第 94 話文化白い裳の陰で、幾たびも解かれていた赤い糸のこと
〜大人たちがひとしきり、物も言わずに動きを止めていたわけ〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
「手が足らぬ。そこな者、来やれ。」
呼び止められて振り向いたのが、われの、その日の始まりだった。台盤所の脇をたまたま通りかかっただけの、通りすがりの手を、女房のひとりがそのまま捕まえたのである。
長保四年(一〇〇二年)の冬のはじめ、平安京の、とある中流の貴族の邸でのことである。その家の姫君の裳着が、その日に催されると聞いてはいたが、われには縁のない話のはずだった。
いつも荷を運ぶ下男が、朝方に腰をやられて動けなくなったのだという。かわりの手が要る、と袖を引かれるがまま、われはそのまま奥の一間の前まで連れていかれ、以後は戸口で糸や布を受け渡す役目を負わされた。断れる話ではなかった。
◇ ◇ ◇
戸口ごしに見える部屋のうちでは、幾人もの女房が針を運んでいた。袿を幾枚も重ね、その色のかさなりに目を凝らしては、指を真っ赤にして縫っている。われが渡した、染めあがったばかりの緋の糸は、けれど半刻とたたぬうちに、ふたたび戸口のわれの手もとへ返された。ほどかれて、丸められて。
「色が、勝ちすぎる」
年かさの女房がひとこと言うと、若い女房が黙って糸をほどきにかかる。何度も、何度もそうだった。表に映る紅の色と、裏にのぞく色との釣り合いを、赤すぎず、沈みすぎず——そのちょうどよいところを探して、幾人もの指が幾たびも糸を行き来していた。冬向きの襲の色目というものがあるのだと、われは戸口ごしに見て知った。名までは聞かなんだが、白に紅を透かせるその重ねを、女房たちは幾たびも解いては、日の入る角度を変えて確かめていた。姫が生まれて数え十二年、これほど手間をかけて衣を仕立てるのを、われは見たことがなかった。数えてみれば、その日だけで七度か八度、糸は結び直されていた。針を持つ若い女房の指先だけが、しだいに赤く腫れていくのが見て取れた。
裳そのものは、白い練り絹に、波のようにゆるくうねる文様を、薄く摺りおいたものだった。子どもには重すぎるほどの、長く立派な布である。これを腰から後ろへ、たっぷりと引くのだという。裾に近いあたりだけ、糸の運びがひときわ細かい。ここだけは針を何度もやり直した跡が、布の裏にうっすらと残っていた。姫の目にとまる場所ではない。触れて確かめる者もおそらくいない。それでも、そこだけは手を抜かなかった。仕上がりを隣の間へ運びだすとき、その一点に、われはなぜか目を奪われた。

日が落ちるころ、装束がようやく仕上がった。それを抱えて隣の間へ運べ、と言いつけられ、われはそのまま、灯台を持って戸口に立つ役までまわってきた。灯を持つ者がひとり足りぬ、とだけ言われて。
夕刻、女房たちが灯をふやした。装束をととのえた姫が、幾重にも袿を着せられ、そこへいよいよ、われが運んだあの裳が添えられようとしていた。
腰結いの役を、姫の父はある年上の縁者の女君に、幾日も前から頭を下げて頼みこんでいた。徳のある人に結んでもらえば、その子の行く末にも良い運がうつる——そう聞いてはいたが、われの役目は、灯を絶やさぬことだけだった。灯芯の先が長く伸びて煙をあげるたび、切りそろえる。地味な下働きだったが、灯を絶やせば座がひとしきり暗くなる。粗末にはできぬ役目だった。
その女君を招く使いにも、われは一度、走らされたことがある。文を届け、返事を待つあいだ、先方の下働きに白湯を馳走になった。ついでのように押しつけられた用事のひとつだったが、こうして幾つも重なってみると、いつのまにか、われはこの邸の裳着に、それなりに関わった者になっていた。
几帳が、姫と女君のふたりだけを囲うように、部屋の奥へ立てまわされた。香が焚きしめられ、灯の数も、常の宵の倍はあった。われは戸口に立ったまま、几帳より外側に居並ぶ母君や父君、年かさの女房たちの姿だけを、灯ごしに見ていた。几帳の内は、灯影がぼんやりと揺れるばかりで、うかがい知れない。灯を絶やさぬことだけが、われの務めだった。
