第 81 話衣服継ぎの上に、なお白い糸を刺す雪の里の夜
〜継ぎの上へ、人はなぜ糸を足し続けたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
継ぎだらけの小さな着物に、なぜ、まだ糸を刺すのか。破れた場所を塞げば、それで済むはずなのに。
あの頃の庶民の着物には、まだ木綿が無かった。着るものは、苧を績んで織るところから始まる。ボクは、その布の一枚を、雪の里の百姓家で見せられたことがある。
応永二十年(一四一三年)の冬のことだ。
◇ ◇ ◇
雪は、日暮れ前から降りはじめた。谷の道は、見る間に白くなり、行く先の家の屋根だけが、黒く浮いていた。
おれは針と糸の包みを背負って、谷あいの百姓家の戸を叩いた。出てきたのは背の曲がった婆さまだった。戸口で草鞋の雪を払うおれを、上から下まで一度だけ見て、背の包みで目を止め、先に口を開いた。
「針売りか。針を見せてくれ。それで、炉端に上がっていい」
土間で草鞋を脱ぎ、包みを解いて針を並べた。婆さまは、一本ずつ摘んで、指の腹で針の尻をなぞり、目に近づけて穴をのぞく。曲がりのあるものは黙って脇へ寄せた。並べた針は十ほど。婆さまが選んだのは三本だった。
「これでいい」
それが宿賃だった。おれは包みをたたみ、土間から炉端に上がった。足裏が、藁の下の冷えに吸いつく。壁の隙間から風が入って炉の火がそのたびに片側へ傾いた。
隙間には、藁が詰めてあった。詰めた藁の上からまた藁を詰めた跡が、いくつも重なっている。この家は塞ぐことを毎年やってきたのだ。
炉のそばに、母親がいた。ちいさな着物を膝に広げて、針を使っている。おれが上がっても、顔を上げなかった。炉の向こうでは子どもがふたり、藁くずの中で身を寄せ合って、こちらを見ている。上の子は、おれの背の包みから目を離さない。脇へ寄せられた曲がりの針を一本、渡してやると、両手で受け取って炉の火にかざし、片目をつぶって穴の向こうをのぞいていた。下の子は、まだ言葉にならない声をときどき漏らした。
着物は、継ぎの上に継ぎが重なり、もとの布の色が残るのは袖口のわずかなところだけだった。継ぎの布は、どれも色が違う。茶に灰にくすんだ白。この家の誰かが、先に着ていた布らしかった。その上を、白っぽい糸が、縦に、横に、また縦に走っていく。苧の糸だ。一目進むたびに、糸を引くかすかな音がした。針を持つ手の甲には、あかぎれが走っている。糸を引くたびに、その割れ目が、白く開いた。糸が足りなくなると、母親は歯で切り、先を舌で湿らせて、針の穴へ通した。穴を見ずに通した。

「冬のうちに、刺しておくもんだ」
婆さまが、炉に薪を足しながら言った。
「この谷は、昔からそうする」
母親の針目は指ひとつぶんの間を空けて、まっすぐに並んでいた。継ぎのふちまで来ると、布を返して、同じ幅で戻ってくる。行きと帰りで、糸は交わらない。それが何度も重なって継ぎの上に格子ができていく。
それから婆さまは、棚の籠から布をひと包み出して、おれの前に置いた。
「これは、わしが嫁に来たとき姑がくれたもんだ。もとは何色だったか、わしにも分からん」
広げると、着物の形をしていた。いや、着物だったものと言うほうが近い。継ぎは何重にも重なり、刺し目は詰まって板のように硬い。持ち上げると、見た目より重かった。袖口のほうだけ、布が柔らかい。
「火に、かざしてみい」
言われるまま、おれは炉の火に布をかざした。継ぎの薄い袖口は火の色が透けて朱く染まる。刺し目の詰んだ身ごろはまるで火を通さず黒いままだった。同じ一枚の布の上に朱いところと黒いところがはっきりと分かれていた。
火の下で見ると、刺し目の糸にも色の差があった。外の新しい糸は白く、奥の古い糸は煤と脂で茶ばんで、布と見分けがつかない。糸は、何度も上から刺し足された跡だった。
婆さまは、それ以上、何も言わなかった。布を畳み直して籠に戻し、代わりに棚から苧桶を下ろした。桶には白い繊維の束がふわりと詰まっている。
「この桶も、姑のもんだ。嫁に来た晩に、渡された」
