第 25 話文化誰も勝たない遊びに、なぜ人はあれほど夢中になったのか——落とさぬことだけを願った、雅な鞠のこと
〜鞠を落としかけた若君に、なぜ輪の人々は、咎めるどころか見事と声をあげたのか〜
球を蹴る遊びというのは、たいてい、どちらが多く入れたかを競うものだ。
網に向かって蹴り込み、入った数を数える。白い線の引かれた原っぱで、相手より一点でも多く取ったほうが勝ちになる。今の世で球を蹴ると言えば、まずそういう勝ち負けのある遊びを思い浮かべるだろう。点が入れば総立ちで沸き、負ければうなだれて引きあげる。勝った者がいて、負けた者がいる。それが当たり前だと、誰も疑わない。
ところが遠い昔、この国の都には、蹴っても蹴っても、誰ひとり勝たない遊びがあった。
鞠と呼ばれていた。鹿の革を縫い合わせた、こぶしふたつぶんほどの軽い球を、輪になった人々が足の甲で代わるがわる蹴り上げる。狙う網もなければ、引かれた線もない。ただ、その鞠を地に落とさぬよう、皆でいつまでも宙に置いておく——それだけの遊びだ。
点は入らない。だから数えるものがない。数えるものがなければ、勝ちも負けもない。
ボクが見てきたのは、勝つためでなく、ただ続けるために球を蹴った、そういう人たちのことさ。
◇ ◇ ◇
寛治三年(一〇八九年)の春のことだった。われは京の、とある公達の邸で、庭まわりの雑事に追われる下人のひとりだった。
その邸には、鞠庭という、よく踏み均された四角い庭があった。砂を敷き、小石をていねいに拾い、雨上がりには水のひいた頃あいを見はからって均す。足の裏に張りつく泥ではいけないし、乾きすぎて埃の立つ土でもいけない。その加減を任されていたのが、兼次という老いた侍だった。
兼次は、若い時分から鞠ひとすじに生きてきた人だった。庭の四隅には、松、桜、柳、楓が、寸分たがわぬ間をおいて植えられている。これを懸というのだと、兼次は教えてくれた。四本の木が立つその内側だけが鞠を蹴ってよい場で、木と木のあいだの広さにも、枝を払う高さにも、昔からの決まりがあるらしかった。
「この庭は、ただの庭ではないぞ」と、兼次は枝を見あげながら言った。「木の一本が傾いても、鞠の通り道が変わる。だから、おまえの均すこの土と同じだけ、この木も大事なのだ」
春のうららかな昼さがり、邸に公達や客人が集まって、鞠の会がひらかれた。
兼次が桐の箱から取り出した鞠を、われははじめて間近に見た。鹿の革を二枚、合わせて縫った白い球で、見た目よりずっと軽い。中は空ろで、握ると、ほのかに弾みかえす。けものの革のにおいが、かすかに鼻をかすめた。落とせばはずむというより、ふわりと浮きあがってしまいそうなほど頼りない。これを地につけずに蹴りつづけるのかと、われは内心、まさかと思った。
会のはじまる前、兼次はその鞠を、やわらかな布で何度も拭いていた。革は湿れば重くなり、乾きすぎれば張りを失う。ちょうどよい具合に保つのがいちばんむずかしいのだと、兼次はこぼした。庭を均すのと同じで、鞠もまた、人の手をかけてはじめて宙にとどまるものらしかった。
やがて公達たちが、色とりどりの装束に沓を履いて、庭へ下りてきた。袖をたくしあげ、裾をからげる。けものを追う狩りでもなく、刀をふるう武芸でもない。ただ軽い球ひとつを蹴るために、これほどの人が集い、身なりをととのえるのかと、われは妙な心持ちで見ていた。
ところが、人々が輪になり、ひとたび鞠が上がると、その「まさか」が、目の前でしばらく続いた。
ひとりが足の甲でふわりと蹴り上げる。鞠は高く弧を描いて、隣の者の前へ落ちてくる。その者がまた、危なげなく甲で受けて、ふわりと次へ送る。アリ、ヤア、と短い掛け声が、蹴るたびに庭を渡っていく。鞠は人の輪を右へ右へとめぐりながら、いつまでも宙に置かれたままだった。地に落ちる気配がない。
十、二十と数えても、鞠はまだ落ちない。蹴られるたびに、革のこすれる小さな音と、足の甲が球を捉える、ぽ、という乾いた音が、交互に庭に響く。その音が途切れぬあいだ、輪の人々の顔は、みな同じ方を——宙の白い球ひとつを追っていた。敵も味方もない。ただ、落とすまいという一念だけが、その場の皆をひとつに結んでいるように、われには見えた。
奇妙だったのは、誰も、力いっぱい蹴ろうとしないことだ。
網に入れる遊びなら、相手の届かぬところへ強く蹴り込むのがうまさだろう。けれどここでは、誰もが、次の者のいちばん蹴りやすいところへ、そっと鞠を置きにいく。高すぎず、低すぎず、ちょうど甲の上に落ちてくるように。受けた者が楽に送れるように。
われが目をまるくしているのを見て、兼次が、庭のはしで小声で言った。
「あれがな、上手というものだ」
いちばん上手な者とは、いちばん遠くへ蹴る者ではない、と兼次は言う。次の人が気持ちよく蹴れる鞠を送ってやれる者こそが、上手なのだという。自分が目立つためではなく、輪が続くために蹴る。それがこの遊びの、いちばんの肝なのだと。
手前勝手に強く蹴れば、たしかに見栄えはよかろう。けれど受け手が取りそこねれば、そこで鞠は落ち、輪は切れる。だから上手ほど、おのれを抑えて、相手のために蹴るのだという。蹴ることよりも、蹴らせることが、ここでは尊ばれる——兼次のその言いようが、われには、しばらく腑に落ちなかった。
