祖母の無地と、娘の薔薇のあいだで
〜なぜ歳を取らぬボクは、装いの変わるはやさに、めまいを覚えたのか〜
着るものってのは、千年からのあいだ、そうそう変わらなかった。
麻が木綿になり、絹が広まって——たしかに、移りはあった。けれど、どれもゆっくりだ。ボクのような長生きでなければ、気づきもしないほどの、ゆっくりさだった。糸の太さも、染めの色も、襟の合わせ方ひとつにしても、変わるのに何代もかかった。
なのに、ほんの数十年で——明治から大正にかけて——人の装いは、がらりとひっくり返った。
女たちは、それまで地味だった着物に、目のさめるような派手な柄を、まといはじめた。銘仙という、安くて華やかな絹だ。矢絣に薔薇、菊に縞、見たこともない大柄の幾何模様——昔の人が見たら、腰を抜かしそうな取り合わせを、若い娘たちが、こともなげに身につけて、町を歩く。職人の娘も、商家の娘も、こぞって同じような、はなやかな柄を競いあった。和と洋とが、ぶつかり、まじりあう。あの時代の目まぐるしさといったら、なかったよ。
◇ ◇ ◇
大正十年(一九二一年)の春。とある町の、呉服店でのことだ。
その頃のわたしは、小さな呉服のたなの手伝いをしていた。
店の奥は、たとう紙の擦れる乾いた音と、藍や紅の染料がかすかに残る、新しい反物の匂いとで満ちていた。番頭が反物を、しゅっ、しゅっと巻きほどく音。算盤の珠を弾く、小気味よい音。日の差しこむ店先には、その季節いちばんの銘仙を一反、衣桁にかけて飾る。大きな矢絣の地に、真っ赤な薔薇を散らした、目の覚めるような柄だ。通りを行く娘たちが、そのたびに足をとめて、ためいきまじりに見入っていくのを、わたしは帳場のかげから、なんとも面白く眺めていた。
ある日の昼下がり、ひとりの若い娘が、母親らしき人と連れ立って、暖簾をくぐってきた。娘はまっすぐに、その薔薇の銘仙へ歩み寄ると、生地にそっと指を触れて、目を奪われている。つるりと滑る絹の手ざわりを、惜しむように、何度も撫でていた。
「おかあさん、これ。これがいいわ」
母親は、眉根を寄せた。
「およしなさい。そんな、けばけばしい。お祖母さまが見たら、なんとおっしゃるか」
「だって、もう、みんなこういうのを着てるのよ。地味な無地なんて、おばあさんくさいわ」
「おばあさん、とはなんです」
わたしはその親子のやりとりを、なんともいえない気持ちで、聞いていた。——着るものを巡って、母と娘が、こうして言い合う。それ自体が、もう、新しい時代の景色だったのだ。ほんの少し前まで、娘が何を着るかは、家が、身分が、決めるものだった。本人の好き嫌いなど、口にする隙もなかった。それが今では、店先で、母親を相手に、堂々と「これがいい」と言ってのける。たいした世の中になったものだ、と思ったよ。
娘は、母親が別の反物に気をとられた隙に、わたしのほうへ身を寄せて、こっそり耳打ちした。
「ねえ、おじさん。あたし、ほんとはね、洋服が着てみたいの。あの、丈の短い、革の靴をはいて歩くやつ。お写真でみた、あれ。……でも、お母さんが、絶対に許してくれないの」
わたしは、思わず笑ってしまった。なるほど、町には、洋服に身を包んだ娘も、ちらほら見かけるようには、なっていた。断髪に、帽子に、革の靴。けれど、それはまだ、ほんの一握りだ。たいていの娘にとって、朝起きて、まず手を通すものは、あいかわらず着物だった。この子が焦がれる洋服は、まだ、絵草紙や写真の中の、遠い憧れにすぎなかったのだ。
「そうかい。なら、まずはこの銘仙からだ」と、わたしは小声で返した。「これだって、お母さんの若い頃には、見たこともない派手さだろう。一足とびには、いかないものさ。着るものってのはね、こうやって、母さんを少しずつ困らせながら、新しくなっていくんだ」
娘は、きょとんとした顔で、それから、いたずらっぽく笑った。
「おじさん、変なことを言うのね」
