反古の山と、一枚の文第 72 話言語
言語平安のころ・平安京読了 約6分

反古の山と、一枚の文

〜なぜ讃岐は、役所仕込みの手に、女手をまねさせたのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 寛弘三年(一〇〇六年)の春、平安京の西のはずれ、うらぶれた邸やしきの門を、われは叩いていた。奥方おくがたの里から届いた、産み月を気づかう一通の文を届けに来たのだが、応対に出たのは当主の妻ではなく、この邸に長く仕える乳母めのとの讃岐さぬきだった。この邸へ文を運ぶのは、もう十度あまりになる。われが日ごろ役所への使い走りも兼ね、真名の読み書きに通じていることを、讃岐はいつのまにか知っていた。

 「奥方さまは、産所さんじょのご用意でいま手が離せませぬ。文は、わたくしが預かりましょう」

 奥をうかがえば、若い女房にょうぼうたちが几帳の向こうを行き来し、湯を運び、布を運び、走りまわっていた。姫君の産み月が近いのだという。奥方の実家は遠国ゆえ、この邸で産所を整えることになったと聞いた。手の空いている者など、ひとりもいない。

 「返しの文は、わたくしが書きます。じゃが、灯りが足りぬ。そなた、しばしそこにおって、持っていておくれ」

 断れる立場ではなかった。われは灯を持って、讃岐が文机ふづくえに向かうかたわらに膝をついた。届けを終えて帰るつもりが、思いがけず、その場に足止めをくったかたちだった。日の暮れた邸で長居する気など、もとよりわれにはなかった。

 讃岐の歳は、六十をいくつか越えているという。この邸に仕えて、もう四十年近くになるとも聞いた。先代の主がまだ幼かった時分からの奉公だという。手はいくらか震えていた。年のせいだと、われにも見て取れた。それでも筆を持てば、震えは不思議と鎮まり、細い線が紙のうえをするすると流れていった。葦あしが風になびくような、まるくやわらかい字だった。

 だが、書きだしてすぐ、灯りが揺れた拍子に筆が乱れ、墨が大きくにじんだ。讃岐は小さく舌打ちして、その紙を丸め、脇へ放った。

 紙一枚の値打ちは、文使いの身のわれもよく知っていた。都の外から運ばれてくる檀紙だんしのたぐいは、ことに贅沢な品とされ、そこらの家では、書き損じの一枚さえ惜しんで裏を使いまわす。丸めて放られていくのは、それほどの品だった。

挿絵:紙一枚の値打ちは、文使いの身のわれもよく知っていた

 「紙は、一枚たりとも無駄にはできぬ。灯りを、もそっと動かさずに持て」

 叱られて、われは灯を持つ手に力をこめた。二枚目は無事に書きあがったが、三枚目にかかったところで、讃岐の指がひどく強張り、線がぶれた。また一枚、丸めて放られた。

 「この歳になると、長く筆を持つのが、こたえる」

 讃岐はそう言って、いちど手を休め、指を揉んだ。それから、われの顔をちらと見た。

 「そなた、役所づとめで、真名の読み書きができると言うたな」

 「はい。米や役の名を記す程度でしたら」

 「ならば、これへ、便りに添える米の到来の一件を、真名で記しておくれ。わたしの手は、もう幾らも残っておらぬ」

 気は進まなかったが、われには断る術もなかった。渡された紙に、われは役所仕込みの角ばった真名で、米の到来を手短に記した。書き慣れたことゆえ、これはすぐに済んだ。

 「うまいものよ」讃岐はそれを一瞥して言った。「だが、奥方さまの母上へのお便りだけは、わたしの手で書かねばならぬ。声を届けるのは、真名にはできぬことじゃ」

 讃岐は、われの記した真名の一枚を一瞥してうなずくと、みずから筆をとった。だが指の強張りは去らず、線はまだ思うように運ばなかった。

 「困った」讃岐はつぶやいた。「あと一行、母上をご案じさせぬための結びの一行だけでよい。そなた、わたしが読みあげるとおりに、女手の形をまねて書いてみよ。紙は、もう惜しんではおれぬ」

