上等な地獄
〜字の読めぬ人へ、仏の教えは、どうやって届いたのか〜
昔の人のほとんどは、お経なんて読めなかった。
ありがたい巻物を開いてみせたところで、墨で書かれた字の連なりは、村の人々にとっては、ただの模様だ。わかったふりをしてうなずく者はいても、ほんとうに読める者は、ひと村にひとりいればいいほうだった。
では、仏の教えはどうやって、そういう人々のところまで届いたのか。
答えは——絵だ。旅をする尼や法師が、極楽と地獄を描いた大きな絵を、村の辻や、寺の境内にひろげて、その前で、声に出して語って聞かせた。嘘をついた者は、地獄でこんな目にあう。人にやさしくした者は、極楽でこう報われる。指し棒の先で、絵のなかをゆっくり歩かせながら、ひと幕ひと幕、物語のように語っていく。「絵解き」というやつだ。聞く者は、字なんて一字も読めなくていい。ただ、指された先を目で追って、語り手の声に、耳をかたむけていればいい。文字の読めない人々にとっては、その極彩色の絵こそが、教えそのものだった。怖くて、そしてすこし、あたたかかった。
◇ ◇ ◇
文安三年(一四四六年)の夏。ある村の、寺の境内でのことだ。
——塩や小間物を背負って諸国を歩いていた頃の手前は、自分を「手前」と呼んでいた。
その日は、油蝉が、降るように鳴いていた。手前が古い銀杏の木陰で行商の足を休めていると、本堂の前のほうに、人だかりができている。覗いてみると、旅の尼がひとり、地面に筵を敷いて大きな絵をひろげ、長い棒で、それを指しながら語っていた。日に灼けて黒くなった顔、塵をかぶった素足、墨染めの衣はすり切れて、もう何年も、こうして道を歩いてきたことが、ひと目で知れた。
絵は、手前の背丈ほどもある掛幅が、二つ。片方には、おそろしい地獄の有様が、隅から隅まで、びっしりと描きこまれていた。煮えたぎる釜で、頭から茹でられる者。刃を上に向けて生えそろった、剣の山を、裸足で登らされる者。赤鬼青鬼に追い立てられ、鉄の鋏で、舌を引き抜かれる者。どれも色がどぎつく、血の赤と、炎の朱とが、夏の強い日ざしの下で、ぬらりと、生き物のように光っていた。墨で描いた一本一本の線が、暑さでゆらめいて、いまにも絵のなかから這い出してきそうだった。
村人たちは、子どもも年寄りも、固唾をのんで、それに見入っている。
「——よいか。生きとるあいだに人を欺き、物を盗み、おのれの腹ばかりを肥やした者はな。死してのち、この剣の山を、裸足で、登らされるのじゃ」
尼の、低くよく通る声が、蝉しぐれを縫って、境内に響いた。指し棒の先が、剣の山を、ゆっくりと、なぞり上げていく。前のほうにいた小さな子が、わっと泣き出して、母親の腰に、しがみついた。
「こわい、こわいよう」
「こわいか」と尼は、こんどは声をやわらげた。日に灼けた顔に、ふっと笑みのようなものが浮かぶ。「なら、こわがらんでええように生きればよいのじゃ。人にやさしゅうしなされ。嘘をつかず、ひもじい者には、ひと匙でも分けてやりなされ。そうすれば——」
尼は指し棒を、もう片方の掛幅へと移した。そこにはうって変わって、金泥でふちどられた蓮の池に、花の咲き乱れる、おだやかな景色が描かれている。鳥が舞い、たなびく雲のあわいに、楽の音までが聞こえてきそうだった。
「——こちらの、極楽へ参れるのじゃ」
泣いていた子が、その絵に、目を吸い寄せられて、しゃくりあげながら、ぴたりと、泣きやんだ。
◇ ◇ ◇
手前はその一部始終を、人垣の、いちばん後ろから、眺めていた。
手前はもう、ずいぶん長く生きていたから、知っていた。ほんとうの地獄なんてものは、あの絵の中になんか、ないことを。それは人と人とが、この世で、こしらえるものだ。戦も、飢えも、裏切りも。絵に描かれた鬼なんかより、よっぽど静かで、よっぽど、むごい。
この村も、いくさと飢饉を、いくたびもくぐってきたはずだった。げんに、頬のこけた者、目ばかりが大きな子、片親をなくしたらしい童が、人垣のなかに、ちらほら見えた。野良着の肘はすり切れ、足の指は、土と同じ色をしている。地獄を語る尼の声に、いちばん深くうなずいているのは、その、いちばん貧しい者たちだった。
