郵便局の三軒先の軒下に、暮れの筆の台が出た第 21 話言語
言語明治のころ・東京読了 約6分

郵便局の三軒先の軒下に、暮れの筆の台が出た

〜年に一度の「おめでとう」を、人はなぜ、わざわざ一枚の紙に託したのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 年が明けた朝、人はどうして戸口まで紙きれを取りにゆくのだろう。

 寝ぼけまなこで束の端をつまみ、立ったまま一枚ずつめくる。差出人の名を見つけて、手が止まる。袖口から冷気が入るのも構わず、ひとりで何度も読みかえす人もいる。

 ボクが筆と紙の店を出していたのは、明治四十年(1907年)の暮れ、東京の下町である。

◇ ◇ ◇

 わたしの店は、郵便局の格子窓から三軒ぶん離れた軒下にあった。煉瓦れんがづくりの立派な局ではない。窓口がひとつあるきりの、こぢんまりとした受け持ちの役所だ。店といっても台に筆と紙と墨と硯すずりをならべ、火鉢をひとつ置いただけのもので、屋号はない。町内の者は「甚三の筆貸し」と呼んだ。

 流れ着いて半年になる。諸国を歩いてきた足が、ここで止まっていた。町の者にしてみれば、わたしはどこの馬の骨ともわからぬ旅の者だ。

 十二月も半ばをすぎると、局の窓の前に人の列ができはじめた。年賀ねんがのはがきを出す者たちである。二十九日までに託しておけば、役所が預かって元日の朝にそろえて配ってくれる。受け付けの日は決まっていて、その先は締め切られる。その取り決めは、わたしが歩いた町のいくつかでは、とうに珍しくなかった。山あいの宿場で、元日の昼前に配達夫が雪を蹴って駆けこんできたのを覚えている。宿の者がそろって戸口に出て、名を呼びあげて受け取っていた。

 ところがこの町内では、取り決めはまだ半分も呑みこまれていなかった。

 大家の万造は、その筆頭だった。台に肘をつき、わたしの硯をにらんで言う。

 「年始は足で回るもんだ。紙っぺらで済ますのは、顔を見せたくねえ者のやることだろう」

 湯屋のおしずは逆だった。「出せるなら出したいよ、字さえ書けりゃね」と、暮れの忙しさに手をひらひらさせて笑う。町は賛成と反対にきれいに割れ、その真ん中にわたしの台があった。

 わたしは理屈を言わなかった。はがきは客が局の窓で求めてくる。そのまま台の前へ流れてきて、貸し筆を握ってはみるものの、手が止まる。寒さで墨が凍てつくので、火鉢のそばへ硯を寄せ、息を吹きかけながら磨る。指がかじかんで運べぬ者のぶんは、わたしが書いた。刷り物の賀状がじょうもならべて売った。松と鶴を刷りこんだもので、名さえ書けば出せる。気のきいた商家の主などは、それをひと山買っていった。

 けれど、刷り物では足りぬ者もいる。

 二十日をすぎた夕方、若い女が台の前で足をとめた。おてると名乗った。房州ぼうしゅうの海辺の在所を出て三年になり、いまは近くの奉公ほうこう先の台所で働いている。手は赤くひびわれていた。母の顔を、その三年ずっと見ていないという。母のもとへ届いた手紙は、いつも浦の寺の者が声に出して読んでくれるそうだ。刷り物の松と鶴をながめて、女は首をふった。よその絵とよその文句では、母に会ったことにならない、と。

挿絵:二十日をすぎた夕方、若い女が台の前で足をとめた

 おてるは台の端で、貸し筆を握ってみた。点を打っては筆をあげ、また打っては息をつく。三枚つぶしたところで、筆を置いた。「あたしの字じゃ、おっかあが笑うよ」と、赤い指をこすりあわせて言う。

 わたしははがきを台に据えて、書く前に宛名をととのえた。房州の郡の名、浦の名、家の名、母の名おなみ。縦にずらりとならべていく。宛名の下に添える番号札のようなものは、この世にまだ無い。そのかわり、郡から浦、浦から家へと、道筋をことごとく言葉にしてやらなければ、はがきは迷う。宿場の者がしていたように、書いたそばから宛名を声にして読みあげると、おてるは目を閉じて、母の名のところで小さくうなずいた。紙の上に細い道を引いて、先へ先へ歩いてゆくような心もちで書いた。

 文面は、おてるが一度だけ口にした言葉から拵えた。「達者でいるか、と」。ぽつりとそう言ったきりだった。その一言を芯にして、母御ははごさま、あけましておめでとうございます、こちらは息災そくさいにしております、と筆を運んだ。おてるの手のかわりに、わたしの手が書く。差出人の欄には、おてるの名を書いた。

 墨の乾くのを待つあいだ、おてるは赤い掌を腿にこすりつけていた。出来あがった一枚を両手にのせるようにして受けとり、窓口の列の最後尾についた。順番が来て役人に渡したあとも、しばらく窓のあたりに立って、行く先を見送るような目をしていた。

