村のはずれに、石が立っていた
〜なぜ人は、名もなき石に、手を合わせたのか〜
ボクは、数えきれないほどの村の境い目を、またいできた。
そして、どの村のはずれにも、たいてい同じものがあった。ちいさな石仏か、ただのまるい石。道祖神とか、賽(さい)の神とか呼ばれていた。旅人は、そこで足を止め、手を合わせ、小石や草鞋(わらじ)をひとつ供えて、また歩きだす。
なんで、そんなことを。若い頃の手前は、そう思っていた。ただの石ころに、なにを願うことがあるものか、と。
けれど、何度も野盗に遭い、何度も病の里を抜けるうちに、だんだんとわかってきた。あの石は、「内」と「外」の境目に立つ番人だったのだ。村というよく知った「内」と、何が出るか知れぬ「外」と。その境に立って、悪いものが入ってこぬように。出ていく者が無事に帰れるように。理屈ではない。心の支えだった。
◇ ◇ ◇
正嘉二年(一二五八年)、疫病(やくびょう)が流行った年だった。
あれは、鎌倉の御世のこと。手前が日暮れにある里へ近づくと、はずれの賽の神の前で、ひとりの老人がしゃがんで、何かを並べていた。小石がいくつか。それから、握り飯をひとつ。
「ご老人。精が出ますな」
老人は、顔を上げ、手前の旅装を見て、ふっと表情をやわらげた。
「旅のお人か。……この先の里は、入らんほうがええ。流行り病がひどうてな」
手前が黙っていると、老人は、石にもうひとつ小石を足して、つぶやいた。
「うちの孫も、先月連れていかれた。まだ五つだったに」
手前は、かける言葉をなくした。
「どこの誰が悪さをして、こんな病をよこすのか。わしらには、わからん。わからんから、せめてここで、お頼みするしかないのよ。これより先へは、もう入ってくれるな、と」
老人の言葉は、責めるのでも、すがるのでもなかった。ただ、わからぬものを前にして、それでも、手を動かさずにはいられぬ。そういう静かな声だった。
手前は、その隣にしゃがんだ。そして、自分の荷から、梅干しをひとつ取り出し——いや、その話は、また別の折に。とにかく、その時の手前にできたのは、一緒に手を合わせることくらいだった。
病の正体も、防ぎようも、その頃の手前には、うまくは言えなかった。ただ、この石に願う、その気持ちだけは、痛いほどよくわかった。わからぬものは、こわい。こわいから、せめて手を合わせる。それは、いつの世も、人のいちばん素直な姿だ。
「ご老人。手前も、ここで道中の無事を願わせてもらいます。……孫さんの分も」
老人は、しわくちゃの顔でありがとう、と言った。
「お前さんも、達者でな。この石が、ちゃんと送ってくれる」
石は、ただそこにあった。何も言わず、何も約束せず。それでも、ふたりの手のひらは、その冷たい石の上で、たしかにあたたかかった。
◇ ◇ ◇
あの石は、いまもたいてい同じ場所に残っている。
古い街道の辻に、苔むして、半分土に埋もれて。由来を知る人は、もういない。それでも、通りすがりに、なんとなく小銭を置いていく人がいる。願う言葉は、忘れられても、手を合わせる、その仕草だけは、何百年も生き残った。
ボクは、いまでも辻の石を見かけると、つい足を止めてしまう。あの夜、一緒に手を合わせた老人にも、その孫にも、もう会えない。
けれど、この石は、覚えている気がするのだ。ここを通っていった、数えきれない人々の無事を願う、その心を。——石は、何も覚えてなどいないのかもしれない。覚えているのは、いつもこちら側だ。それでも、人は、石に向かって手を合わせる。覚えていて、おくれ、と。
参考文献・もっと詳しく
※ 賽の神・道祖神の起源や成立の時期は、はっきりとはわからず、諸説がある。路傍に立つ双体の道祖神など、立派な石像が広く造られるのは、おもに近世(江戸期)以降であり、本編の鎌倉期の場面では「ちいさな石仏か、まるい石」に留めた。「内と外の境を守る神」という整理は、後世——とりわけ近代以降の民俗学による解釈であり、場面の村人には、経験則と口伝ての語り口(「悪いものが入らぬよう」)でのみ語らせ、後知恵の理屈は額縁の現代ボクに分けている。道祖神・賽の神・幸の神は、地域や時代で名も性格も多様であり、一括して同じ神とは断定していない。
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