第 42 話こうもり傘の波に押されて、古びた蛇の目を張り替えてやった日のこと
〜新しい傘がいくらでも買える時代に、その娘はなぜ母の破れ傘を直したがったのか〜
傘というのは、雨の下に、人ひとり分の小さな軒を差しかけるものだ。
頭の上に屋根を一枚、手で持って歩く。考えてみれば、ずいぶん健気な道具さ。土砂降りのなか、その一枚の下だけは濡れずにいられる。肩を寄せれば、二人ぶんの軒にもなる。傘の下というのは、雨のなかにぽっかりあいた、その人だけの小さな乾いた場所なのだ。
その軒のかたちが、ある時代を境に、がらりと変わった。竹の骨に油紙を張った和傘から、鉄の骨に布を張った洋傘——人がこうもり傘と呼んだものへ。雨をしのぐ道具が、たった数十年のあいだに、すっかり姿を入れ替えてしまった。
ボクが見てきたのは、その移り変わりの境目で、古い傘を張り替えてめしを食っていた職人と、新しい時代のただなかで、あえて古い傘を選んだ、ひとりの娘のことだ。
◇ ◇ ◇
明治十二年(一八七九年)の梅雨どきのことだ。わたしは東京の片すみで、傘の張り替えを生業にしていた。
傘張りというのは、地味な手職だ。破れたり骨が折れたりした番傘や蛇の目を持ち込まれて、油紙を剥がし、骨を継ぎ、新しい紙を張り、また油を引いて仕上げる。一本直せば、その傘はまた幾年も雨をしのぐ。物を捨てずに、直して使う。そういう暮らしの土台のところに、わたしの商売はあった。
ところが、その頃から、町の景色が変わりはじめた。
雨の往来に、黒い洋傘がぽつぽつと差されるようになったのだ。こうもり傘、と人は呼んだ。鉄の骨に黒い布を張った、すぼめると蝙蝠の翼のように見えるしろものだ。和傘のように油紙が雨で重くなることもなく、ばさりと開けば、すっと丈夫な軒ができる。ハイカラな官員や書生が、それを小脇にかかえて闊歩していた。
はじめは物珍しさだったものが、じきに、ひとつの装いになった。こうもり傘を差すことが、新しい時代の側に立っている、という印になっていったのさ。
わたしの店へ持ち込まれる傘は、年ごとに減っていった。それに、こうもり傘というのは、わたしには直せない。骨は鉄で、布も油紙とは違う。骨が折れれば、捨てて新しいのを買う。直す道具ではなく、買い替える品だった。物を直して使う時代が、雨に流されるように、薄れていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
その梅雨の、雨脚の強い昼さがりだった。
ひとりの娘が、風呂敷づつみを胸に抱えて、わたしの店の軒先へ駆け込んできた。十七、八というところか。地味な木綿の着物を着て、髪はきちんと結っていた。ずぶ濡れの肩で息をきらしながら、つつみを開く。
出てきたのは、ずいぶん古びた、一本の蛇の目傘だった。
骨はあちこちで継いだ跡があり、油紙は色が抜け、縁のほうは破れて、もう用をなさぬありさまだった。差せば雨が漏るだろう。正直に言えば、捨てて新しいのを買ったほうが、よほど安くつく代物だった。
「これを、直していただけませんか」
娘は、そう言った。わたしは、つい、こう返してしまった。
「お嬢さん、これを直すより、新しいのをお求めになったほうが安うございますよ。なんなら、いまどきのこうもり傘も、表で売っておりましょう」
娘は、首を横に振った。それから、傘の柄を、両手でそっと包むようにして、言った。
「これは、母の傘なんです」
去年の暮れに、母を亡くしたのだという。娘がまだ小さい時分から、母はこの蛇の目をいつも差していた。雨の日、迎えに来てくれた母が、この傘を傾けて、自分のほうへ軒を寄せてくれた。そうやって、母の差しかける軒の下を、ずっと歩いてきたのだと。
「形見というほどの、立派なものは、なんにも残らなかったんです。簞笥も、着物も、暮らしのために手放してしまって。残ったのが、この、破れた傘だけで」
娘は、傘の柄を撫でた。
「捨てるのは、いつでもできます。でも、もう一度だけ、この傘の下を歩きたいんです。母が傾けてくれた、あの軒の下を」
◇ ◇ ◇
わたしは、その傘を引き受けた。
