六畳で、わたしが手を重ねてやったのは、たかが名前の三文字だ。けれど、その三文字が、その子の暮らしの、いちばん根もとのところに、ずっと座りつづけたのだと思う。
あの豆腐屋の倅も、今ごろは、とっくに土の下だ。けれど、あの子が震える手で書いた、にじんだ三文字を、ボクは今でも、ときどき、思い出す。
参考文献・もっと詳しく
※ 寺子屋は庶民の子に読み書きそろばんを教えた民間の手習い所で、年齢も習熟度も異なる子が同席し、師匠が一人ひとりに合わせて指導した。手習いの根幹は手本を写す模倣と反復であり、文字の習得は姿勢・所作と一体の身体的な訓練だった。教材には『商売往来』『庭訓往来』など、往復書簡を模した職業・身分別の「往来物」が用いられた。手習師匠の出自は僧侶・神官・浪人・町人など多様で、地域に根ざしていた。前近代の識字は時代・地域・身分・男女によって大きく異なるため、本話では普及の度合いを数値で断定せず、「ふつうの人は自分の名前すら書けなかった」「読み書きがひとにぎりの特権ではなくなった」という言い方に留めた。「識字」「教育」といった現代の概念語は本文では避け、「字が書ける」などの平易な言い回しにした。
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