奇数の夜ごとに、人は灯をともして集まった——子の生まれた家に、産着と祝い膳が通った話62
平安のころ・平安京読了 約7

奇数の夜ごとに、人は灯をともして集まった——子の生まれた家に、産着と祝い膳が通った話

五夜の晩、まだ名もない赤子のために、なぜあの年寄りは夜道を厭わず通ってきたのか

 赤子が生まれると、人は寄り集まって、その誕生を祝う。

 今でもそうだ。生まれて七日目の夜に名をつけて祝う「お七夜」があり、ひと月もすれば宮参りがあり、近ごろは産まれる前から祝う催しまであるという。親しい者が産着を持って訪い、ささやかな膳を囲んで、すこやかに育てよと願う。誰にことさら教わるでもなく、人はずっとそうしてきた。

 けれど、子がぶじに育つということが、今よりずっと心もとなかった頃がある。

 薬らしい薬もなく、なぜ熱が出るのか、なぜ夜泣きが止まぬのか、その理由を誰も知らなかった。生まれた子の幾人かは、名をもらう前に、いとも呆気なく消えていったと聞く。だからこそ人は、生まれてからの幾夜かを、息をつめるようにして見守った。

 その見守りの夜に、灯をともし、人を呼び、膳を出して祝う習わしがあった。産養(うぶやしない)、と呼んでいたらしい。三夜、五夜、七夜、九夜——奇数の夜ごとに、縁ある者たちが入れかわり立ちかわり、産着や食べ物を抱えて通ってくる。

 ボクが見てきたのは、その灯が一晩おきにともされ、夜ごと人の集まる、ひとつの邸のことだ。

◇ ◇ ◇

 長保五年(一〇〇三年)の秋、平安京の二条わたりに、ひとつの邸があった。

 主は遠い国の守をつとめて、都へ戻ったばかりの人だった。われはその家に長く仕える侍で、庭の手入れから使いの走り、夜の戸締りまで、こまごまとした用を引き受けていた。

 その秋、北の方が、待ちに待った男子を産んだ。

 産屋のしつらえは、見たことのないものだった。几帳も敷物も、世話をする女房たちの装束までが、いちように白い。白はけがれを祓う色なのだと、年かさの女房がわれに教えてくれた。産まれたばかりの子と母を、白で囲んで守るのだという。

 子が産声をあげた晩、邸じゅうが、ほっと息をついた。けれど誰の顔にも、まだどこか張りつめたものが残っていた。生まれた、というだけでは、人はまだ安心できぬのだ。これからの幾夜かを越えて、はじめて胸をなでおろす。そういうものだと、長く奉公していれば、おのずと分かってくる。

 産まれて三日目の夜。はじめての祝いがあった。三夜の産養である。

 その晩、主の弟にあたる人が、まっさきに訪れた。手には、小さくたたんだ白い産着があった。生まれたばかりの子に着せるものは、染めも飾りもない、まっさらな白でなくてはならぬという。色のついたものは、まだ早い。この世に出てきたばかりの子は、まだこの世のものになりきっていない——そんな言いつたえがあるのだと、後でわれは聞いた。

 膳が運ばれ、灯がともされた。三夜のそれは、まだ控えめなものだった。それでも日が落ちてからも、産屋のあたりだけは、煌々と灯がともされている。

 なぜ夜どおし灯を絶やさぬのかと、若い下男がわれに尋ねた。われは、年かさの女房から聞いたとおりに答えた。闇は、よくないものを呼ぶ。生まれたての子は、その闇に、いちばん攫われやすい。だから夜ごと灯をともして、人の声を絶やさずにおくのだと。

 理屈は、われにも分からぬ。ただ、暗がりにぽつんと置かれた赤子を思えば、灯をともしたくなる気持ちだけは、よく分かった。

 その晩、邸の男たちが、産屋の外に並んで立った。弓を手にして、弦をきりきりと引きしぼり、ひょう、ひょうと音だけを鳴らす。矢はつがえぬ。ただ弦の音だけを、夜の闇に向けて放つのだ。これも、よくないものを子から遠ざける手立てなのだと、年かさの女房は言った。

 われも列に加わって、弦を打った。びん、と冷えた音が、暗い庭に吸い込まれていく。子のために弦を鳴らしているのだと思うと、その音の一つひとつが、なにか祈りのように聞こえた。赤子はその音にも目を覚まさず、ただ、すうすうと寝息を立てている。それがまた、いとおしかった。

◇ ◇ ◇

 五夜には、人がぐっと増えた。

 主の縁者、北の方の里の者、近しい者たちが、次々と産着や食べ物を抱えて通ってくる。白い衣がうずたかく積まれ、餅や、魚や、瓜のたぐいが、所せましと並んだ。女房たちは夜どおし立ち働き、邸は昼かと見まがうほどに灯った。

 子は、湯にも浸けられた。御湯殿の儀というらしい。あたためた湯をたらいに張り、女房が赤子をそっと抱きおろして、けがれを洗い清める。そのかたわらでは、文に長けた者が声を張りあげて書物を読み、また弦の音が鳴らされる。湯の音と、読む声と、弦の響きとが、ひとつに溶けあって、夜じゅう絶えることがなかった。子をこの世に迎え入れるための、いわば総出の手仕事だった。

