第 08 話宗教平四郎が杉板に描いた、神さまへの一頭の馬
〜馬の消えた村の社の棚には、なにが並んでいたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
平四郎は、板を日にすかして節のありかをたしかめてから、墨をすった。
ボクが平四郎を見たのは、その夏の一夜きりだ。名を知ったのも、人垣のうしろで誰かが呼んでいたからにすぎない。いまもボクは、社の絵馬掛けの前を通ると、つい板の木目を目で追ってしまう。五寸ばかりの小さな板が、受かりますように、結ばれますようにと願いをのせて、ことことと風に鳴っている。その中に、節がちょうど馬の胴のあたりにおさまった一枚を見つけると、足が止まる。
◇ ◇ ◇
天文十三年(一五四四年)の夏、信濃の山あいの村でのことだ。雨の降らぬ夏で、田の土はひび割れ、稲は葉先から黄ばみかけていた。おれは塩や針を背負って歩く行商で、その日はたまたまこの村へ流れついた。
村は、ひどく静かだった。道ばたの柿の木も、葉を巻いたまま動かない。子らの遊ぶ声もなく、井戸端の女たちは桶を抱えたまま、ただ空ばかり見上げている。畦の草は埃をかぶって白茶け、用水の溝は底をさらしていた。どの家の厩も、戸が開いたままで、中は藁くずひとつ落ちていない。塩を量ってやると、女は小さな巾着から、ひとつまみの米を出して代わりに渡してきた。米の粒は、どれも細く痩せている。そのまま、女がぽつりと言った。近ごろの戦で、馬という馬は侍衆に曳かれていった。戦に出た息子も戻らぬ、と。
夕方ちかく、村の者がぞろぞろと社へ向かいはじめた。おれも荷を背負ったまま、そのあとについて行った。足もとの土は粉のように乾いて、踏むたびに白く舞いあがった。先を歩く年寄りの草履が、半分ほどすり減って、ひもだけが新しかった。
村のはずれの、小さな社だった。古い杉木立にかこまれて、苔むした石段が十あまり。のぼりきると、板葺きの拝殿が一棟、ひっそりと建っている。軒には朽ちかけた注連縄が垂れ、すり減った狛犬が一対、石の上で口を開けていた。掃き清められた庭には塵ひとつなく、村の者がこの社をどれだけ大切にしてきたかが、ひと目で知れた。
拝殿の脇に、杉の板を渡しただけの棚があった。そこに、小さな馬が並んでいる。いちばん奥は、木を削った馬だった。片手でつかめるほどの大きさで、鑿のあとが細かく走り、脚の折れたものが多い。その手前には、厚い杉の板に描いた馬が、壁に立てかけてある。墨は黒々と残り、胴も脚もまだたしかに見えた。入口にいちばん近いところには、もっと薄い板の馬が置かれていた。墨はほとんど剥げ落ち、木目の上に、目の一点だけが黒く残っている。

奥ほど重く、入口へ寄るほど薄い。おれは棚の端に立って、しばらくそれを眺めていた。木の馬の背は、撫でられて艶が出ている。厚い板の馬は、縁の角がまるく丸まっていた。どれも墨は黒一色で、白く塗った馬は一頭もない。薄い板の馬の目だけが、誰の手にも撫でられず、墨の黒さを守っていた。
拝殿の前に、日に焼けた、背の丸い老人がひとり、莚を敷いて座っていた。「平四郎じいは、馬飼いじゃった」と、うしろで誰かが言う。「うちの馬を、いちばん多く育てたのは平四郎じいじゃ」。老人は肩にかけた布袋から、手のひらほどの薄い杉の板を何枚も出して、莚の上に積んだ。硯石と筆も、同じ袋から出てきた。
一枚ずつ手にとっては、傾く日にすかして木目をたしかめる。節がちょうど胴のあたりにおさまる板、木目がゆるく流れて脚の運びに見える板。ときどき親指の腹で板の縁をなでて、ささくれの有る無しを探る。さんざん選んだすえ、ようやく一枚を膝の上に寝かせた。ふっと息を吹いて木屑を払う。
硯に水を落とし、墨をする。乾いた庭に、墨のすれる音だけが立つ。墨の匂いが、汗くさい人のにおいのなかに、すうと一筋とおった。年寄りも子どもも、老人の手もとから目を離さない。村の命運をその板にあずけた者の顔は、みな一様にこわばっていた。
