今日が何の日かを、暦が教えてくれた——日づけに吉凶を書きそえた、日記のはじまりのこと25言語
言語平安のころ・京読了 約7

今日が何の日かを、暦が教えてくれた——日づけに吉凶を書きそえた、日記のはじまりのこと

門を閉ざした物忌の日、あるじはなぜ、空いた紙の端にその日のことを書きつけたのか

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koyomi

 今日が何月何日か、ボクらは一日に何度も確かめる。手のひらの板を点ければ、数字がすぐに浮かぶ。曜日も、その日の予定も、月の満ち欠けまで並んでいる。それでいて、その日づけが「何をしてよくて、何をしてはいけない日か」まで告げてくる、とは誰も思わない。日づけは、ただの目印だ。

 けれど昔は違った。日づけそのものが、人にものを命じたんだ。今日は遠出をしてよい日、今日は門を閉ざして家にこもる日、今日は西へ向かってはならぬ日——そういう吉凶や禁忌が、一日一日に細かく書きそえられた暦があったらしい。具注暦、と呼ばれていたという。

 暦の手は、月日の下に小さな字で、その日の善し悪しや、慎むべきことや、畑の仕事の頃合いまで書き入れた。だから人は朝にまず暦をのぞき、今日が何の日かを確かめてから動いた。日づけに従って暮らす——そんな日々を、ボクはそばで見てきた。

◇ ◇ ◇

 寛弘五年(一〇〇八年)の年の暮れのことだった。われは京の陰陽寮で暦を写す暦生のひとりで、写しあがった暦を、中務の官人・経澄さまの屋敷へ届けにあがっていた。

 年の瀬になると、来る年の暦が暦博士の手で仕上がってくる。一年の日づけの下に、その日の吉凶やら、慎むべきことやら、田畑の頃合いやらを、こまかな字でびっしりと書きそえたものだ。これを具注暦と呼んだ。注の入った暦、という意味らしい。寮ではこれを幾本も写して、ゆかりの家へ配る。墨をすり、罫を引き、博士の本に一字ずつならって写し取る。気の遠くなるような手間で、年の瀬のわれは、指の節が墨で黒く染まるほど筆を持ちつづけた。

 写しながら、日づけの下の注を、いやでも目で追うことになる。今日は何をしてよい、何をしてはいけない——それが日ごとに細かく決められている。遠出に吉い日、人に物を貸すに凶い日、髪を洗うによい日、爪を切るを慎む日。西へ向かってはならぬ日もあれば、門を閉じて一日こもらねばならぬ日もある。畑のことも書いてある。種をおろす頃、苗を植える頃、稲を刈る頃。月日のひとつひとつが、こんなにも物を言うものかと、写しながら何度も舌を巻いた。

 暦ができあがるのを、人々は首を長くして待っていた。来る年に何があるかではなく、来る年の一日一日が、自分に何を許し、何を禁じるか。それを前もって知っておきたいのだ。寮の門のあたりには、写しを受けとりに来た下働きが、年の瀬になると幾人もたむろしていた。早く写せ、うちのあるじが待っている、と急かされる。日づけがまだ墨も乾かぬうちから、人はもう、その日づけに従って動こうとしている。暦が世に出るより先に、暦が世を動かしはじめているようで、われはなんだか可笑しかった。

 暦をうけとった人々の暮らしぶりも、写しながら思い描いた。朝起きて、まず暦をのぞく。今日は吉い日だと知れば、安んじて出かける。今日は西塞がりだと知れば、いったん別の方へ泊まって、向きを変えてから目あての家へ向かう。方違え、というやり方だ。塞がった方角へまっすぐ行くのを避けて、わざわざ遠まわりをする。日づけと方角に、人がそこまで頭を下げる。今のボクには大げさにも思えるが、当時の人は、それを当たり前の作法として、まじめにやっていた。

 暦ができあがると、われはそれを抱えて、経澄さまの屋敷へ向かった。ところが門前まで来て、足が止まった。門が固く閉じられている。下男に声をかけると、すまなそうに首を振った。

 「今日はあるじが物忌でな。誰も内へは入れられぬのだ。暦は明日にしてくれ」

 物忌、というのは、暦に凶と出た日に、門を閉ざし、人にも会わず、家にこもって身を慎むことだった。前の晩の夢見が悪かったとき、暦の注が悪いとき、人は一日、世から身を退いた。札を簾にさげて、物忌の最中だと知らせる。われはその札を見上げて、出なおすほかなかった。日づけひとつで、こうも人の出入りまで止まってしまうのだ。

 翌日あらためて参ると、門は開いていた。昨日の慎みが嘘のように、屋敷はふだんの顔をしている。経澄さまは、ようやく届いた暦を、子のように大事そうに両手で受けとった。

 「これがないと、年が越せぬのだ」とあるじは笑った。

 その日、われはすこし長居をした。経澄さまが、できたての暦を膝に広げて、しきりに何やら書きこんでいるのが、めずらしかったからだ。のぞいてみると、日づけと注のあいだの、空いたところへ、小さな字を書きそえている。

 暦の紙は、上のほうに日づけと吉凶の注があって、下のほうは白く空いている。経澄さまは、その白いところへ、その日にあったことを書きつけているのだった。誰が訪ねてきた、どんな文が届いた、何を食うた、空はどうであった——そんな、とりとめのない一日のことを。

