第 43 話文化遠い国へ発つ子の姿を、光と銀で一枚に留めておいた日のこと
〜海を渡る我が子を写場の椅子に座らせた母は、なぜ「動くな」のひと言に泣きそうになったのか〜
写真というものは、過ぎてゆく今を一枚、そっくり留めておくものだ。
絵姿とは、わけが違う。絵師の描く似顔は、どれほど巧みでも、筆をにぎる人の心ばえがどこかに滲む。少し若く、少し凛々しく、描く者の思うがままにそっと形が直されている。ところが写真は、そうはいかない。光がそのまま硝子の板へ焼きつくのだから、目の下のくまも、ほつれた鬢の毛も、着物の襟のよれまでがありのままに写ってしまう。よくも悪くも、その人の、その日の姿がまるごと一枚に固まるのだ。
それを写しとるのは、日の光と、ひとつまみの銀だと聞いた。硝子の板に薬を塗り、暗い箱の奥でしばらく光にさらす。すると目には見えぬところで光の当たった分だけ銀が黒く変わり、人の姿がそこへ立ちのぼってくる。動かぬ今というものが、銀の粒のあいだにそっくり閉じ込められるのだ。
ボクが見てきたのは、その一枚を、別れぎわの人がどんな思いで撮らせたかということだ。写真に写るというのは、ただ姿を残すだけのことではなかった。動いてはならぬと言われたその一瞬に、人は、いちばん留めておきたいものを息を詰めて見つめていた。
◇ ◇ ◇
明治十五年(一八八二年)の春のことだ。わたしは横浜の写真館で、写場の下働きをしていた。
写場というのは、北向きの広間に屋根いちめんを硝子で張った妙な部屋だった。日の光をたっぷり取り込むためだという。その光の落ちるところに、背の高い椅子が一脚すえてある。客はそこへ腰かけ、写真師の合図を待つ。椅子のうしろには、鉄の棒に小さな股のついた首押さえという道具が立っていた。後ろから頭をそっと挟んで、ぐらつかぬよう支える仕掛けである。
なぜ、そんなものがいるのか。写真というのは、写すのにずいぶんと長くかかったからだ。
写真師が箱の蓋を開けてから閉じるまで、客はその間じゅう、まばたきひとつせずじっとしていなければならない。少しでも動けば、姿がぼやけて二重に流れてしまう。だから誰もが、首押さえに頭をあずけ、息を殺し目をひとところに据えて固まっていた。写真に写る人の顔が、どこか強ばって見えるのは、そのせいだ。撮られている間じゅう、人は、笑うどころか息をするのもこらえていたのだから。
その日、写場へ上がってきたのは、年のころ四十ほどの母親と、十五、六と見える男の子のふたり連れだった。
母親は、よそ行きらしい、けれど幾度も着なれた紬をきちんと着ていた。男の子のほうは、真新しい筒袖の洋装に堅い靴をはいて、どこか落ち着かぬ様子で足を踏みかえている。聞けば、この子は近いうち、船に乗って遠い国へ渡るのだという。海の向こうの学問を修めに、何年も帰らぬ覚悟で発つのだと。
母親は、その発つ前に、せがれの姿を一枚、写しておきたいのだと言った。
「もう、なん年も、この顔を見られぬかもしれませんから」
そう言って、母親は息子の肩の埃をはらい、襟をなおし、ほつれてもいない前髪を指でそっと整えてやった。何度も、何度も、撫でるように。男の子は、かか、よせ、というふうに肩をすくめたが、母の手を払いはしなかった。
◇ ◇ ◇
写真師が、男の子を椅子に座らせた。
首押さえの股を後ろからそっと頭にあてがう。手を膝に置け、目はあの黒い箱を見よ、と言いつける。男の子は言われるまま、背を伸ばし箱のほうへ目を据えた。新しい洋装の少年が、固い椅子の上で石のように動かなくなる。
わたしは、母親を、椅子の脇のほうへ寄らせた。母と子をならべて、一枚に写すためである。
ところが、母親は、なかなか落ち着かなかった。せがれのそばへ寄りながら、その横顔をつい見てしまう。隣にいるのに、目だけが息子のほうへ流れてしまうのだ。明日にも海へ出て、いつ帰るとも知れぬ子だ。いま、目の前にいるその顔を、一分でも長く見ておきたかったのだろう。
写真師が、低い声で言った。
「奥さん。撮りますよ。どうか、動かんように。お子さんのほうも、見ないでください。箱を、まっすぐに」
動くな、見るな、と言われて、母親の肩が、びくりと強ばった。
わたしには、その背中がこらえているのが見てとれた。すぐ隣に、いとしいせがれの顔がある。手を伸ばせば、頬にも触れられる。けれど、動いてはならぬ。見てもならぬ。この一枚を、ぼやけさせぬためには、いま、いちばんしたいことを、ぜんぶ我慢しなければならなかった。母親は、まっすぐ前の黒い箱を見つめ、唇をきつく結んで、息を止めた。
写真師が、箱の蓋を、すっと開けた。