筆は使いこんで柄の黒ずんだものが三本、硯石は端が欠けていた。硯の陸には、墨をすり減らした跡が深い窪みになっている。老人はそれを膝の前に並べると、指先で一本ずつ穂をほぐしてから、ひとつ息をついた。
筆をとった。穂先をたっぷり墨に含ませると、老人はしばらく板を見つめ、それから一気に動かした。筆の腹で、ぐいと胴を引く。返す手で、四本の足が地を蹴る形を打つ。木目に沿って墨がほんのりにじみ、それがかえって、汗ばんだ馬の毛づやのように見えた。穂先をきゅっと立てて、たてがみと尾を、風になびかせるように撥ねあげる。

みるみる一頭の馬が、板の上に立った。
けれど、まだどこか紙細工めいて見える。老人は筆を持ちかえ、いちばん細い穂先に墨を一点ふくませると、馬の顔へ近づけた。息をとめ、目のところへ、ちょん、と打った。
老人は筆を置いた。それきり、動かなかった。まわりの百姓たちも、息をとめたように黙っている。女たちは子の肩を抱きよせ、年寄りは膝をにじらせて、板の馬の顔をのぞきこんだ。こちらをじっと見返してくる黒い一点から、誰も目をそらせずにいた。
墨のかすれた胴の隙間から、杉の木目が透けている。目鼻と、四肢の運びと、なびく尾。それだけで、一頭の馬がたしかにそこに立っていた。
板を受け取ったのは、村の長だった。若い男で、肩がこわばっている。両手で捧げ持つ、その右の親指が、まだ濡れた馬の腹にかかっている。長はそのまま拝殿へ向かおうとした。
おれの手が、先に動いていた。板の縁へ指をのばして、親指を墨の面からそっと外させ、持つ向きを変えさせる。長が顔をあげた。おれは手をひっこめ、荷の紐を握りなおした。
長は黙って板を持ちなおし、乾くまでの間、胸の前でじっと抱えていた。
日が落ちて、社のあたりは藍色に沈んでいった。乾いた板は拝殿の右の柱に掛けられ、村じゅうがその前に膝をつく。ひとりの子が、棚の木の馬をそっと手にのせては、重さをたしかめるように持ちあげ、母に取りあげられて元の場所へ戻された。子は柱の板の馬を見つめ、やがて小さな手を合わせた。誰かが灯した松明の火が、板の馬を赤く照らしている。
おれはその晩、社の軒下を借りて夜を明かした。荷をおろして横になっても、柱の板の、あの目がこちらを見ているようで、なかなか寝つけなかった。
どれほど経ったろうか。ぽつ、と屋根を打つ音で目がさめた。ぽつ、ぽつ、と続く。軒先に手を出すと、たしかに濡れた。やがて、ざあ、と本降りになった。飛び起きた村じゅうの者が、雨のなかへ転がり出てくる。ずぶ濡れで手を打ち、天を仰ぎ、声をあげて泣いている者もいた。庭の乾いた土が、見るまに黒く染まり、あの粉のような土の匂いが、雨に立ちのぼった。
夜明け前、雨は小降りになった。右の柱の板を見ると、軒から飛んだ雨を浴びて、馬の墨が濡れた黒に深まり、艶が出ていた。目の一点だけが、濡れても黒いままだった。
棚の木の馬も、古い板の馬も、夜の湿りをふくんで色を濃くしていた。おれは荷の紐を肩に食いこませて背負いなおし、まだ濡れた石段を、ひとりでくだった。
◇ ◇ ◇
ボクは、いま買ったばかりの小さな絵馬の縁を、指でなぞってみる。板目のざらつきの奥から、削りたての杉の香。
参考文献・もっと詳しく
※ 絵馬の起こりは、神の乗り物として社へ生きた馬(神馬)を奉った風習にさかのぼり、生馬の奉納が負担となるなかで木馬、そして板に馬を描いて捧げる形へ代わっていったとされる(諸説あり)。雨ごい・止雨など切実な祈願に馬を奉る例が古くからみられる一方、手のひら大の小絵馬に多様な願い事を書きつける風習が庶民へ広く根づくのは近世以降とされる。天文十三年は一五四四年にあたる。※本文の人物・会話・情景は創作
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