第 95 話言語冬の寄り合い所、届出の列のいちばん後ろに立った平助
〜村じゅうが名字を決めていくなか、平助の家だけが何も言えずにいたのは、なぜだったのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
平助は、人に名を問われると、まず手ぬぐいの端をつまむ男だった。つまんで、放して、またつまむ。
ボクがその手つきを見たのは、明治八年(一八七五年)の冬だ。東京から少し離れた、田と雑木山ばかりの村の寄り合い所だった。その冬、村の家という家が、名字をひとつずつ紙に書いて役場へ出すことになっていた。平助は、その列のいちばん後ろに立っていた。
その日、寄り合い所の土間は、朝から冷えた。火鉢はひとつきりで、書記が手をかざしている。硯の水は、墨を磨るまえに薄く凍っていた。
◇ ◇ ◇
二月に、お上からお達しが出ていた。平民もみな、これからは必ず名字を名乗れ。先祖の代からの名字がはっきりしない家は、新たに設けよ、という。
名乗ってよいというお触れなら、五年前にも出ている。けれど、名乗り出る家はまばらだった。名字を持てば税が重くなるのではないか、と用心した者が多かったと聞く。それが今度は、名乗らぬわけにいかなくなった。山あいのこの村へ、戸長役場の書記が出張ってきたのは、年の瀬も近い頃だった。書記がひとりで近在の村々を順にまわっていて、この村の番が、いちばん後ろになったのだ。
わたしは、その一冬だけ役場に雇われた書き役で、寄り合い所の土間に机を据えていた。手順はこうだ。戸主がひとり入ってきて、名字を告げる。わたしが届の紙に書く。書記がそれを改めて、控えの一枚を戸主に渡す。たったそれだけの用なのに、みな敷居の手前で足を止めた。
いちばん先に机へ来たのは、もとの名主の家の主だった。蔵の古い証文に名字があるとかで、主は書き写した紙切れを懐から出して、迷わず告げ、あっという間に控えを受け取って帰っていった。ほかの者は、その背を、うらやむような、遠いものを見るような目で送った。名字を持つ家と、持たぬ家が、おなじ列に並んでいた。
名主の家のほかに、名字は、と問われてすらすら答える者はいなかった。坂の上の家、川向こうの家、大きな榎のある家。村のなかでは、屋号でも田の場所でも、それで用は足りていたのだ。互いの顔も来し方も知れているのに、紙の上に、よその者が読んでもわかる名をひとつ据えよと言われても、口が回らない。

列が詰まってくると、わたしは机の端に別の紙を一枚出して、道を三つ書いてみせた。住む処から取る。稼業から取る。呼ばれてきた屋号から取る。
「よそでは、たいていその三つのどれかで立てると聞く。坂の上の家なら坂上、稼業が紺屋なら紺屋、屋号が大榎なら、その一字を採って榎本とな」
列の者は紙をのぞきこんで、口々に自分の家を当てはめはじめた。
「うちは、稼業といっても百姓だ。百姓で立ててよいのか」
そう尋ねた男に、わたしは首を振った。百姓では、村じゅうが百姓になってしまう。稼業で立てるなら、その家だけがやってきた仕事の名を採る。桶を作る家、油を搾る家、渡しの舟を出す家。男は、しばらく指を折ってから、自分の家の来し方を、ひとつずつ口に出しはじめた。
川の水で代々田を養ってきた男は、川の名をとった。山ぎわの家は、背負った山の名をもらった。もとの名主の家の名字を借りようとした若い百姓は、年寄りに、それはお前の家の来し方と違うだろうとたしなめられて、首をすくめてやめた。三軒がそろって川の名を望んだときは、川上、川口、川端と分けることにして、わたしが三枚の紙に書くのを、書記が苦笑いで見ていた。寺の和尚に頼んで付けてもらった、という家もあった。隣の村では、和尚が檀家をひとまわりして、一軒ずつ決めてやったと聞く。
同じ紙を、わたしは日に三十枚近く書いた。字を間違えて書き損じると、書記が見ていない隙に、そっと墨を乾かして脇へよけた。届の紙は数を改められる。一枚も無駄にはできない。
◇ ◇ ◇
その日の最後に、平助が机の前に出た。
腰の曲がった痩せた老爺で、この村ではいちばんの古株の家だという。名字を問われると、また手ぬぐいの端をつまんだ。