長い、長い、しずかな間だった。硝子の屋根から、春の白い光が、ふたりの上へ静かに降っている。母も子も、彫りつけられたように動かない。写場には、誰の息の音もしなかった。光と銀が、目に見えぬところで、ゆっくりとふたりの姿を硝子へ写しとっていく。その一瞬を、長く長く引きのばして、留めているのだ。
わたしは、母親の目を見ていた。
まっすぐ前を向いたその目に、じわりと、水が盛り上がってきた。動けば写真がだいなしになる。だから、こぼすわけにはいかぬ。母親は、まばたきもせず、あふれそうな涙を、ただ目のふちで支えていた。動くな、と言われたその一瞬に、この人は、隣にいる子の顔ではなく、心の裏に焼きつけたその面影を、まなうらでじっと見つめていたのかもしれない。
やがて、写真師の手が、ことり、と蓋を閉じた。
止まっていた時が、また動きだした。母親は、こらえていた息を、ふうっと吐いた。とたんに、目のふちで支えていたものが、すっと頬を伝った。母親はあわてて手の甲でぬぐい、それから、隣のせがれを見て、照れたように笑った。男の子も、強ばった肩をほどいて、首押さえからそっと頭を離した。
◇ ◇ ◇
その一枚は、後日、母親のもとへ渡された。
硝子に焼きついた姿を、紙へ写しとったものだ。光と銀の働きで、母と子が、あの春の写場のまま、ならんで写っていた。少しばかり強ばった、けれど、たしかにふたりの、あの日の顔だった。
男の子は、まもなく船に乗って、海を渡っていったろう。母親は、その一枚を、どこへ仕舞ったろうか。仏壇の脇か、文箱の底か。さびしい夜には、きっと取り出して、眺めたにちがいない。紙の中の子は、年もとらず、痩せもせず、発っていったあの日の顔のまま、いつまでも母を見返している。会えぬ歳月のあいだ、その動かぬ一枚が、母にとっては、せがれそのものだったろう。
写真が世に広まって、人は、絵師の手を借りずとも、己の姿を残せるようになった。やがて、暮らしの節目ごとに、人々は写場へ足を運んだ。嫁ぐ前に一枚、子の生まれた祝いに一枚、家じゅうそろって一枚。撮ったその一枚は、月日がたつほどに値打ちを増していった。写った人がこの世を去ったあとも、紙の中の姿だけは、あの日のまま、すこしも変わらずに残る。だから写真は、いつしか、形見の一枚にもなった。動かぬ今をひとつ留めておくことが、別れに備えることに、なっていったのだ。
今では、姿を写しとるのに、硝子も銀も、長い辛抱もいらない。手のひらに収まる器を向ければ、またたく間に、いくらでも姿が写せる。笑った顔も、ふざけた顔も、何百枚でも撮りためられる。動くな、と息を詰めることも、もうない。
それでも、とボクは思う。
古い一枚に写った、強ばった顔を、いちど、よく見てみてほしい。その人は、動いてはならぬと言われて、いちばん見たいものを我慢して、まっすぐ前を見ていたのだ。その固い表情の裏に、こぼすまいとこらえた涙や、焼きつけておきたかった面影が、たしかに留まっている。一枚をのこすというのは、いつだって、流れてゆく時から、ほんのひとかけらを、そっとすくい取ることだった。
人も、暮らしも、とどまることなく移ろってゆく。そのなかで、写真だけが、過ぎた一日を、動かぬまま抱いている。会えなくなった人の顔を、いつまでも、あの日のまま見せてくれる。——変わってゆくものの隣に、変わらぬ一枚を、人はそっと持っていたいのだ。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
- 『幕末・明治の写真』ISBN 978-4-480-08356-2
- 『日本写真史を歩く』ISBN 978-4-480-08497-2
- 『幕末・明治のおもしろ写真』ISBN 978-4-582-63313-9
- 『幕末明治 横浜写真館物語』ISBN 978-4-642-05575-8
※ 明治初期の写真は、硝子の板に感光剤を塗って撮影する湿板法などが用いられ、感度が低いため露光に長い時間を要したと伝わる。撮影の間、被写体は身じろぎできず、頭を後ろから支える首押さえ(ヘッドレスト)を使い、まばたきもこらえて静止したため、表情が硬くなったとされる。横浜は開港地として早くから写真術が伝わり、写真館が営まれた土地のひとつと伝わる。やがて写真は記念や形見として暮らしに根づいていったとされる。明治十五年は一八八二年で、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。
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