名のなかった家に、名がひとつ生まれた日のこと41言語
言語明治のころ・東京近在の村読了 約6

名のなかった家に、名がひとつ生まれた日のこと

村の年寄りは、戸籍を書きとる者の前で、なぜいつまでも筆を握れずにいたのか

 名というものは、その人が世にいた証を、いちばん簡素にとどめておく器だ。

 呼ばれて振り向く。それだけのことに見えて、名はずいぶん深いところまで根を張っている。親が子を呼び、隣の者がそれをまた呼ぶ。やがてその者が死んでも、墓の石に名だけが残る。土に還った体の代わりに、名がそこに人のいたことを語りつづける。

 ところが、その名のうち、家を表すほうの名——名字というやつを、昔の里の者の多くはおもてだっては持たなかった。私の名はあっても、家の名は公には名乗れない。長いあいだ、そういうものだった。ボクは、その「ないのが当たり前」だった時代を、ずっと見てきた。

 ボクが見てきたのは、そのなかった家の名が、お上のひと声でいっせいに生まれてくる、その不思議な時のことだ。名づけというのは、いつだってその人の来し方を裏返しに映してしまうものでね。

◇ ◇ ◇

 明治八年(一八七五年)の冬のことだ。東京から少し離れた、田と雑木山ばかりの村でのことさ。

 その年、お上から、平民もみな名字を名乗れ——いや、名乗らねばならぬ、というお達しが下りた。名字を名乗ってよいとは、それより前から言われていた。けれど、わざわざ名乗り出る者は少なかった。長く持たずにきたものを、いまさら、と思ったのだろう。それが此度は、持たねばならぬと変わった。お達しそのものは年のはじめに出ていたのだが、こんな山あいの村がようやく重い腰を上げたのは、年の瀬も近づいてからのことさ。

 村の寄り合い所に、戸籍を書きとる役の者が出張ってきた。

 わたしは、その役を手伝う書き役のひとりとして、土間の机に紙と硯を据えていた。村の者がひとり、またひとりと、おずおずと入ってくる。名字をどう名乗るかその場で告げさせ、こちらが帳面へ書きつけていく。たったそれだけの用なのに、敷居の手前でみな足を止めた。

 名字を、と問われて、すらすら答える者は、ほとんどいなかった。

 多くは、ずっと屋号や田の場所で呼びならわされてきた者たちだ。坂の上の家、川向こうの家、大きな榎のある家。村のなかでは、それで何の不足もなかった。互いに顔も来し方も知れているのだから、わざわざ家の名などいらなかったのさ。それが急に、紙の上に、よその誰が見てもわかる名をひとつ据えよと言われている。

 ある若い百姓は、名主の家の名字をそっくり借りて名乗ろうとした。立派な名にあやかれば、暮らしも上向くと思ったらしい。村の年寄りに、それはお前の家の来し方とは違う、とたしなめられて、首をすくめていた。

 べつの男は、川の名をとった。代々その川の水で田を養ってきたからだ。山ぎわの家は、背の山の名をもらった。みな、自分の家が何によって生きてきたかをしばらく考えて、それを名にしていった。名づけるというのは、つまり、自分の家の根がどの土に伸びているのかを、あらためて掘り返すことだった。

◇ ◇ ◇

 その列の、いちばん後ろに、ひとりの年寄りが立っていた。

 茂助、と村の者に呼ばれていた。腰の曲がった痩せた老爺で、皆が名を決めて帰っていくのを、土間の隅でじっと待っていた。やがて、わたしの机の前に進み出る。けれど、何も言わない。問うても、ただ口を結んで、節くれだった手を膝の上で揉んでいる。

 名字を、と、わたしはもういちど促した。

 茂助は、しばらくして、絞り出すように言った。決めかねている、と。

 聞けば、この爺の家は、村でもいちばんの古株だという家だった。けれど、これという屋号もなく、田もとうに人手に渡って、いまは小さな畑を頼りにひとりで暮らしている。借りるべき立派な名もなく、よすがにする川も山も、もう自分の物ではない。何を名にすればよいのか見当もつかぬ、というのだ。

