第 94 話裳をひと垂れ腰に結べば、その日から子は女と呼ばれた——髪を上げ、装束を着けて大人になる日のこと
〜腰結いの紐をひと結びするまでの、ほんの短い間に、大人たちはなぜあれほど息をのんでいたのか〜
大人になる日というものを、今は誰も決めてくれない。
いつのまにか背がのびて、声が変わって、気づけば子どもの服が窮屈になっている。それで人は、なんとなく自分を大人だと思いはじめる。何月何日のここから大人だ、と紙の上で線を引いてくれる人は、もういない。
けれど昔は、その線を、まわりの大人たちがはっきりと引いてやったらしい。ある日を選んで、それまでとちがう装束を着せ、髪のかたちを変えてやる。きのうまで子だった者が、その儀式を境にして、きょうからは一人前の大人として扱われる。男の子なら冠をかぶる元服、女の子なら裳を着ける裳着、と呼ばれていたという。
ボクが見てきたのは、ひとりの姫君が、生まれてはじめて裳という装束を身につけ、子から女へと渡っていく、その短い夕べのことだ。
◇ ◇ ◇
長保四年(一〇〇二年)の冬のはじめ、平安京の、とある中流の貴族の邸でのことだった。
その家の姫君は、数えで十二になったばかりだった。名は、ここでは伏せておこう。色の白い、口数のすくない子で、御簾のうちで物語の草子をめくっては、ひとりで微笑んでいるような姫だった。われはその冬、邸の雑事をあれこれ手伝う者として、台盤所のあたりに出入りしていた。
その姫の裳着が、近く催されると聞いた。
裳というのは、女の装束のいちばん外、腰から後ろへ長く引く、ひだのついた布だという。子どものうちは着けない。これを初めて腰に結んでもらう日が、すなわち女になる節目なのだと、古参の女房が教えてくれた。髪もこの日にあらためる。それまで背に垂らしていた童髪を、はじめて上へ結いあげるのだ。装束と髪、そのふたつを変えることで、子の姿を脱がせて、大人の女の姿をあらたに着せてやる——そういう仕掛けらしかった。
日取りは、暦を見て、よき日が選ばれたと聞く。物忌みや方角の障りを避け、年の内のうちで、いちばん障りのない日を、陰陽の道に明るい者に占わせたのだという。よき日と決まってからは、当日に向けて、邸はにわかに慌ただしくなった。
まず姫の装束が、幾日もかけてととのえられた。袿を何枚も重ね、その色のかさなりに目を凝らし、女房たちは指を真っ赤にして縫いものをした。表が紅なら裏は何色がよいか、襟もとからのぞく色の数はいくつが品よく見えるか、そんなことを何日も言いあっている。肝心の裳は、白い練り絹に、薄く青海波のような文様を摺りおいたものだった。子どもには重すぎるほどの、長く立派な布で、これを姫の腰から後ろへ、たっぷりと引くのだという。
まず大事なのは、腰結いの役を、誰に頼むかということだった。
腰結いというのは、その日、姫の腰に裳の紐をむすんでやる役のことだ。これがただの手伝いではない。徳の高い人、家の栄える人に結んでもらえば、その子の行く末にもよい運がうつる、と信じられていたらしい。だから親たちは、これと見込んだ人に、何日も前から頭を下げて頼みこむ。姫の父は、日ごろ世話になっている年上の縁者の女君に、その役をぜひにと願い出ていた。重々しく、けれど嬉しさを隠しきれぬ顔で、われはその使いの口上を、几帳のかげで聞いていた。
当日、邸の灯がいくつもともされた。
夕刻、装束をととのえた女房たちが、つぎつぎと姫のもとへ集まってくる。香を焚きしめた几帳のうちで、姫はいくえにも袿を重ねられ、その上から、いよいよあの裳を着けられようとしていた。母君は朝からそわそわと落ちつかず、几帳の出入りをくりかえしては、髪の一筋、襟の一寸を気にしていた。叱るでもなく褒めるでもなく、ただ手だけがひっきりなしに動いている。子を送り出す親というのは、こういうものらしい。
やがて、腰結い役の女君が、しずしずと姫の背後にまわった。
その瞬間、邸じゅうが、しんと静まった。
女君の手が、裳の長い紐を取り、姫の腰へまわす。子の腰にひと垂れの布を据え、紐を引きしぼり、結び目をつくる。それだけのことだ。手のひとつ動きで終わってしまう、ほんの短い間だった。けれどその間、几帳のうちもそとも、誰ひとり息をしていなかった。母君は袖を口にあてて、まばたきもせず見つめている。父君は脇息に手をついたまま、固まっていた。古参の女房までが、目もとを赤くしている。日ごろは姫を叱ってばかりのその老女房が、いちばん先に袖を目にあてていた。たかが紐ひとつ結ぶのに、なぜ大人たちはこれほど息をのむのか。われには、はじめ、よく呑みこめなかった。
やがて女君が、ひと呼吸おいて、しずかに紐を結びおえた。
ふう、と、邸じゅうが一度に息を吐いたのが、肌でわかった。
◇ ◇ ◇
つづいて、髪上げが行われた。
姫の長い童髪が、女房たちの手で梳かれ、束ねられ、はじめて頭の上へと結いあげられていく。背に垂れていたあいだは、まだどこか子どものものだった髪が、上げられたとたん、急に大人びて見えた。うなじが、すっとあらわになる。それだけのことで、几帳のうちの姫は、さっきまでとは別人のようだった。