婆さまは、その束から、ひと筋を爪で細く割き、指先に唾をつけて次の筋とつないだ。つないだところを膝の上で手のひらでこする。つないだ繊維は膝の上をころがされて長くなり、桶の中へとぐろを巻いて落ちていく。
母親の針は、その糸を使う。婆さまの手から、母親の針へ。針目ひとつぶんの糸にも、割いてつなぐ手間が先にあった。おれは指のこすれる音を、しばらく聞いていた。
母親が、縫いかけの着物を上の子に着せた。袖を通した子は肘をぐるりと回して炉端を一周する。母親は袖口の糸の端を指でつまんで確かめた。袖口の刺し目は、まだ白かった。その袖は、まだ破れてもいない。破れる前の場所へ、母親は継ぎの上と同じ幅で糸を置いていた。おれは継ぎを数えてみた。袖だけで七つあった。

母親が、はじめて口をきいた。
「薄いが、あったかいうちに」
粥が出た。稗の粥で、塩はほとんど入っていなかった。碗は、子らとおれに一つずつは回らなかった。おれの碗は下の子と分け合う碗で、婆さまと母親は炉の向こうで鍋の底をさらっていた。下の子は、おれが碗を傾けるたびに、縁へ小さな手を伸ばしてきた。
食べ終わると、婆さまが籠の底からひどく傷んだ布を出した。指で軽く裂くと布はぷつりと割れた。
「これは、もう着物にならん。赤子の尻の下に敷く。近所に、生まれたのがおる」
そう言って、婆さまは、土間の雑巾の山と炉端の焚きつけの束へ順に目をやり、そのたびに指を折った。折った指を握り込み、拳を、膝の上に置いた。
下の子が炉端に膝をついて這ってきた。膝には当て布が何枚も刺し重ねてあった。指ひとつぶんの厚みに、刺し固められている。子は、おれの草鞋の紐を引っぱって、笑った。
やがて子らは、着物を着たまま、藁の中で寝入った。上の子の寝息は深く、下の子はときどき寝返りを打っては上の子の背に額を押しつけた。梁には炉の煤が黒く厚く垂れている。
婆さまは、おれの寝床にも藁を厚く敷いてくれた。上に掛けたのは、継ぎの重なった古い布だった。いつの誰の着物か、袖の形だけが残っている。肩に載せると、重さが足先のほうへ、ゆっくり降りていった。足裏の冷えが、布の厚みの向こうへ、遠のいていく。
夜が更けて、おれは炉に手をかざした。指がぬくまる前に引っ込めて、膝を抱え直す。屋根に積もる雪が、ときどきどさりと落ちた。そのあいだも母親の針は止まらなかった。糸を引く音だけが、炉の向こうで、ずっと続いていた。
朝になって、雪はやんでいた。戸の外は一面の白で、屋根の藁から解けはじめた雪の雫がぽつぽつと落ちている。母親は、昨夜の着物の続きを刺していた。おれが戸口に立っても、顔を上げなかった。炉端では、婆さまがもう苧桶を膝に引き寄せている。糸を引く音が、背中のほうで続いている。
上の子が、戸口までついてきて、袖をおれの顔の前に突き出した。刺し目が、雪の照り返しで、白くまぶしかった。おれは、うなずいて見せた。
戸口を出ると、隣家の女が赤子を背負って雪の中を上ってくるところだった。婆さまは、昨夜の裂けた布を手のひらに載せて女に渡した。女は頭を下げて懐から干した菜をひと束出し、婆さまの手に置いた。それだけのやりとりで、二人は別れた。
雪に残る足跡は、おれのものと、隣家の女のものだけだった。
谷を下りるあいだ、雪を踏む足裏の下で、きしむ音がずっとついてきた。
◇ ◇ ◇
いまこうして座っていても、膝と足裏から冷えがのぼってくる。あの晩の下の子の膝には、刺し固めた当て布が幾枚も重なっていた。いまの子どもの膝は、抜けた穴を残したまま、ズボンごと手放される。
参考文献・もっと詳しく
※ 室町期は、木綿が庶民の衣料として広まる以前にあたり、当時の庶民の労働着にあたる衣は、麻(苧麻・大麻)が主であった。本編の場面では布を麻、糸を苧の糸として描いている。「刺し子」という様式の名や体系が整えられ、地方ごとの技法として隆盛するのは、おもに近世(江戸期)以降——木綿の普及した後とされるため、場面では「刺し子」とは名指さず、「糸で刺して布を厚くする」所作のかたちで描いた。
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