第 27 話言語ボクの、たくさんの「わたし」のこと
〜ひとりの人間は、生涯にいくつの「自分」を名乗れるものなのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
ボクのことを、ボクは「ボク」と呼んでいる。
いまの世では、これがいちばん、しっくりくる。あらたまりすぎず、かといって砕けすぎもしない。男が言っても、そう尖って聞こえない。だからボクは、ボクだ。
でもね。この呼び名ひとつにも、そこへ行き着くまでの道のりがあったんだ。
長く人を見てきて、ボクはおかしなことに気づいた。着るものが変わり、食うものが変わり、神さまの数まで増えたり減ったりするように——人が自分をなんと呼ぶか、それさえも、時代ごと、土地ごとに、ころころと移り変わっていく。
名乗りというのは、いってみれば、いちばん身近な着物だ。ボクはそのたびに、自分の呼び名を、そっと着替えてきた。
◇ ◇ ◇
うっすらとでも思い出せるいちばん古いところで、ボクは自分を「われ」と呼んでいた。
都がまだ若く、大路に牛車のきしむ音がしていた頃のことだ。やんごとなき御方々は、自分を「まろ」と言ったと聞く。やわらかく、丸い音だ。けれど薪や菜を背負って辻を売り歩くボクに、その雅な響きはどうにも不相応だった。
「これに、よき薪はあるか」と問われれば、「われが持つは、これくらいのもの」と答える。辻の隅に束を三つ四つ並べ、米ひとつかみや粗い布の端切れと替えてもらう。値のやりとりは短い言葉ほど通りがいい。われ、われ、と。もとは「我」の一字で、自分そのものを指す語だったと聞く。固くて、つつましい音だ。地べたを歩く者の声だった。今になって舌にのせてみると、あの辻の土ぼこりの匂いまで、ふっと戻ってくる。
同じ辻の向かいで菜を売る老女は、自分を「わらわ」と言っていたように思う。男と女で、自分を指す音が違う。道を挟んだだけなのに、隣の声は別の国の言葉のように聞こえた。どちらも都の空の下で、ごく普通に交わされていた。
◇ ◇ ◇
やがて世が荒れ、あちこちで刃の鳴る音がするようになった頃。ボクは「おれ」になった。
いまの人は、おれ、と聞くと、少し荒っぽく感じるかもしれない。けれどボクの見た範囲では、おれは、ただの当たり前の自称だった。畑を打つ百姓も、荷を担ぐ者も、夕方の辻で肩を回しながら、おれはもう歩けん、と言っていた。卑しい言葉には聞こえなかった。
ただし、腰に刀を差した御武家の前では、話がちがう。屋敷の門で荷を下ろすとき、ボクはすっと背を伸ばして「それがし、お届けに参った者にて」と名乗った。同じ自分の口から出る言葉なのに、門の外と内で、こうも変わる。おかしなものだろう。名乗りは、自分が誰の前に立っているかを、いちばん正直に映す鏡なのかもしれない。

戦の噂で村が浮き足立った夜のことも覚えている。荷をまとめて逃げる者どうしが、互いに「おれもだ」「おれも行く」と短く言い交わしていた。飾る暇のない土壇場では、自称はいちばん短く、いちばん素の形に戻る。ボクもその輪に混じって、おれ、と言って歩いた。
◇ ◇ ◇
太平の世が来て、ボクは江戸の下町に、ずいぶん長く居ついた。
棒手振の声が朝の路地を抜け、湯の煙と味噌汁の匂いが混じる町だった。
ここの水に馴染むと、口も自然と染まっていく。気づけばボクは「あっし」と言い、調子のいいときには「おいら」と言っていた。
「あっしの売りもんに、まがいもんはござんせんよ」——そんな啖呵が、するりと出てくる。早口で、威勢がよくて、語尾が跳ねる。井戸端で長屋の女房に値切られて、「そりゃあんまりだ、おいらの儲けがなくなっちまう」と泣き言を言う。女房は笑って、もう一つまけろと手を出してくる。あれは、言葉そのものが粋がっていた。自分を呼ぶだけで、もう江戸っ子の顔になれた。
湯屋の洗い場でも同じだ。見ず知らずの男が「おいらぁ、生まれも育ちもこの町よ」と湯を浴びながら胸を張る。聞かれもしないのに、まず自分の呼び名で素性を名乗ってしまう。そういう町だった。
◇ ◇ ◇
世が下るほどに、足を西へ向ければ、また呼び名が変わる。
上方や西国を回るときのボクは、「わし」になり、ところによっては「わて」と言った。商いのさかんな大坂では、「わて、ちょっと寄せてもらいまっせ」。これがまた、下町の「あっし」とは、まるで温度がちがう。やわらかくて、人なつこくて、どこか勘定高い。
船着き場へ荷が着く朝には、問屋の手代も仲買も、みな「わて」「わし」を飛ばしながら値を詰める。あの声の行き交う速さは、江戸の早口とはまた別の拍子だった。耳で拍子をつかめば、口は案外すぐについてくる。
