第 34 話文化火鉢ひとつと、栗十粒、それから隣の爺さまの欠け皿
〜灰の底に炭を残したまま、隣の爺さまの火は、なぜ起きなかったのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
駅の待合室のベンチの足もとから、温風が吹き出している。並んだ人の靴先が、みな同じほうを向いていた。ボクもその列の端で、つま先を風にさらして、電車を待っていた。
◇ ◇ ◇
京の町なかは、永享五年(一四三三年)の冬、底から冷えた。盆地の底に山おろしが吹きこみ、町家の板戸は、隙間という隙間から風を通す。
おれは炭を背負って歩いていた。洛北の小野の里で炭を焼く者から、まだ暗いうちに炭を受けとり、山あいの道を下って京へ入る。小野のほうで焼かれた炭が町へおりてきて、それを町家のあいだへ売り歩くのが、おれの日々の仕事だ。朝に籠へいっぱいに積んで出て、暮れ方には底にわずかが残るだけになった。それを負ったまま、町はずれの小さな家の戸を叩いた。背の籠は空に近いのに、肩には朝の重みが、まだ食いこんでいる。炭を焚ける家は、町なかでも多くない。藁や柴を土間の炉で燃やすだけの家、火を持たず日向の縁で日暮れまで粘る家。冬のうちの炭売りは、戸を叩く先を選ぶ商いだった。
戸を開けたのは、十ばかりの童だった。寅松という。背に赤子をくくりつけ、足もとに三つの妹がまつわっている。
「炭屋か。ととが、炭をもとめると言うていた。銭は帰ってからだ。上がって待て」
銭の受け渡しは、家のあるじが戻らねば済まない。日は落ちかけている。次の家へ回るには、もう遅かった。断る口実がなくて、おれは籠をおろし、框に腰をかけた。
土間の奥の板の間に、土を焼いた大きな鉢がひとつ据えてあった。灰が厚く敷いてあり、その底に、炭が二つ三つ、赤くのぞいている。町なかの家で、火をひとつ持っているだけでも、恵まれたほうだった。先代が寺の下働きをしていて、古い鉢をゆずり受けたのだという。木を刳りぬいた箱の火桶を据える家もあると聞くが、この家のものは、土を焼いただけの、ずんぐりした鉢だった。縁には煤がこびりついて、口が少し欠けている。
寅松は、その鉢の前にしゃがみ、火箸で灰をかき寄せた。赤子をくくった背中が、手の動きにあわせて小さく揺れる。火箸は、先が曲がって、竹の柄が黒く光っていた。

炭を寝かせて置き、あいだをあける。そのうえへ灰を薄くかぶせて、真ん中に、火箸の先で小さな穴をひとつ。
それから、穴の口を、指の腹でほんの少しだけ狭めた。狭めすぎたのか、寅松は首をかしげて、また少し広げる。赤いものは、そのたびに、ふくらんだり縮んだりした。火のほうが、この童の手に合わせているように見えた。
灰の下で、赤いものがふくらんで、ぽっと明るくなった。
おれは、炭売りだ。炭がどう燃えるかは知っているつもりでいた。けれど、灰に息の穴をあけて火を生かす手つきは、知らなかった。指先ひとつで、火が長もちするかしないかが変わる。炭は銭がかかる。ひと晩で燃やしきってしまえば、その分だけ、明日の暮らしが薄くなる。この家の子は、それを、十ばかりの歳で身につけていた。大人の見ていない、こういう手すきのあいだに、覚えたのだろう。
寅松は、袋から栗をとり出して、ひとつずつ小刀で尻に切れ目を入れていく。数えたら、十粒あった。
「切らんと、爆ぜる。前に、爆ぜて、目に入りかけた」
切れ目を入れた栗を、灰の縁へ並べる。そのうち、ぱちりと音がして、栗の切れ目から白い湯気がひとすじ立ち、香ばしい匂いが、冷えた板の間のすみまで這っていった。おれの腹が鳴った。それを聞いて、妹が笑った。その笑い声に、背の赤子が目を覚まして、ふにゃりと顔をゆがめる。寅松は、背をゆすってあやしながら、栗の向きを火箸で変えた。焼けむらが出ると、どこかが生のまま残るのだ。
おれは、かじかんだ指を一度ぎゅっと握りこんでから、火のほうへ差し出した。じわりと、指の節がゆるむ。冬はまだ半ばで、先は長い。そう思うと、手を引っこめたくなる。それでも、火の前から動けなかった。