骨を一本ずつ確かめ、折れたところを竹で継ぎ、すり切れた糸を綴じ直す。古い油紙を慎重に剥がしてみると、内側に、母親のものらしい手の脂が、長年の使いこみで黒く染みついていた。雨の日ごとに、この傘を開いては閉じ、しずくを払ってきた手の跡だ。わたしは、その染みのところだけは、紙の裏に残るように張り替えた。せめて、母の手の触れた場所が、傘のなかに残るようにと思ってね。
張り替えというのは、骨はそのままに、肌だけを取り替える仕事だ。だから傘は、いくど張り替えても、同じ一本の傘でありつづける。新しい紙を着せても、雨をしのいできた骨の癖や反りは、そっくりそのまま残る。娘の母が幾年も握りつづけた柄の手ざわりも、わたしは削らずに残しておいた。新しくするのは肌ばかりで、その傘が背負ってきたものには、指一本ふれぬのが張り替えの作法だった。
新しい油紙を張り、油を引いて、幾日か干した。仕上がった蛇の目は、古い骨に新しい肌をまとって、また雨をしのげる傘に戻った。さすがに真新しくはない。けれど、ばさりと開けば、人ひとり分の、確かな軒があった。
娘が受け取りに来た日も、雨だった。
店先で傘を開いてみせると、娘は、その下へ、すっと身を入れた。古びた骨の張った、ささやかな軒の下に立って、しばらく動かなかった。雨の音を、その紙ごしに聞いていた。やがて、傘の内がわを見あげて、ちいさく言った。
「ああ……母の、においがする」
張り替えたばかりの、新しい油の匂いのはずだった。それでも娘には、母の匂いがしたのだ。傘というのは、雨をしのぐだけの道具のはずなのに、その下に立った人のことを、こんなにも長く覚えている。
娘は、その蛇の目を差して、雨のなかへ出ていった。表通りには、黒いこうもり傘がいくつも行き交っていた。そのなかを、色の褪せた一本の和傘が、ゆっくりと遠ざかっていく。新しい時代の黒い波のなかを、母の軒の下を歩くようにして、娘は帰っていった。
◇ ◇ ◇
それから、和傘はみるみる隅へ追いやられ、洋傘が雨の往来のあたりまえになった。やがて鉄の骨も布も安く作れるようになって、傘は、壊れたら直すものではなく、壊れたら捨てるものになっていった。わたしのような傘張りの手職も、潮の引くように、町から消えていった。
今では、傘はもっと軽くなった。透き通った薄い布を張った傘が、雨が降れば、いくらでも安く手に入る。濡れて、骨が折れれば、惜しげもなく捨てられる。誰も、一本の傘を継いで継いで、幾年も差しつづけたりはしない。直して使う、ということ自体が、ずいぶん遠い話になってしまった。
それでも、とボクは思う。
雨の日に傘を差したら、その下の、人ひとり分の乾いた場所を、一度だけ思ってみてほしい。かつて、母がその軒を子のほうへ傾けた。子は、その下を歩いて大きくなった。そして母が逝ったあと、破れた傘を抱えて、もう一度だけその軒の下を歩きたいと、雨のなかを駆けてきた娘がいた。
傘は、雨をしのぐ道具にすぎない。けれど、その小さな軒の下で、人は誰かに庇われ、誰かを庇う。骨や紙や布がどう変わろうと、傘の下にあるものは、ずっと変わらない。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
- 『アンブレラ 傘の文化史』ISBN 978-4-89694-810-3
- 『明治事物起原 一』ISBN 978-4-480-08361-6
- 『絵で見る 明治の東京』ISBN 978-4-7942-2300-5
- 『明治の迷宮都市——東京・大阪の遊楽空間』ISBN 978-4-582-28465-2
※ 和傘(番傘・蛇の目傘)は竹の骨に油紙を張ったもので、破れや骨折れを張り替えて修理しながら長く用いた。幕末から明治にかけて鉄骨に布を張った洋傘(こうもり傘)が輸入・普及し、文明開化の装いの一つとして広まったと伝わる。やがて洋傘が雨具の主流となり、和傘や傘の張り替え職は次第に姿を消したとされる。明治十二年は一八七九年で、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。
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