第 28 話言語吉凶を書きそえた暦にも、白いところが残っていた
〜物忌で閉ざされた日、良任は何を包んで寄越したのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
良任は、書き損じの具注暦を、一枚も捨てなかった。写し違えた一枚も、配った先から幾年も経て戻ってくる使い古しの暦も、几帳の陰に積んでおいて、あとで何かの用に足す。ボクは、その良任のもとへ、幾年も自分の暦を求めに通っていた。
◇ ◇ ◇
寛弘五年(一〇〇八年)の年の暮れのことだった。われは京のとある官司に仕える下級の官人で、陰陽寮とは日ごろ行き来のない役向きだった。来る年の具注暦を、陰陽寮の暦生・良任のもとへ、自分の分として求めに通っていた。寮から配られる暦は、家々のあるじや上役の分だけで数がとどまり、われのような位の軽い者にまで余分の一枚はまわってこない。自分の使いの日取りを、いちいち上役の暦に伺いを立てて決めるのも肩身が狭い。欲しければ、みずから料紙を運び、良任に書き足してもらうよりほかなかった。
具注暦には、月日の下に、その日の吉凶や慎むべきことが、こまかな字で書きそえられていた。遠出に吉い日、人に物を貸すに凶い日、髪を洗うによい日、旅立つに凶い日。西へ向いてはならぬ日、方違えをする日、門を閉じてこもるべき日もある。種をおろす頃、苗を植える頃、稲を刈る頃——畑の頃合いまで記されていた。良任のような暦生が、暦博士の本に一字ずつならって幾本も写し取り、罫を引き、墨の乾きを待って、ゆかりの家へ配る。年の瀬になると寮の内では、その手が幾晩も休まることがないと聞いた。同じ月日でも、家によって書きそえる注の細かさが違うとも聞いた。位の高い家ほど、日々の注は控えめにして、日と日のあいだの間明きを広くとらせるのだという。あとで自らの筆で埋める余地を、はじめから空けておくものらしかった。書き上がった料紙は、月ごとに継ぎ合わされて、一年ぶんが一本の巻子に仕立てられる。読むときは、月をまたぐたびに、くるくると巻き進める決まりだった。それが年の瀬の陰陽寮の、毎年変わらぬ景色だった。
われが良任の文机をのぞくことは、めったになかった。訪ねれば、良任はいつも忙しく手を動かしていて、われはただ、戸口で仕上がりを待つだけだった。門のあたりには、われのように自分の分を求める下級の者や、家の使いに出された下働きが、日を置いて幾人も立っていた。墨のにおいが門の外まで漂ってきて、今日はどこそこの分が仕上がった、うちはいつになる、と小声でささやきあう声も聞こえてくる。毎年この時期になると顔を合わせる下働きの姿もあって、われも自然と会釈するようになっていた。値は銭でなく、持参の料紙のかさで量られた。急かしたところで、良任の手が速まるわけでもない。今年はいつ仕上がるか、良任の返事だけが、われには頼りだった。

その年の暮れ、いつもの刻限に陰陽寮を訪ねると、良任の姿がなかった。居合わせた暦生に尋ねると、気まずそうに首を振った。「良任は今日は物忌でな。誰とも会わぬと言うておる。明日にしてくれ」。物忌とは、暦に凶と出た日や、前夜の夢見が悪かったときに、几帳を立てて人を避け、身を慎むことだった。良任の曹司の簾にも、物忌の札が下がっていた。戸は固く閉て切られ、内からは物音ひとつしない。その暦生も、それ以上は取り合ってくれなかった。われはその札を見上げて、来た道をそのまま戻るよりほかなかった。年の瀬の忙しない最中に、暦そのものが、暦を作る人の足まで止めてしまう。それがなんだかおかしくもあり、少し腹立たしくもあった。寮の門前には、われのほかにも出直しを言い渡された者が幾人かいて、みな肩を落として散っていった。