◇ ◇ ◇
妹が、おれの膝のあたりへ寄ってきて、汚れた手を火にかざした。爪のあいだに、灰が黒く詰まっている。そのまま、居眠りをはじめた。
やがて、戸がきしんで、父親の孫六が戻ってきた。肩に薪の束をかつぎ、鼻の頭を赤くしている。
孫六は、おれに軽く頭をさげ、手が冷たいのだろう、両の掌をこすりあわせて、鉢の前へどっかと座った。おれの籠から炭をひとつかみとり、いきなり鉢へどさりと積んだ。

火は、みるみる黒くなった。煙が立ち、ちりちりと嫌な音がする。積みすぎだ。
寅松は何も言わなかった。父親の横から手を伸ばし、火箸で炭をひとつずつ寝かせ直し、灰を少しかけ、もう一度、真ん中に息の穴をあけた。孫六は「おう」と言っただけで、手をかざした。積んだはずの炭が減っていることには、気づいていなかった。寅松の指の先は、灰で白く汚れていた。しばらくして、火は静かな赤にもどった。
妹が、外へ出ていった。戻ってきたときには、隣に住む老爺の手を引いていた。
その顔は、頬がこけて、目だけが大きかった。老爺は、框のところで足を止めた。申し訳なさそうな顔をしていた。ひとりで暮らしているという。連れあいを亡くして三年になるのだそうだ。手には、縁の欠けた小さな皿をさげている。灰が盛ってあるだけで、火の気はない。ただ、灰の底に、黒い炭がひとつ、埋もれたままになっているのが見えた。
寅松が、栗を灰から出して、ひとつ、老爺の手に載せた。それから、皿を受けとり、灰の面を指でならして、底の黒い炭の上へ、火箸の先で小さな穴をあけた。ふっと、ひと息吹く。黒かった炭の肌に、赤い筋がすっと走った。
「爺、朝まで持たせろよ」
息の穴のあけ方は、この爺さまの連れあいだった婆さまに教わったのだと、あとで寅松が小声で言った。その皿が、婆さまの使っていたものだという。爺さまは、灰をかぶせたまま、穴をあけずにいたのだろう。
老爺は、返された皿を両手で受けとって、しばらく眺めていた。皿の灰が、ほんのり赤みを帯びていく。それから、皿を足もとの板の間に置き、鉢の輪のはしに、ゆっくりと腰をおろした。
孫六が、はっとした顔をした。
「おい、寅松。炭は、うちも銭がかかるんだぞ」
「爺のぶんは、籠に残ってるのを、もらう。炭屋、いいだろ」
寅松の目が、まっすぐおれを向いた。孫六の目も、おれを向いていた。断れるものなら、断りたかった。けれど、皿を抱えた老爺の前で、口を開ける者はいなかった。
おれは、籠の底に残っていたのを、そっくり寅松の手に渡した。爺さまのぶんの値の話は、誰からも出なかった。
老爺は、鉢のはしで、栗の皮をむいていた。むいた栗を、口に入れずに、しばらく手のなかで転がしている。手のひらの熱を、大事そうに味わっているようだった。目をしばたたいていたのは、炭の煙のせいだけではなさそうだった。
孫六がつかんだ分の銭を数文受けとって、おれは戸口を出た。籠は空になった。背は軽いのに、肩は妙に重かった。夜の道は、やけに広く、寒かった。戸を閉める間際、振り返ると、隙間から赤い光が細く漏れて、板の間の四つの影と、ひとつ増えた影が、寄りあって揺れていた。
◇ ◇ ◇
いま、待合室のベンチに並んでいる人は、みな、缶の飲み物を持っている。缶は人数ぶんある。手のなかに、缶の熱がある。
参考文献・もっと詳しく
※ 炭火を器にいれて暖をとる道具は古くからあり、火桶や火鉢は平安のころから貴族や武家の調度として知られる。庶民の家にまで広く行きわたるのは江戸に入ってからとされ、室町の町家では、土を焼いた鉢に灰を敷いて炭を埋けるほどのものが多かったと考えられる。京の炭は洛北の小野のあたりの産が名高かったと伝わる。灰に息の穴をあけて火を持たせる手つきや、欠け皿の火種は、この話のための創作である。栗は古くから食べられてきた木の実で、実の皮に切れ目を入れずに火にくべると爆ぜる。永享五年は一四三三年。※本文の人物・会話・情景は創作。
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