 「昨日は物忌でな、することもなかった」とあるじは、筆をはこびながら言った。「だからこうして、ひと日のことを書いておく。あとで読みかえすと、ああ、あの日はこうであったと、よみがえってくる。年を経るごとに、これが捨てがたくなるものでな」

 われは、その手もとをじっと見ていた。暦は、来る日に何をしてよいかを告げるものだとばかり思っていた。ところが経澄さまは、過ぎた日に何があったかを、その同じ紙に書きとめている。来る日を指していた暦が、過ぎた日を抱える器にもなっている。前を向いていたはずの紙が、いつのまにか後ろをも向いていた。

 「人によっては、暦の注なぞ読みもせず、ただ余白ばかり使う者もおるそうな」と経澄さまは言って、すこし笑った。「吉い凶いより、昨日の客のことを書きとめておくほうが大事だ、というわけだ。それも一理あるとわれは思う」。墨を含ませながら、あるじの筆は止まらない。雨が降ったこと、庭の梅がほころびかけたこと、誰それの位が上がったらしいという噂まで、こまかな字で日づけの下に積もっていく。一日が、ひと文字ふた文字の言葉になって、紙に畳まれていくのだ。

 「博士の注のおかげで、紙に空きがあるだろう」とあるじは言った。「この空きが、なんともありがたい。一日の終いに、ここへ一行書くのが、近ごろの楽しみでな」

 書きおえると、経澄さまは満ちたりた顔で巻きおさめた。そうやって書きためた古い暦が、文箱にいくつも重ねてあるのを、われは見た。一年が一本、また一本と、墨の字で詰まっている。あれは暦であって、もう暦ではない。あるじの過ぎてきた日々が、そっくり巻きこまれた、何か別のものだった。

 経澄さまは、古い一本を抜き出して、ためつすがめつ開いてみせた。何年も前の暦だという。日づけの吉凶は、とうに用ずみだ。けれどあるじは、吉凶のほうには目もくれず、下の余白の字ばかりを、なつかしそうに目で追っている。「ここに、亡き父の見舞いに行ったと書いてある」「ここは、はじめて子を抱いた日だ」。声がやわらいでいた。済んでしまった日の吉凶など、もうどうでもよい。あるじが手放せずにいたのは、その下に書きとめた、ありふれた一日のほうだった。来る日の善し悪しを告げるために配られた紙が、過ぎた日のいとおしさを抱える紙へと、いつのまにか化けていた。暦が、暦であることをやめて、その人の生きた日々そのものになっていたのだ。

 帰りぎわ、経澄さまは、写しそこねて余った白い紙を一枚、われにくれた。

 「お主も、何か書いてみるとよい。今日が何の日であったか。書いておけば、消えはせぬ」

 寮へ帰る道すがら、われはその紙をふところに入れて、何度も手でたしかめた。明日の吉凶ではなく、今日あったことを書くための紙だ。物忌の門前で追いかえされたことも、あるじが古い暦をなつかしんでいた横顔も、この一枚になら、書いておける気がした。墨が乾いてしまえば、今日という日はもう二度ともどらない。それでも書いてさえおけば、紙のなかには、ちゃんと残る。日づけに従って生きるだけだったわれの一日が、はじめて、書きとめてよいものに思えた夕暮れだった。

◇ ◇ ◇

 暦の余白に一日を書きつける、その小さな手すさびが、のちの世の日記になっていったと伝わる。残された古い暦のいくつかは、その下半分が、持ち主の一日でびっしりと埋まっているそうだ。暦として配られた紙が、いつしか、ひとりの来し方を抱えた帳面に変わっていたのだろう。

 今では、日づけが何かを命じることは、もうない。西へ行くなと暦に止められることも、門を閉じてこもる日も、ない。それはきっと、身軽でよいことなのだろう。

 それでも、ボクらはいまだに、一日の終いに、その日のことを書きとめる。手のひらの板の中へ、今日あったことを、ぽつぽつと打ちこむ。何を食べた、誰と会った、空はどうだった——経澄さまが暦の余白に書いていたのと、たいして変わらないことを。

 日づけが、ただの目印になった今でも。今日が何の日であったかを書きとめておきたい、というあの気持ちだけは、あの京の冬から、ちっとも変わっていないらしい。ふところの白い紙を、何度も手でたしかめた、あの帰り道のことを、ボクはまだ覚えている。

参考文献・もっと詳しく

具注暦(ぐちゅうれき)は、平安期に陰陽寮の暦博士が作成・頒布した、日づけの下に吉凶・禁忌・暦注・農事などの「注」を細かく書き加えた暦とされる。漢字で記され、主に貴族層に用いられた。紙面の下部が空白になっており、藤原道長『御堂関白記』をはじめ、この余白に日々の出来事を書きつけたものが、現存する古記録(日記)の母胎の一つになったと言われる。物忌・方違えなど暦注に基づく禁忌の習俗も平安貴族社会に広く行われたと伝わる。寛弘五年は一〇〇八年(寛弘は一〇〇四〜一〇一二年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の人物・会話・経澄という人名は創作。

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