01言語
言語平安のころ・山あいの里読了 約3

言葉という、いちばん古い荷物

文字を持たぬ人は、想いを、どうやって遠くへ運んだのか

 ボクが何百年も生きてきて、いちばん様変わりしたのは、食い物でも着物でもない。

 想いが、人から人へ届くまでの道のりだ。

 いまは指で文字を打てば、海の向こうにも一瞬で届く。便利になったものだと、つくづく思う。けれど、ずっと昔はそうもいかなかった。そもそも、字を書ける人のほうが、ずっと少なかったのだ。

 では、遠くの誰かへの想いを、人はどうやって運んだか。

 答えはいたって素朴だ。人の頭の中に、まるごと積んで運んだのだ。言伝(ことづて)ってやつだね。旅をする者に、言葉をそっくり覚えてもらって、託す。手前のような行商の身は、塩や針と一緒に、人の想いもよく預かったものだった。

◇ ◇ ◇

 長和四年(一〇一五年)の秋。手前は山あいの小さな里で、ひとりの母御(ははご)に呼び止められた。

 ——諸国を売り歩いていた頃のボクは、自分を「手前」と呼んでいた。

 秋の夕暮れだった。畦道の向こうに、刈り取りのすんだ田が、赤く染まっていた。

 「物売りのお人。あんた、都のほうへ上るのかね」

 「ええ、これから北へ。何ぞ、ご用で」

 母御は、しわの寄った手で手前の袖をきゅっと握った。聞けば、ひとり娘が春から都の屋敷へ奉公に上がったきり、なんの便りもないのだという。文(ふみ)のやりとりはできなかった。母も娘も、字を持たなかったからだ。

 「あの子に、伝えておくれでないか。……いいや、よしておくれ」

 母御は言いかけて、首を振った。

 「あたしは字も読めぬ。文も書けぬ。あんたに覚えてもらったところで、途中で間違って伝わったら、かえって、あの子を惑わせる」

 「なに、案じなさるな」と手前は言った。「手前の頭は、これでなかなか達者でしてな。一語一句、違えずに運びますとも。さあ、ゆっくりお言いなされ」

 母御はしばらく黙っていた。それから、ぽつり、ぽつりと言葉を選びはじめた。一語ごとに立ち止まり、考えこんで。まるで、ひと粒ずつ米をえらぶように。

 「……達者でいるか、とは……言わんでおくれ」

 「と、申しますと」

 「あの子は、達者かと問えば、たとえつらくても、達者と言う子だから」

 手前は、はっとした。たったひとつの問いの言葉にも、これほどの心づかいがある。問い方ひとつで、娘に嘘をつかせてしまう。それを母は恐れているのだ。

 「……そうさね」と母御は、また考えこんだ。「『こちらは案ずるな。田の実りもよかった』と。それから……」

 声が、すこし震えた。

 「『帰る家は、いつでもここにある』と。……それだけ、伝えておくれ」

 手前は、その三言を、声の調子ごと胸に刻んだ。母御がどこで詰まり、どこで声を落としたか。文字にすれば抜け落ちてしまう、その間(ま)までを、まるごと預かる。それが、言伝を運ぶ者のほんとうの仕事だった。言葉そのものより、その言葉にどれだけの思いがこもっているか。それを落とさずに運ぶ。

 「たしかに、承りました」

 手前が頭を下げると、母御は、ようやくほっとしたように笑った。たった三言の言伝に、ひと晩じゅう眠れぬほど思い悩んだ顔だった。

◇ ◇ ◇

 言葉は、たぶん、人が運んだいちばん古い荷物だ。

 やがて、仮名というやさしい文字がすこしずつ広まって、人々も想いを書きつけられるようになっていった。手紙が生まれ、飛脚が走り、電報が鳴り、いまは文字が光になって飛んでいく。運ぶ道具は、すっかり様変わりした。

 でも、誰かへの想いを、こわごわ、ひと言ひと言選びながら、誰かに託す——あの心もとなさだけは、千年経ってもちっとも変わっちゃいない。

 ……正直に言うと、ボクの中にはいまでも、とうとう届けられなかった言伝が、いくつも残っている。預かったまま、相手にもう二度と会えなくなった分だ。

 重くはない。ただ、ときどき、そっと取り出して眺めるだけだ。あの秋の夕暮れの、母御の声も、その中にひとつ。——あの娘には、ちゃんと届けられただろうか。それだけは、いまでもすこし気にかかっている。

参考文献・もっと詳しく

平仮名は万葉仮名の草書化を経て、九〜十世紀にかけて徐々にかたちを整えていったとされる。一人の手で、一度に作られたものではない。前近代の識字は、時代・地域・身分・性別によって大きく異なり、本話では数値での断定を避け、「字を書ける人は限られていた」という言い方に留めた。料紙や筆跡、薫香までを意味に変える手紙の美学は、主に都の貴族層の文化であり、本編の里の母娘には及ぼしていない。「識字」「伝達」といった現代の概念語は本文では避け、額縁でも「字を書ける人」などの平易な言い回しに留めた。

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