一度、江戸の癖が抜けぬまま大坂の店先で「あっしは」とやって、番頭に目を丸くされたことがある。「あんた、えらい威勢のええこと」。笑われて、その日のうちに「わて」へ着替えた。
おもしろいのは、女子衆や子どもが「うち」と言うことだ。うちはな、うちはなあ、と。同じ土地でも、男と女で、大人と子どもで、呼び名は枝分かれしていく。ボクは旅をするたび、その土地その土地の「自分」を、ひとつずつ拾って覚えた。
◇ ◇ ◇
商家に出入りして、帳場の隅に座らせてもらう頃には、ボクはまた別の顔になった。

「手前は、しがない行商の者でございます」——商人どうしのあらたまった席では、こう名乗る。手前。これは、ぐっとへりくだった、よそゆきの自称だ。
室町の終わりの狂言にも例は見えるそうだが、商人があらたまって名乗る語として根づいたのは、江戸の商いの世だと聞く。だからボクも、この呼び名を覚えたのは、ずいぶん後になってからだ。自分を持ち上げる手前味噌の「手前」も、この自分のほうの手前だ。
掛け売りの帳面を前に、旦那へ頭を下げる。口の中で「手前」を転がすたび、膝が自然と揃う。ひとつの語に、姿勢まで決められているようだった。
盆暮れの勘定の日には、番頭が「手前どもの不調法で」と先に頭を下げる。客より先に自分をへこませてみせるのが、あの世界の礼儀だった。自称ひとつで、その場の高さが決まってしまう。
ちなみに、同じ「手前」でも、相手を指して「手前、いいかげんにしやがれ」と言えば、これはもう喧嘩の言葉になる。自分を指すか、相手を指すかで、へりくだりが、そのまま刃に化ける。言葉とは、つくづく油断がならない。
◇ ◇ ◇
そして、ちょんまげが消え、ザンギリ頭が増え、町にガス灯がともった頃。
ボクは、いつのまにか「わたし」と言うようになっていた。
向かいの店の若い衆が、昨日まで「手前」と言っていた口で、洋服の客に「わたしでよろしければ」と応じている。肩の力が抜けたような、軽い声だった。ボクも真似てみた。「わたしは、筆と紙を商っております」。固すぎず、砕けすぎず。身分でぎちぎちに縛られていた世が少しほどけて、誰もが横並びの「わたし」になっていく。その平らな響きが、ボクには、なんだか新しい時代の匂いに思えた。
その頃、幕末の志士たちが書簡に使いはじめた「僕」を、書生と呼ばれる若い学生たちがうけついで口にするようになったと聞く。もとは人に仕える立場をへりくだって言う語だったものが、気やすい自称に姿を変えたのだそうだ。ボクは耳を留めた。いまの自分の呼び名の遠い親戚が、あの学生たちの口の端にいたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
——こうして並べてみると、われ、おれ、あっし、おいら、わし、わて、手前、わたし。
ボクはこの長いあいだに、ずいぶんたくさんの「自分」を名乗ってきたものだ。どれも嘘ではない。どれも、まぎれもなくボクだった。その時代の、その土地の、その人たちのあいだに、すっと溶けこむための名乗りだった。
名乗りひとつ取っても、人の暮らしは、こんなにも移っていく。だからボクは、これからの話のなかでも、そのつど呼び名を着替えるはずだ。平安の辻では「われ」と、戦国の村では「おれ」と、江戸の長屋では「あっし」と。いちいち断りはしないけれど、もし「お、今日のボクはこんな呼び方だな」と気づいてくれたら、それはきっと、その時代の風に、あなたも少し触れたということだ。
名乗りは、旅の荷物のようなものだ。土地を離れても、手の癖のように、ふと古い呼び名が口をついて出る。そのたびにボクは、ひとつ前の自分と握手をしている。
そして今このとき、あなたに語りかけているボクは——やっぱり、ただの「ボク」がいい。
さて。そろそろ、ボクの話をしようか。
参考文献・もっと詳しく
※ 日本語の一人称(自称詞)は、時代・地域・身分・性別・相手との間柄によって移り変わってきた。「まろ」は平安の貴族層に好まれた自称、「手前」は室町末の狂言に自称の例が見え、江戸期の商いの世で改まりの言い方として根づいた。「僕」は幕末の志士の書簡に見え、明治に書生や士族の男性へ広がった。「あっし・おいら」は江戸の下町や職人、「わし・わて」は上方・西国、「うち」は女性や子どもに寄った言い方とされる。なお「おれ」の古い用法や「わたし」が階層をこえて広まった時期には諸説があり、本編では細部を断定していない。自分の呼び名が場面ごとに着替わるさまは、鈴木孝夫『ことばと文化』が日本語の特質として論じている。
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