その輪の中に、まだ年若い君がひとり混じっていた。
ほかの者にくらべて、足さばきがいかにもおぼつかない。鞠が前へ来るたびに、体がこわばるのが、遠目にもわかった。案の定、その君の甲に当たった鞠は、いやな具合に横へそれて、あわや地に落ちかけた。
われは、ああ、と声を呑んだ。続いていたものが、この君のせいで切れてしまう——そう思った、その刹那だった。
輪の向かいにいた年かさの男が、すっと身を低くして、地すれすれのところへ足を差し入れた。爪先が、落ちかけた鞠を、下からふわりとすくい上げる。鞠はまた高く宙へもどり、何ごともなかったように、次の者の前へ落ちていった。
地に落ちる寸前の鞠を救ったその足さばきに、輪のあちこちから、おう、見事、と声があがった。
われが解せなかったのは、そのあとだ。
鞠をそらして危うくした、あの若い君を、誰ひとり咎めなかった。それどころか、救った男のほうが、「いや、今のはよい鞠でした。おかげで足が伸びた」と、わざわざ君に礼を言うのだ。難しい鞠が来たからこそ、自分の足が冴えた、と。
咎められるとばかり思っていた君は、きょとんとして、それから、ほっとしたように頬をゆるめた。
「落とすことを、ここでは責めぬ」と、兼次がまた小声で言った。
鞠は、いつかは必ず落ちる。どれほどの上手が揃っても、地につく時はくる。落ちたら、また拾って、はじめからやり直すだけのことだ。だから、落とした者を責めても仕方がない。むしろ、危ういところを救った者をたたえ、難しい鞠を送ってしまった者にも「よい稽古をさせてもらった」と礼を言う。そうやって、誰も気落ちせぬように、輪をまわしていく。
「勝ち負けにすると、人は、おのれが勝つことばかり考える」と、兼次は言った。「己が勝てば、誰かが負ける。それでは、輪はすぐにほどけてしまう。落とさぬように、皆で続ける。それだけを願う遊びゆえ、咎める心は、いらぬのよ」
昼が傾くころ、あの若い君の番に、また鞠がまわってきた。
今度は、こわばっていない。君は息をひとつ吐いて、前へ落ちてくる鞠を、足の甲でやわらかく受けた。高すぎず、低すぎず——隣の者の、ちょうど蹴りやすいあたりへ、そっと送る。受けた者が、危なげなく次へつなぐ。
その一蹴りに、輪のあちこちから、よい鞠、と声があがった。網に入れたわけでもない。点が入ったわけでもない。ただ、次の人が蹴りやすい鞠を、ひとつ送れた。それだけのことで、君の顔は、春の日のように晴れていた。先ほど鞠をそらしてうなだれていた、あの同じ顔とは思えなかった。咎められなかったからこそ、君はまた蹴る気になれたのだと、われは思った。責めていれば、君はきっと、二度と輪に入ろうとはしなかっただろう。
われは、兼次のとなりで、いつのまにか息をつめてその輪を見つめていた。誰も勝たないのに、これほど人を夢中にさせる遊びがあるのかと、ただ驚いていた。日が落ちて鞠庭をまた均しながら、われは、明日もこの土の上で、あの白い球がめぐるのを見られるのだと思った。
◇ ◇ ◇
あの鞠の心は、その後も長いあいだ、この国に受け継がれていったらしい。
蹴鞠を伝える家がいくつか起こり、足さばきの作法や、懸の木の植えかたが書きとめられて、子へ孫へと渡されていったと聞く。勝ち負けのない遊びが、勝ち負けのない遊びのまま、何百年も絶えずに続いたというのが、ボクには、なんだか可笑しくも、いとおしい。
今の世の球技は、たいてい点を数え、勝者を決める。それはそれで、胸の躍るものだ。けれど、ときどき思う。落とした者を責めず、次の者の蹴りやすい球をそっと送り、危ういところを救った者をたたえる——あの輪のまわしかたは、球の遊びにかぎらず、人と人が長く何かを続けていくときの、ひとつの知恵だったのではないか、と。
誰も勝たない。誰も負けない。ただ、落とさぬように、皆で続ける。
あの若い君が、はじめて「よい鞠」と褒められたときの、晴れた顔を、ボクはまだ覚えている。
参考文献・もっと詳しく
- 『蹴鞠の研究——公家鞠の成立』ISBN 978-4-13-026055-8
- 『日本の蹴鞠』ISBN 978-4-8381-0508-3
- 『平安朝の年中行事』ISBN 978-4-8273-3075-5
- 『有職故実』ISBN 978-4-06-158800-4
※ 蹴鞠(けまり)は、鹿革を縫い合わせた中空の鞠を、数人で輪になり足の甲で蹴り継ぎ、地に落とさず続けることを尊んだ遊びとされる。勝敗を競うものでなく、次の者が受けやすい鞠を送ること・美しく続けることに価値を置いたと伝わる。庭の四隅に松・桜・柳・楓などを植えた「懸(かかり)の木」で鞠庭を定める作法があったとされ、起源は唐土(中国)の蹴鞠に遡り、平安期に貴族の遊びとして洗練され、後世に飛鳥井家・難波家などが家の芸として相伝したと伝わる。掛け声・装束・作法の細部は時代や流派で異同があり、本話の人物・会話・邸は創作。寛治三年は一〇八九年(寛治は一〇八七〜一〇九五年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。
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