 「わしの家には、名にするほどのものが、何もありゃせん」

 そう言って、茂助はうつむいた。

 わたしは、筆を置いて、しばらく待った。急かしても、出てこないものは出てこない。茂助のような者を、わたしはこの冬、いくたりも見てきた。名を持たぬまま生きて、名を持たぬまま死んでいくのが当たり前だった者たちだ。土間には、硯の墨の匂いと、外の冬の風の音ばかりが流れていた。

 やがて茂助は、ぽつりぽつりと、家のことを語りはじめた。

 名にするものは何もない、と言いながら、語ることはいくらでもあった。曾祖父の代に、飢饉で村の半分が散ったとき、それでもこの家だけは土を離れなかったこと。父が、痩せた畑の隅に一本の柿を植えたこと。その柿が、いまもまだ毎年わずかな実をつけること。子は早うに死に、妻も先に逝き、いまは自分ひとりだが、その柿の木の下にみな眠っていること。

 話しながら、茂助の目は、土間の戸の外へ向いていた。

 戸の向こう、畑のはずれに、葉を落とした古い柿の木が一本、冬空に枝を広げて立っていた。実はもう、鳥に食われてほとんど残っていない。けれど、その黒い枝ぶりを見上げる茂助の顔は、何もない、と言ったさっきとはまるで違っていた。

 わたしは、筆をとった。そして、ふと思いついて、言ってみた。

 その柿の木を、名になさってはどうか、と。

 茂助は、はっと顔を上げた。それから、もういちど外の木を見た。痩せた頬が、ゆっくりとほどけていく。何もない家だと思っていた。けれど、代々の者がその下に眠り、いまも実をつける木が、ひとつ、たしかに残っていた。それは、立派な田や大きな榎には負けぬ、この家だけの確かなものだった。

 「……柿、の、木か」

 茂助は、その三文字を、舌の上で何度もころがした。曾祖父も、父も、妻も子も、名のないままに逝った。その家に、いま、ひとつの名が生まれようとしている。死んだ者みなを、ひとくくりに抱きとめる名が。

 わたしは、帳面に、その名を書きつけた。

 墨が、紙にすうと染みていく。たったいま、この世に生まれたばかりの、家の名だ。茂助は、書かれていく文字を、食い入るように見つめていた。それから、わたしに向かって、深く、深く頭を下げた。名のなかった家に、名がひとつ、灯った。

◇ ◇ ◇

 こうして、その冬のうちに、村じゅうの家に名字がそろった。

 川の名、山の名、田の名、木の名。どれもみな、その家が何によって生きてきたかの覚え書きのようなものだった。お上は、ただ帳面を整えるために名を名乗らせたのだろう。けれど名乗るほうは、そのひと言で、自分の家の根がどの土に伸びているのかを、思わず確かめてしまった。名づけというのは、いつの世も来し方を裏返しに映す鏡なのさ。

 今では、名字はあって当たり前のものだ。生まれたときから、もう名はそこにある。誰も、その名がどこから来たのかを、いちいち考えたりはしない。柿の木も、川も、山も、名の裏にすっかり隠れて、ただの呼び名になってしまった。

 それでも、とボクは思う。

 誰かの名字を、一度、声に出してみてほしい。その三文字、二文字の奥に、たぶん、ひとつの土地がある。水を引いた川や、背にした山や、畑の隅に立った一本の木が。何もない家だと思っていた爺が、外の柿の木を見上げて、痩せた頬をほどいた、あの冬の朝が。

 名は、いつだって黙っている。呼ばれて振り向くだけの、ただの音のようでいて、その底には、家の来し方が静かに畳まれている。それでも、たどればいつでも、土地につながる。ボクは、そういうものが、好きなんだ。

参考文献・もっと詳しく

江戸期にも、私的には名字を持つ庶民は少なくなかったが、公の場での名乗りは制限されていたとされる。明治の世になって平民の名字使用が許され、明治八年にはすべての国民に名字を名乗ることを求める布告(平民苗字必称義務令と呼ばれる)が出されたと伝わる。これにより、屋号・地名・縁の事物などをもとに、各家が名字を定めていったとされる。明治八年は一八七五年で、太陽暦への移行後にあたり、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。

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