◇ ◇ ◇

 その冬、台の前には入れかわり立ちかわり人が来た。

 字の書けぬ年寄り。里へ帰れぬ小僧。海の向こうへ働きに出た息子をもつ、漁師あがりの父親もいた。この父親は、息子から届いた封筒を懐から出してきた。わたしは、そこに並ぶ読めぬ横文字の町の名を、絵でも写すように一画ずつ見本どおりに書いた。わたしの手が書いた賀状は、暮れのうちに四十枚あまりになった。どれも差出人の欄に書くのは頼んだ者の名で、わたしの名は一枚にも入らない。

 里へ帰れぬ小僧は、読み書きのできる兄貴分の字を真似て、貸し筆で自分の名だけを書いた。曲がった名の横に、わたしが文句を添える。小僧は出来あがった一枚を懐に入れ、局の窓まで、小走りに走っていった。足の裏が凍った道を鳴らす音が、台まで聞こえた。

挿絵:里へ帰れぬ小僧は、読み書きのできる兄貴分の字を真似て、貸し筆で自分の名だけを書い

 湯屋のおしずも来た。「あたしの字じゃ、親戚が読めないんだよ」と言って、しぶしぶ貸し筆を台に置く。文句は口で言わせて、わたしが書いた。言いたいことのほとんどは湯屋の愚痴で、はがきの狭い面には、結局「ことしもよろしく」の一行しか入らなかった。おしずは、それで足りたと笑った。

 二十九日の夕方、局の窓口は日が暮れても閉まらなかった。役人が格子の奥で、受け取ったはがきを行き先ごとに仕分け、麻の紐でくくっていく。窓の下には、白い息を吐く人の列が、通りの角まで折れて続いていた。なかには、わたしの台のそばまで来て、書き損じたはがきを握りしめたまま、また貸し筆に手をのばす者もいた。わたしはそのたびに、新しい墨を足した。きょうが最後だと、台の前の客に声をかけて回ったのもこの日だ。

 三十日の朝、若い職工が、書き損じを重ねた末の一枚を握りしめて窓へ駆けつけた。格子の奥で役人が首をふった。年賀の受け付けは昨日の夕で締めた、ふつうの便なら出せるが、元日の朝には間に合わぬ、と。職工は窓の前に立ちつくし、やがて台まで戻ってきて、握りしめた一枚をわたしに見せた。わたしは何も言わず、その紙の端を指で伸ばしてやった。

 万造は、その間いちども台に近づかなかった。だが毎日、局の窓の前を、わざわざ遠回りして通った。列が日ごとに伸びていくのを、腕を組んで見ていた。

 元日の朝、わたしは店を閉めて町を歩いた。

 乾いた冬の空気に、吐く息がまっ白に立つ。角を曲がると、肩から大きな鞄をさげた配達夫はいたつふが、せかせかと駆けてきた。鞄はぱんぱんにふくれている。一軒ずつ戸口に立ち、名を呼んで束を手渡していく。どの家からも人が出てきて、寒空の下で一枚ずつめくっては、口もとをほころばせた。差出人の名を見るなり、あっと声をあげて、その場で読みかえす者もいた。

 万造も戸口に立っていた。手のなかの一枚を、いつまでも見ていた。わたしに気づくと、ふいと背を向けて、家のなかへ入ってしまった。

 二日の朝、その万造が台の前に立った。何も言わず、折りたたんだ紙片を台に置く。広げてみると、下総の在にいる弟の宛名だった。元日に届いた一枚の差出人欄を、そのまま写したものらしかった。

 弟の屋号は、ところどころ墨がにじんで読みにくかった。わたしは一字ずつ指でなぞって確かめ、火鉢のそばへ硯を寄せ、黙って墨を磨りはじめた。年賀には遅れた一通だ。ふつうの便になると告げると、万造は「それでいい」と短く言った。墨のできあがるまでの間、台の脇で腕を組み、閉じたままの格子窓を見ていた。

◇ ◇ ◇

 年の瀬になると、ボクは今でも、書き終えた一枚の端を指で押さえて、墨の乾くのを待つ。

 あの冬に四十枚あまり書いた字は、どれも他人の名を負って遠くへ行った。はがきのどこにも、ボクの名は載らなかった。

 右の掌の親指のつけ根に、硯の角の硬さがある。

参考文献・もっと詳しく

※ 日本の郵便制度は明治四年(一八七一年)に創設された。年内の決まった日までに差し出した年賀状を元日にそろえて配達する「年賀郵便の特別取扱い」は明治三十二年(一八九九年)に始まったとされ、本話の明治四十年(一九〇七年)は、その仕組みが定着し年賀状が庶民へ広まりつつあった時期にあたる。

当サイトは Amazon アソシエイト・プログラムの参加者です。上記リンク経由の購入で当サイトに収益が発生する場合があります。

この話が続いてほしいと思ったら、心ばかりの応援をしていただけます。見返りのない、任意の支援です。

このサイトを応援する →
同じテーマの話
言語八つの子が書いた三文字言語ボクの、たくさんの「わたし」のこと言語吉凶を書きそえた暦にも、白いところが残っていた
同じ時代の話
文化続きは、またあした衣服一反の薔薇の銘仙と、祖母の袖口に残る縫い目文化首押さえの椅子の脇に立った母と、海を渡る少年