翌日、あらためて訪ねると、良任はいつもの顔で、包みをひとつ差し出した。「待たせたな。今年の分だ」。中には、われが持参した料紙で仕上げた具注暦が、一年ぶんの巻子となって収まっていた。行の間隔は揃い、注の字にも乱れがない。真新しい紙の白さと、まだ乾ききらぬ墨のにおいに、一年ぶんの重みがずしりとある。これだけの手間を、この値で受けてくれたことに、われは頭を下げた。良任は、継ぐ前の料紙を一枚ずつ日にかざしては、罫の狂いや墨のかすれがないか確かめてから、ようやく巻子に仕立てるのだという。仕上がりに手を抜かぬ、その一点だけは、われも幾年も見てきて知っていた。包みの外側には、良任がいつもそうするように、使い古した紙が巻かれていた。反古の始末も、良任の仕事のうちだった。

寮を出て、外れの井戸端で包みを解くと、外側の反古は、何年か前の具注暦だった。日づけの吉凶はとうに用ずみのはずなのに、日と日のあいだの間明きには、見知らぬ手で、こまかな字がびっしりと書きこまれていた。今日は雨、誰それが訪ねて来た、子の熱がようやく下がった、庭の梅がほころびかけた、貸していた物が戻ってきた、隣家から菜をもらった、蔀を直させた、燈台の油が切れかけた——そんな、とりとめのない一日のことばかりが、月日の下に、途切れることなく積もっていた。紙の端はすり切れて、字の墨もところどころ色があせている。幾年もめくり返された跡だった。誰の手か、われには分からない。名を記した形跡は、どこにも見あたらなかった。だがその筆の運びには、日ごとに違う勢いがあって、勢いよく続く日、ぽつりと一言だけの日、機嫌のよい日、疲れた日というのまで、なんとなく伝わってくる気がした。同じ月日の欄が、書く人によってこうも違う顔を見せるものかと、われは紙を持つ手をしばし止めたままでいた。
位の高い家の主が間明きに筆をとるという話は、幾年も暦を求めながら、噂に聞くだけで終わっていた。誰のものとも知れぬ一年ぶんが、こうして手もとに丸ごと残っているのを見るのは、われにははじめてだった。良任はいつも、古い紙を無駄にしないために、手もとの反古を包みに使う。今日のこれも、その良任のいつもの流儀にすぎなかった。井戸端にしゃがんだまま、われはしばらく、その見知らぬ日づけの列から目を離せなかった。良任の几帳の陰に積まれていた反古の山にも、こうした一年一年が、まだいくつも眠っているのだろうと思った。われは紙の端を指でなぞり、すり切れた箇所をもう一度確かめた。
寮からもらった新しい具注暦を懐に、われは古い反古のほうも捨てずに持ち帰った。その晩、灯りのもとで新しい暦を広げ、来る年の吉凶の列にひととおり目を通してから、われはふと筆を執った。今日の日づけの、まだ何も書かれていない間明きへ、小さく一行だけ書きつけてみた。良任が物忌で会えなんだこと、それだけを。字はまだ拙く、墨のはみ出しもあったが、書き終えると、なぜだか肩の力がすこし抜けた。墨が乾くのを待つあいだ、井戸端で見た古い反古を、われはもう一度、灯りに透かしてみた。すり切れた紙の端も、色のあせた字も、これはこれで、悪くないものに見えた。
◇ ◇ ◇
今では、暦が何かを命じることはない。方違えも物忌も、ボクらの日々からは、もう遠い。
一日の終わりに何か一行だけ書きつけたくなる、あの感覚は、あの井戸端で古い反古を広げた晩から変わっていない。どの世の文机の上でも、たしかそうだった。
うなじに残る、あの晩の夜気の冷たさ。
参考文献・もっと詳しく
※ 具注暦(ぐちゅうれき)は、平安期に陰陽寮の暦博士が作成・頒布した、日づけの下に吉凶・禁忌・暦注・農事などの「注」を細かく書き加えた暦とされる。漢字で記され、主に貴族層に用いられた。日と日のあいだに間明き(行間の余白)が設けられており、藤原道長『御堂関白記』をはじめ、この間明きに日々の出来事を書きつけたものが、現存する古記録(日記)の母胎の一つになったと言われる。物忌・方違えなど暦注に基づく禁忌の習俗も平安貴族社会に広く行われたと伝わる。寛弘五年は一〇〇八年(寛弘は一〇〇四〜一〇一二年)。本話の人物・会話・良任という人名は創作。
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