すべてが終わって、姫が几帳のそとへ、あらためて姿を見せた。
裳を引き、髪を上げた姿で、姫はしずかに座っていた。きのうまで草子をめくって笑っていた、あの子とおなじ顔のはずだった。けれど、ちがって見えた。背すじが、ひとすじ通っている。目もとに、これまでなかった落ちつきのようなものが、宿っている。装束と髪をあらためただけで、人はこれほど変わって見えるものかと、われは正直おどろいた。
いや、ほんとうは、変わったのは姫の側だけではなかったのだろう。
その姿を見た瞬間から、まわりの者たちが、姫を子としてではなく、ひとりの女として遇しはじめる。ことばづかいが、わずかにあらたまる。差し出される器が、ひとつ格の上がったものになる。みなの目が、その日を境にして、姫を「大人」として見る。本人が変わるより先に、まわりの扱いが変わり、その扱いに押されるように、本人もまた、すこしずつ大人になっていく——どうやら、そういう順序なのだった。
あとで聞けば、几帳のうちの姫もまた、おなじ夕べを、まるでちがう側から味わっていたらしい。重ねた装束のおもみが肩にかかり、はじめての裳が腰にずしりと垂れる。背の髪が結いあげられて、うなじのあたりがすうすうと心もとない。さっきまで草子をめくっていた手で、いま自分は、おとなの装束を着けて座っている。うれしいのか、こわいのか、自分でもよくわからぬまま、ただ背すじだけは伸ばしていた——そんなふうだったと、のちに古参の女房が、笑いながら教えてくれた。
宴がはじまった。
灯のもと、酒がふるまわれ、祝いの品々が運ばれ、笛のしらべが流れた。姫はうつむきがちに、けれどときおり、こらえきれぬように口もとをほころばせていた。母君は、もう何度目になるかわからぬ涙を、そっと袖で押さえていた。父君は、来客のひとりひとりに、見ちがえるほど深々と頭を下げてまわっていた。きょうまで育てた子が、きょう、人前に「大人の女」として披露された。その安堵と、ほんのすこしの寂しさとが、邸じゅうの灯のあいだに、入りまじって漂っていた。
われは、台盤所のすみで杯を片づけながら、はじめに呑みこめなかったことが、ようやく腑に落ちた気がした。
あの腰結いの、ほんの短い間に、大人たちが息をのんでいたわけが、わかった気がしたのだ。あの紐ひと結びは、ただ布を留めていたのではない。子を、子のままでいさせてやれる時を、そこで一度しめくくっていた。これからは、いやでもこの子は、女として生きていく。よろこびも、わずらいも、子のままなら背負わずにすんだものを、これからは引き受けていく。その入口の紐を結ぶ手に、見守る者みなが、祈りと名残りとを一度にこめていた。だから、息さえ止まったのだろう。
◇ ◇ ◇
裳を着け、髪を上げて、子は女になる。男なら、冠をかぶって男になる。
そういう、日を選んで人を大人にする仕来りは、その後も長く、かたちを変えながら受け継がれていったと聞く。やがて裳着の装束はすたれ、髪上げの作法も移ろい、いつしか別の名の祝いになった。それでも、ある日を境に大人の側へ送り出す、という骨組みだけは、ふしぎと消えずに残ったらしい。
ボクが今でもときどき思い出すのは、あの邸が一度に息を吐いた、ふう、という音だ。
今は、その線を引いてくれる人がいない。背がのびて声が変わって、なんとなく大人になって、なんとなくその日を通りすぎる。誰も腰の紐を結んではくれないし、誰もまばたきを忘れて見守ってくれない。それは気楽でもあり、すこし心もとなくもある。
あの夕べ、ほんの一結びの間、邸じゅうが息をのんで見つめていた。たったそれだけのことに、子を送り出す者たちのありったけが、こもっていた。裳を引いてあらわれた姫の、あの背すじの伸びた横顔を、ボクはまだ覚えている。
参考文献・もっと詳しく
- 『平安朝の生活と文学』ISBN 978-4-480-09428-5
- 『平安女子の楽しい!生活』ISBN 978-4-00-500772-1
- 『装束の日本史——平安貴族は何を着ていたのか』ISBN 978-4-582-85357-5
- 『平安朝 女性のライフサイクル』ISBN 978-4-642-05454-6
※ 裳着(もぎ)は、平安貴族の女子が成人を迎える通過儀礼とされる。裳という装束を初めて着け、童髪を結いあげる髪上げをともなって行われ、数えで十二〜十四歳ごろに催されることが多かったと伝わる。腰に裳の紐を結ぶ「腰結い」の役は徳望ある人物に依頼され、その人の幸運があやかると考えられたという。男子の元服に対応する女子の成人式にあたる。長保四年は一〇〇二年(長保は九九九〜一〇〇四年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の姫君・女房・腰結い役および会話・情景は創作。
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