 驚いたのはわれのほうだった。役所の真名しか手になじんでいない身に、この流れる字が書けるはずもない。断ろうとしたが、讃岐はもう別の紙を差し出していた。

 言われたとおり、筆をとってみる。一枚目は、手が真名の書きぐせを忘れられず、角ばって、墨がぼたりと落ちた。二枚目は、力を抜こうとしすぎて、線がだらしなく流れ、字の形をなさなかった。三枚目、いっそ黙って書くのをやめ、声に出すときのように力を抜いて筆を運んでみると、それらしい丸みが、ようやく紙の上に落ち着いた。

 讃岐はそれを覗きこみ、しばし黙って眺めていた。指を軽く揉みながら、それから、可笑しそうに、けれどどこか感心したふうに言った。

 「そなたの『あ』は、隣の邸の主の書く『あ』とも、また違う形じゃな。人の手の数だけ、崩れ方があるものよ」

挿絵:「そなたの『あ』は、隣の邸の主の書く『あ』とも、また違う形じゃな

 それから、手を休めながら、独り言のようにつぶやいた。

 「わたしが童女であった時分は、女子が真名を人前で読み書きすれば、賢しらと眉をひそめる家もあったものよ。近ごろは、それもずいぶん薄れてきた。姫さまなど、殿方の御前でも、真名の文を恥じずにお読みになる」

 結びの一行を、われの拙い手が引き取った。震える線ではあったが、讃岐が読みあげる言葉のとおりに、なんとか形にはなった。

 「これでよい」讃岐はうなずいた。指の強張りは、いくらかやわらいだふうだった。「これを下に敷けば、わたしの手でも迷わず運べる。あとはわたしが清書して、母上へお届けする」

 讃岐は、真名の一枚とわれの拙い一枚を見比べながら、あらためて自分の筆で、母への便りをしたため直した。われの書いた行は、そのまま下敷きにされたきりだった。

 文が結ばれ、われの手に渡されたときには、すでに日が傾いていた。隅の反古の山は、いつのまにか七つほどに増えていたが、そのまま片づけられる様子もなく、部屋の隅に残されていた。

 邸を辞して大路へ出る。懐の文は、もはやわれの字を一字も残していない、讃岐だけの声の文だった。それでも、われの手のひらには、慣れない筆を持たされたときの、あの妙な強張りだけが、まだ残っていた。

◇ ◇ ◇

 あの文が、母御のもとへ無事に届いたのかどうか、ボクは知らない。届け先を見送っただけの文使いには、そこから先を知る術がなかった。ただ、われの書いた米の一件は、讃岐の清書のなかに、たしかに畳みこまれて運ばれていったはずだ。

 いっぽう、隅に丸めて放られた反古の山——われが幾度も失敗した、あの不格好な女手の練習の跡は、たぶんその晩のうちに集められ、また漉すき返されて、別の白い紙になっていっただろう。ようやく形になった三枚目の、あの一行も含めて。

 いまボクらが指先で軽々と打っている、まるい仮名には、決まった形がある。学校で、みなおなじ「あ」の形を教わる。だが、あの日の讃岐の「あ」と、隣の邸の主の「あ」と、われが三枚目にどうにか書いた「あ」とは、どれも少しずつ違う形をしていた。ひとつの音に、決まった一つの形——そんな取り決めは、まだどこにも無い時代だった。

 讃岐の指の強張りも、漉き返された反古の行方も、いまはもう誰も知らない。それでも、ボクの掌には、いまだにあの晩の感触がよみがえることがある。角ばった真名を刻むのとはまるで違う、力を抜いて、しゃべるように動かした筆の、あの頼りなくて、けれど確かな軽さだ。

参考文献・もっと詳しく

※ 平仮名は、漢字を草書体にさらに崩して簡略化した万葉仮名・草仮名を経て、平安時代に成立したとされる。公的・学問的な場で用いられた漢字(真名・男手)に対し、日常の手紙や和歌に用いられた平仮名は女手と呼ばれ、女性たちの手紙・和歌・物語・日記文学を育て、その後の女流による日記文学・物語文学の隆盛につながったと言われる。字形はこの時期まだ人ごと・家ごとに揺れがあり、一音一字に定まるのはのちの時代のことである。寛弘三年は一〇〇六年(寛弘は一〇〇四〜一〇一二年)。『源氏物語』成立(十一世紀初頭)より前の時代設定とした。文使い・讃岐ほか本話の人物・会話・邸は創作。女房は貴族に仕えた女性の称。

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