その女君が、しずしずと歩み出て、几帳の向こうへ姿を消した。姫の背後にまわったのだろうと知れた。
几帳の内から、衣がこすれる小さな音と、紐を引きしめているらしいかすかな気配が伝わってくる。それだけの、音ひとつだった。長くもかからず、難しい所作でもないはずだった。けれど、灯の炎さえ揺れを止めたように見え、灯を持つわれの腕もいつのまにか固まっていた。母君は袖を口にあて、まばたきひとつしない。父君は脇息に手をついたまま、動かない。さっき糸をほどいていたあの年かさの女房までが、几帳のこちら側で、目もとを赤くしている。なぜこれほどまでに、たかが紐ひとつ結ぶ気配に、みなが動きを止めるのか。われには、はじめ、よく呑みこめなかった。灯を持つ手だけが、かすかに震えていた。

几帳の向こうから、詰めていた息がこぼれる音がした。紐を結びおえたのだろう。
つづいて、髪上げが行われているらしかった。几帳の向こうから、櫛の通る音がしばらく続いた。童髪を梳き、束ね、はじめて頭の上へ結いあげる音だという。几帳の裾が、ときおり、内から押されるように揺れた。
すべてが終わって、姫が几帳のそとへ、あらためて姿を見せた。裳を引き、髪を上げた姿で、しずかに座っている。きのうまで草子をめくって笑っていた、あの子とおなじ顔のはずだった。けれど、ちがって見えた。
その姿を見た瞬間から、まわりの物言いが、心なしかあらたまっていた。差し出される器も、心もち格の上がったものに替わっている。装束と髪をあらためただけで、人はこれほど変わって見えるものかと、われは正直おどろいた。
宴の支度が始まるまでの、ほんのわずかな片づけの合間。装束を片づけながら、さっきの年かさの女房が、誰にともなくぼやいた。
「これだけの支度をするのも、次はいつのことやら。……いや、次があるとすれば、若君の元服の折じゃな」
その言葉が、なぜか、われの胸の奥にひっかかった。次の区切りの日まで、指折り数えて待てるほど、はっきりした区切りが、われには思い当たらなかった。子どもの服がいつのまにか窮屈になって、なんとなく大人になったと思うだけの、あの心もとなさとは、ずいぶんちがう。
◇ ◇ ◇
宴がはじまった。灯のもと、酒がふるまわれ、祝いの品々が運ばれ、笛のしらべが流れた。折敷に高く盛られた膳が幾つも運ばれ、酒器がふれ合う音が賑やかに響いていく。姫はうつむきがちに、けれどときおり、こらえきれぬように口もとをほころばせていた。母君は、涙を袖で押さえていた。父君は、来客のひとりひとりに、深々と頭を下げてまわっていた。誰かが持ちこんだ箏の音が、宴の合間、ふと途切れては、また誰かの手で継がれていく。
われは、灯台をようやく片づけながら、腕の疲れよりも、ふしぎな心地が抜けないのを感じていた。今朝までは、この邸の誰ひとり、われの顔さえ知らなかったはずだ。今日一日、われはただの通りすがりの手だったはずなのに、あの紐が結ばれる刹那には、たしかにこの邸の一部になっていた。夜が明ければ、また誰かに呼ばれるまで、ただの通りすがりに戻るのだろうが。
◇ ◇ ◇
いまも、成人の日になると、晴れ着姿の一群を街で見かける。
美容院帰りだろう、まだ慣れない足どりの振袖が、横断歩道の信号でひとかたまりになって立っている。裾を、風がすこし持ちあげる。
手にさげた荷物の紐が、その子の指に、重さを預けている。
参考文献・もっと詳しく
※ 裳着(もぎ)は、平安貴族の女子が成人を迎える通過儀礼とされる。裳という装束を初めて着け、童髪を結いあげる髪上げをともなって行われ、数えで十二〜十四歳ごろに催されることが多かったと伝わる。腰に裳の紐を結ぶ「腰結い」の役は徳望ある人物に依頼され、その人の幸運があやかると考えられたという。男子の元服に対応する女子の成人式にあたる。長保四年は一〇〇二年(長保は九九九〜一〇〇四年)。本話の姫君・女房・腰結い役および会話・情景は創作。
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