なんとも皮肉な話さ、と、手前は最初、そう思った。この世でさんざん、生き地獄を見てきたはずの者たちが、絵に描かれた地獄のほうを、いちばん本気で、怖がっている。飢えて死んだ親の顔より、絵のなかの鬼のほうが、よほど確かなものに見えるのだろうか、と。
けれど——と、手前は思いなおした。
読み書きもできず、明日の米さえおぼつかない人々が、この絵の前で手を合わせ、「人にやさしくしよう」と、心を決めて帰っていく。それは決して、ばかにできることじゃなかった。むしろこの一枚の絵こそが、貧しい村に、たったひとつ届いた「やさしさの手本」だったのだ。難しい経文のかわりに、誰の胸にも、まっすぐ刺さるかたちで。
手前のすぐ前では、腰の曲がった老婆がひとり、しわだらけの手を、胸の前で固く合わせていた。何かをくり返し、小声で唱えている。ようく耳を澄ますと、それは経文でも念仏でもなく、ただ、「すまなんだ、すまなんだ」という、詫びの言葉だった。この婆さまが、長い暮らしのなかで、誰に、何を詫びているのか、手前は知らない。けれど、絵に描かれた地獄が、この人にだけは、絵空事ではないらしいことは、その背中を見れば、よくわかった。
日が傾いて、蝉の声が、ひぐらしの声に変わるころ、絵解きはようやく終わった。村人たちは尼の前に、なけなしの米のひと握りや、もぎたての瓜を、おずおずと供えて、それぞれの家へ帰っていく。さっき泣いた子は、母親の背で、極楽の絵の話を、何べんもせがんでいた。みな、来たときよりすこし、おだやかな顔をしていた。
手前は尼に、一夜の宿のかわりにと、塩をひとつかみ、分けてやった。尼は掛幅を、皺ひとつ寄せぬよう、ていねいに巻きおさめながら、礼を言って、こう言い添えた。
「絵が、人を救うわけではないのじゃ。ただ、人が、人を思いやる、そのきっかけになればええ。——それだけのことでな」
◇ ◇ ◇
あの、おどろおどろしい地獄絵は、いまでは美術館の、ガラスの向こうに、しんと静かに、うやうやしく飾られている。
人々はそれを「すぐれた美術品」として、腕を組み、首をかしげ、筆の運びや、彩色の妙を、感心して眺めている。傍らの札には、何やら難しい解説が、びっしりと書きつけてある。けれど、あの絵がかつて、字の読めない村人たちを、ふるえあがらせ、そして、やさしくさせた——そんな働きをしていたことなんて、もう、誰も思い出さない。あの夏の境内に立ちこめていた、汗と線香の匂いも、固唾をのむ気配も、母の背でせがむ子の声も、絵といっしょには、残らなかった。絵を描いた者の願いは、いつのまにか忘れられて、絵そのものだけが、きれいに、残った。
ボクは長く生きすぎて、人が、人の手で、人の上にこしらえる地獄を、いやというほど見てきた。鬼の出てこない、火も針も湧かない、それでいて、あの絵の何倍もむごい地獄を。だからなおさら、あの尼の絵のことを、思うんだ。
——絵に描かれた地獄くらいで、人がほんのすこしでもやさしくなれるなら。それはずいぶん安あがりで、ずいぶん上等な、地獄だったよ、と。
参考文献・もっと詳しく
※ 絵を指し示して教えを語る「絵解き」は、中世日本で、文字を読めない庶民へ仏の教えを伝える手立てとして広く行われた。地獄極楽図や六道絵を携えて辻・境内・村々を巡り歩いた宗教者が各地にいたが、その担い手は時代・地域によって多様で、本話では特定の宗派や固有名(熊野比丘尼など)に断定せず、「絵解きの尼」という一般像として描いた。地獄の責め苦の描写(剣の山・釜茹でなど)は、源信『往生要集』に説かれた厭離穢土・欣求浄土の地獄観を背景にもつ図像であり、本文の「死してのち」の語りは、あくまで尼の説法=当時の信心の範囲の描写にとどめ、語り手の世界観として断定するものではない。
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