晦日の辻の屋台、左の端に伏せてある欠けた丼第 10 話食
食江戸のころ・寛政の市中読了 約6分
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晦日の辻の屋台、左の端に伏せてある欠けた丼

〜屋台の左の端の丼は、いったいだれの場所だったのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 年の瀬のそば屋のカウンター。端の席の客が、持ちあげた麺をなかなか口へ運ばず、湯気のなかで丼の縁を指でなぞっている。縁には、小さな欠けがある。

◇ ◇ ◇

 寛政かんせい五年(1793年)の大晦日。江戸の市中は、朝から掛け取りが走りまわっていた。番頭が帳面を抱えて駆け、餅をつく音があちこちの路地から飛んでくる。借りは、今年のうちに返す日だ。

 おいらはといえば、町はずれの木戸きどぎわで、日雇いの口を待つ身だった。そこへ、背の曲がった年寄りがひとり来て、おいらの顔をじろりと見た。

 「手が空いてるなら、うちへ来な。夜売りの手伝いが、風邪で寝込んじまった」

 留蔵という、七十に手の届きそうな蕎麦そば売りだった。名を聞くと、与一、と答えたおいらに「そうかい」と言ったきり、あとは黙って先を歩いていく。

 長屋の土間には、昼のうちに練りあげた蕎麦の玉が、濡れ布巾をかぶせて並んでいた。粉に水をまわすのは三度に分けるのだと、留蔵の手が教えている。一度に注げば粉は固まって、そのあとどれだけ練っても、細くは切れない。おいらは玉を押す役を言いつかり、掌の付け根で、生地がまとまってくる重さを何度も確かめさせられた。留蔵は、のし板に薄くのばした生地を折りたたみ、おいらの前へ押しやって、包丁を握らせた。

 切ってみろ、ということだ。

 おいらは、できるだけ細く、幅をそろえて切った。留蔵は、切りあがった束を笊ざるへ受けながら、太いものだけを指先でつまんでは、脇の小鉢へ落としていく。小鉢はみるみる山になった。あとで自分の腹に入れるのだろう。客の丼へ行くのは、そろった細い束だけだ。

 ふだんの晦日は八把、と留蔵は言った。今夜は十六把。それだけ言って、また黙った。笊に積んだ束が、ひとつずつ増えていく。数えながら、おいらは、年の最後の晦日だけ客がふだんの倍になることを、留蔵がもう何十回も繰りかえしてきたのだと悟った。

 戸を出ると、町は一年の勘定を片づける騒ぎのただなかだった。売れ残りのしめ飾りを叩き売る声、借金取りに追われて路地へ逃げこむ者。その流れを、留蔵は少しも急がずに、背を丸めて横切っていく。草履の踵は、すっかりすり減っていた。

挿絵:戸を出ると、町は一年の勘定を片づける騒ぎのただなかだった

 日の傾くころ、天秤てんびんを担いだ。前の箱に釜と炭、後ろの箱に丼と笊。肩に食いこむ重さは、思ったよりずっとこたえた。

 留蔵が足を止めたのは、問屋の並ぶ通りが行きどまる辻の、油屋の塀の陰だった。大通りに面した明るい角には、ほかの屋台が先に陣取っている。ここは風が抜けて、人通りも少ない。それでも留蔵は迷わず荷を下ろさせ、提灯ちょうちんには火を入れずに待たせた。留蔵はしばらく、風の来る方へ鼻を向けていた。それから、荷の底の菰こもを引き出させ、風上に当たる側へ吊らせた。遠くで暮れの鐘を聞いてから、ようやく、火を移した。

 釜に火を起こし、丼を並べるのは、おいらの役だった。七つ並べたところで、留蔵が横から手を伸ばして、一つ取り上げた。縁の欠けた丼だ。布巾で拭いて、屋台の左の端に伏せて置く。客の前には出さない丼だった。

 最初の客は、風呂敷包みを背負った手代てだいたちだった。一日駆けずりまわった足を、釜の前で止める。丼を受け取ると、決まって麺を箸で高く持ちあげ、ひと呼吸、眺めてからすする。

 「細く、長くってな」と、ひとりが言う。

 隣の男は、丼を置いて笑った。

 「おれは逆だ。切れやすいのがいい。今年のしくじりも貸し借りも、ここでぷつんと切って越すのよ」

 丼は六つしかない。食い終えた客から順に返され、おいらは洗い桶の水で手早くすすいでは、また釜の脇へ並べた。水はたちまち冷たく濁り、指先の感覚がなくなっていく。それでも、客の列は切れなかった。

 白髪まじりの男が、湯気のなかで手ぬぐいを使った。手の甲に、金粉が細かく光っている。金箔きんぱくを打つ職人だという。落ちた金は、蕎麦粉を練った団子でぺたぺた拾うんだ、だからそばを食えば金が寄る、と男は自分で言って、自分で笑った。