 その人の波のなかに、ひとり、目をひく女がいた。

 北の方の遠縁にあたるという、おしなという年寄りだった。暮らしむきは、けっして楽ではないらしい。装束は古び、供も連れず、自分の足で、暗い夜道を歩いて通ってくる。それでも三夜にも五夜にも、欠かさず姿を見せた。手にはいつも、何かしらの祝いがあった。豪勢なものではない。手ずから縫ったらしい不格好な産着であったり、わずかな干し棗であったり。

 なぜそこまでして、と問うたわれに、おしなは、しわだらけの顔で笑った。

 「わたしの産んだ子は、みな、三つを越えずに逝きました」

 さらりと、おしなは言った。

 むかし、自分も産養の祝いを受けた。けれどその子らは、ひとりとして育たなかった。だから今は、せめて人の子の生まれるたびに、こうして通うのだという。ひとりでも多くの灯をともし、ひとりでも多くの声をかければ、その子は、闇に攫われずにすむかもしれない。

 「灯はね、多いほうがいい。声も、多いほうがいい。みなで願えば、きっと、この子は育ちます」

 おしなの言葉に、われは、返す言葉をもたなかった。乾いた手が、子の枕もとに、小さな産着をそっと置く。そのしわだらけの指先を、われは、いつまでも見ていた。

 七夜は、いちばん盛大だった。

 この夜、子に名がつけられた。それまで呼び名をもたなかった赤子に、はじめて名が与えられる。名をつけるということが、どれほど重いことか、われはこの晩に知った。名をもらうとは、この世にしっかと留めおかれること。もう、たやすくは攫われぬという、人の側からの祈りなのだと。

 主みずから墨をすり、選びぬいた名を紙に記した。女房たちはその名を、何度も何度も、口にうつした。膳はいよいよ豪勢になり、灯は夜空を焦がさんばかりにともされた。名を得た子は、もう、ただの「赤子」ではなかった。

◇ ◇ ◇

 九夜が、最後の産養だった。

 ここまでの幾夜かを越えて、子は、ちいさな手で、しっかりと乳母の指を握るまでになっていた。三夜にはまだ、目もあかぬほどに頼りなかったものが、九つの夜を越えるあいだに、たしかに、この世のものになっていく。その変わりようを、われは戸口のあたりから、毎夜こっそりと見ていた。

 九夜の膳は、これまでにもまして手がこんでいた。けれど不思議なもので、夜を重ねるごとに、邸の祝いは華やぎながら、どこか静かになっていった。はじめの夜の、あの張りつめた賑わいが、いつしか、しみじみとした安堵に変わっている。声高に笑う者はなく、みな、生まれた子をただ眺めて、めいめいに何かを願っているふうだった。祝いというものは、声がしずまるほどに、かえって深くなるらしい。

 最後の晩も、おしなは来た。

 その夜のおしなは、ことに嬉しそうだった。九夜を越えれば、ひとまずは大事ないと、長い暮らしのなかで、その身に刻んできたのだろう。子の顔をのぞきこんで、おしなは、何度もうなずいた。

 「よう、ここまで来ました。もう、だいじょうぶ」

 その声を聞いて、邸じゅうの張りつめていたものが、ようやく、ふっとほどけた。九つの夜を、みなで灯をともし、声をかけ、願いつづけて、ようやく、ここまで子を運んできたのだ。誰ひとりとして、この子を一夜きりで産んだのではない。村じゅう縁者じゅうの灯と声とで、九つの夜をかけて、ようよう産み育てた——産養とは、そういうものなのだと、このとき、われはようやく腑に落ちた。

 九夜の灯が消えるころ、われは庭に出て、白みかけた空を見あげた。九つの夜のあいだ、絶やさずにともしてきた灯が、もう要らなくなる。そう思うと、なぜだか、胸の奥が、あたたかかった。

◇ ◇ ◇

 産養は、それからも、長いこと続いたと聞く。

 やがて三夜や五夜の祝いはすたれ、七夜の祝いだけが残って、今に伝わる「お七夜」になったという。名をつけて、人を呼んで、子の誕生を祝う——その大もとには、あの、九つの夜を息をつめて見守った、人々の祈りがあったのだろう。

 今では、子はたいてい、ぶじに育つ。三夜や九夜を、息をつめて数える人は、もういない。それは、よいことだ。何より、よいことだ。

 それでも、と思う。生まれた子に、まっさらな産着を着せ、人を呼んで、灯をともして祝う——あの習わしのなかには、おしなのような誰かが、夜道を厭わず通ってきた、その灯のあたたかさが、今もまだ、ひとつぶ、畳み込まれている気がする。

 みなで願えば、きっとこの子は育ちます——そう言って笑った、あのしわだらけの顔を、ボクは、まだ覚えている。

参考文献・もっと詳しく

産養(うぶやしない)は、子の誕生後、三夜・五夜・七夜・九夜と奇数の夜ごとに、縁者が産着や食べ物を贈り、灯をともして祝った平安時代の習わしと伝わる。生後まもない子の死亡率が高かったことを背景に、夜ごと人が集まって子の無事な成長を願ったもので、七夜の祝いがのちの「お七夜」につながったとされる。新生児に白い産着を着せ、産屋を白を基調にしつらえる風も広く行われたという。『紫式部日記』には、寛弘五年(一〇〇八年)の敦成親王誕生にともなう華やかな産養の様子が記されていると伝わる。長保五年は一〇〇三年(長保は九九九〜一〇〇四年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。人物・会話・情景は創作。

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