「歳の功さ」と、わたしも笑った。——なにせ、その「少しずつ」を、千年からこのかた、ずっと、見てきたのだから。
◇ ◇ ◇
結局、母親も根負けしたのか、ひとしきり迷ったあげく、その薔薇の銘仙を、娘に買ってやることにした。「一枚きりですよ」と、ぴしゃりと釘を刺すのも、忘れずに。
番頭が反物を巻きなおし、たとう紙に包んで、麻紐を、きゅっと十文字にかける。包みを受け取った娘は、それを胸に抱きしめると、まるで宝物でも抱えるように、飛び跳ねながら、暖簾の外へ駆けだしていった。母親は、そのうしろ姿を、あきれたような、それでいてどこか、まぶしそうな目で、見送っていた。
たぶん、あの母親も。
その昔は、自分の母親に、同じことを言われたのだろう。「そんな派手なものを」と。そうやって時代は、母から娘へ、ひとつずつ、装いを塗り替えていく。今日の母の「あたりまえ」も、もとはといえば、祖母を嘆かせた「けばけばしさ」だったのだ。
わたしは思った。新しい柄、新しい色を恐れる母の気持ちも、それに焦がれる娘の気持ちも、どちらも、いつの世にも、あったものだ。平安の昔も、戦乱の世も、装いというのは、いつだって、母から娘へ、姑から嫁へと、小さく揉めながら、受け継がれてきた。「近頃の娘は、はしたない」——その嘆きの声だけは、わたしが知るかぎり、千年、ひとつも変わっちゃいない。
ただ、その移りかわりが、この時代は、あまりに速い。一代のうちに、何度も何度も、塗り替わっていく。昔は祖母の代から孫の代まで、同じような着物だったものが、いまでは、ほんの数年で柄が古びる。娘たちは、去年の流行を「もう古いわ」と笑うのだ。
◇ ◇ ◇
今では、わたしたちは、あたりまえのように洋服を着ている。
あれほど人々が、日々まとっていた着物は、いつのまにか、晴れの日にだけ袖を通す、特別なものになった。千年のあいだ、朝起きて、まず手を通すふだん着だったものが、ハレ着になったんだ。いまでは簞笥の奥で、たとう紙に大事にしまわれて、年に幾度か、虫干しのときにだけ、陽の光を浴びる。あの、安くて派手だった銘仙でさえ、いつしか「大正のころの、なつかしい品」と、珍重されるようになった。たいへんな変わりようだよ。
ボクは、あらゆる時代の、あらゆる着物を、まとってきた。肌をこする、ごわついた麻も。とろりと身に沿う、上等な絹も。そして、あの、安くて派手な銘仙も。一枚一枚に、それを織った人、染めた人、縫った人の、暮らしの匂いが、しみついていた。だからこそ、この変わるはやさには、いまでもすこし、めまいがするんだ。
……それに、町に洋服が増えていくのを眺めていると、ボクは、妙に落ち着かなかった。なんと言えばいいのか。長い長い遠回りの果てに、見覚えのある景色に、また一歩、近づいてきている——そんな気が、このあたりから、しはじめていた。
あの娘は、あの薔薇の銘仙を、すり切れるまで着ただろうか。そうして、いつか自分の娘に、「そんな派手なものを」と、眉をひそめる日が来たのだろうか。——それだけは、ボクも、いまでもときどき、ふと思い出すんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 銘仙は大正から昭和初期にかけて、若い女性を中心に人気を集めた、安価で華やかな絹織物で、解し織の技法により多彩で大胆な柄を生んだ(伊勢崎・足利・秩父・桐生・八王子の五大産地が知られる)。本話では生産反数などの具体的な数値は断定していない。なお、断髪・洋服の「モダンガール」は一九二〇年代後半の都市部における先端的かつ少数の現象であり、大正十年頃の一般の女性の日常着は、依然として和装(銘仙を含む)が主流だった。「皆が洋装化した」という一般化を避け、本編でも洋装は「町でちらほら見かける」少数として描いた。洋装化は、まず男性・公務・都市から先行した。
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