この男は、わたしより長くこの村の土を踏んでいる。畑の畝のまがり具合も、川の水の引く時も、誰より知っているはずだった。それが、紙一枚の前でだけ、身の置きどころをなくしている。
「名字、と言われてもな」
平助は、そう言ったきり口を結んだ。
後ろには、もう誰も並んでいない。それでも平助は、順番をゆずるように、一歩だけ横へ寄った。
わたしは筆を置いて、待った。急かして出てくるものではない。土間には、墨の匂いと、戸の外の風の音がしていた。

やがて平助は、ぽつりぽつりと家のことを話しだした。屋号はない。田は、とうに人手に渡った。いまは小さな畑ひとつで、ひとりで暮らしている。
わたしは、この一冬に、平助のような者をいくたりも見た。持つものがひとつずつ減って、最後に名を問われる。
「昔は名があったと、親父は言っていた。けど、親父の代の飢饉で、村の半分が散ってな。名を呼ぶ口が半分になっちまった。いまは覚えてる者もいねえ。うちには、紙に書けるものが、何もねえんだ」
そこで平助は、わたしの顔を見た。
「書き役どのは、よその村もだいぶ見てるようだ。田も屋号もない家は、よそでどう立てたかね」
わたしは、よそで見聞きしたことを話した。橋のたもとの家は橋の字を、井戸を構えた家は井戸の字を、松の大木を庭に抱えた家は松の字を取っていた、と。
橋、井戸、松と挙げおえても、平助は目を伏せたまま、口をきかなかった。やがて、手ぬぐいから手を放して、戸の外へ目をやった。
畑のはずれに、葉を落とした柿の木が一本、冬空に枝を広げている。実は鳥に食われて、枝の先に一つ二つ残るばかりだ。
背は低く、幹は太い。冬の日を受けて、枝が黒い筋を地面に落としていた。
「あの下に、石が五つある。祖父さんのには字が彫ってあったそうだが、苔と風で、もう読めねえ」
平助は、外を向いたまま言った。
「祖父さんと、親父と、お袋と、女房と、子が一人だ。柿は、祖父さんが植えた」
わたしは、黙って聞いていた。風が戸をひとつ鳴らして、通りすぎた。平助の手は、もう手ぬぐいに伸びなかった。
「柿ノ木、じゃ、名にならねえか」
なる、とわたしは答えた。木の名を頭に据えた家は、よその村にも幾つかあると聞いている。
書記が筆の尻で耳の後ろをかいて、柿ノ木、と口の中で読んでみて、うなずいた。
柿ノ木。木の名を頭に戴いた名字を、わたしはいくつも知っている。ここにも一つ、誰かの畑のはずれから始まる名がある、と思うと、筆を持つ手が、思いのほか軽かった。
わたしは、まず紙に柿木と書いた。平助は身を乗り出してのぞきこみ、首を振った。
「木の前に、ノを入れてくれ。親父は、かきのき、と呼んでた」
書き直した。柿ノ木。墨がすうと染みていく。
紙の上の文字が、いまさっき生まれたばかりの家の名だ。わたしはそれを、隣の紙の「川上」「川口」「川端」と並べてしばらく見た。平助は、書かれていく三つの文字を、口の中で何度もころがした。それから、書記の判が控えに押されるのを、息をつめて見ていた。
控えの紙を受け取ると、平助は書記に、一度だけ頭を下げた。手ぬぐいは、首にかかったままだった。
◇ ◇ ◇
控えの紙に載ったのは、柿ノ木、の三文字だけだ。飢饉の年に村の半分が散ったことも、名を呼ぶ口が減って古い名が消えたことも、畑のはずれの五つの石のことも、どの紙にも入っていない。平助の口から出て、ボクの耳と冬の風に混じったきりだ。
戸口の外は、日が落ちかけて、柿の木が影だけになっていた。控えの紙を懐へしまう平助の背を、ボクは戸口で見送った。畑のはずれの枝には、鳥に残された実がひとつ、重く下がっている。
参考文献・もっと詳しく
※ 江戸期にも、私的には名字を持つ庶民は少なくなかったが、公の場での名乗りは制限されていたとされる。明治三年(一八七〇年)に平民の名字使用が許され、明治八年二月には、これからは必ず名字を名乗ること、先祖以来の名字がはっきりしない者は新たに設けることを求める太政官布告が出されたと伝わる(平民苗字必称義務令と呼ばれる)。届出の場では、屋号・地名・稼業・縁の事物などをもとに、各家が名字を定めていったとされる。※本文の人物・会話・情景は創作。
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