 留蔵は、どの客にも同じ手つきで、同じ丼を出した。細く長くと言う客にも、切ると言う客にも、金だと笑う客にも。どの願いが本当なのか、留蔵は一言も口にしない。ただ、釜の湯の加減を見て、客の数を目で数えていた。

 客がいったん切れたころ、留蔵が釜の湯気ごしに言った。左の端の、欠けた丼のことだった。

挿絵:客がいったん切れたころ、留蔵が釜の湯気ごしに言った

 「毎月の晦日にな、ここで食ってたのは、問屋の番頭さんだ」

 月の終わりは、掛けの取り立てで一日じゅう走りまわる。帰りにここへ寄り、いつも左の端に立ったまま一杯すすって、肩の力を抜いてから店へ戻った、という。

 「去年の暮れまではな」

 それきり、留蔵は黙った。雪が、ちらつきはじめた。吊るした菰が、風にあおられて鳴る。風上へ吊れと言いつけられたわけが、これで知れた。釜の火は、菰の陰で、びくともしない。

 客の絶えた間に、留蔵は脇の小鉢を、おいらのほうへ押しやった。昼に自分がはじいた、太い束だ。おいらは釜の湯をもらって、その場でゆがき、立ったまますすった。不ぞろいで、噛みごたえが勝つ。細いほうが喉をするすると通ると、それで分かった。

 鐘がひとつ遠くで鳴ってから、足音がひとつ、辻を曲がってきた。若い手代だった。担いだ風呂敷はほとんど空で、取れる分は取れたのか、取れぬ分は持ち越しなのか、顔つきからは分からない。ただ、肩だけが落ちていた。

 手代の目が、左の端の欠けた丼に止まった。

 留蔵は黙ってその丼を起こし、そばを釜へ放りこんだ。湯を切る手は、もう次の笊へ伸びている。つゆの柄杓は、おいらの手の届くところにあった。おいらは、それをつかんで、注いだ。

 手代は丼を両手で受けた。左の端に立ち、箸を取る前に、まず丼のぬくみを掌へうつした。それから麺を持ちあげ、何も言わずに、すすった。ずる、ずる、と音がするたびに、すぼめていた肩がほどけていく。灯の前で、背がひと回り、ゆるんだ。

 空けた丼を、手代は留蔵の手へ返した。頭をひとつ下げ、風呂敷をゆすりあげて、暗い通りへ戻っていく。留蔵は丼を受けて、洗い桶に沈めた。

 遠くで、ごおん、と夜の鐘が鳴りはじめた。留蔵は欠けた丼を洗って拭き、またそっと、左の端に伏せた。雪のなかで、釜の湯気がいっそう白く立った。

 明け方近く、帰りの天秤を、おいらはまた肩に担いだ。行きより軽いはずなのに、肩の同じ場所が、じんと痛んだ。長屋の土間で、留蔵は賃の代わりに、不ぞろいの束を紙に包んで寄こした。おいらはそれを天秤の荷に差し入れ、正月の朝の人影の少ない町を、次の宿へ向かって歩いた。長屋の戸口の提灯の火はもう消えていた。留蔵はそこに立ったまま、おいらの背を見送っていた。

◇ ◇ ◇

 大晦日の晩、そば屋の前にできる長い列を見るたびに、ボクはあの辻の、左の端の席を思い出す。月ごとの晦日にすすった一杯が、年の最後の晦日にいちばん濃くなって、のちに年越しそばと呼ばれるようになった、と聞く。ああ、ここからか、と湯気の前で思った。そのときの懐かしさは、いまも舌の奥に残っている。

 あれから春になって、ボクはあの辻をもう一度通った。油屋の塀の陰、左の端で、丼を傾けている手代がいた。湯気に丸めた、その背だ。

参考文献・もっと詳しく

※ 蕎麦は古くは「蕎麦がき」など餅状・団子状で食され、麺状の「そば切り」が一般化したのは近世とされる。江戸では屋台でそばを供する形が広まり、庶民の手軽な食として親しまれた。年越しそばは、商家が月末に食べた「三十日蕎麦」が大晦日の年越しに転じたものと考えられ、文化十一年(一八一四年)刊『大坂繁花風土記』には年越しそばの記述が見える。「細く長く達者に」「切れやすいので悪縁を断つ」「金を集める縁起物」など由来には諸説があり一定しないため、本話でも当時の人々の伝聞・俗説として相対化して描いた。留蔵ほか登場人物と会話は創作だが、道具・食・身分・言葉は時代と矛盾しない範囲にとどめた。寛政五年は西暦一七九三年(寛政元年は一七八九年)。

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