窮屈な袍を脱いだ若君が、選んだあの一枚のこと第 104 話衣服
衣服平安のころ・平安京読了 約6分

窮屈な袍を脱いだ若君が、選んだあの一枚のこと

〜袖の閉じていない一枚を、若君はなぜあれほど身軽にまとえたのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 なぜ、あの一枚だけは、位の重みからまぬがれていたのか。

 装いがそのまま身分の証しだったころ、くつろぐことすら、たやすくは許されなかった。位を示す衣は重い。糊はこわばり、袖は床を払うほどに長い。立つにも坐るにも作法が要って、布のほうが人を動かしていた。よい家に生まれた者は、それを朝から晩まで着ているのが務めだった。人前に出るからには、たとえ我が家の内であっても、その重さから逃れられなかった。

 その窮屈の只中へ、野のほうから一枚の軽い衣がのぼってきた。狩りに出るときの、ただ動きやすいだけの略装りゃくそうだ。それがどうして、貴き人々に選ばれる一枚になっていったのか。ボクには、まだ針を持っていたころの、ひとつの秋でしか答えられない。

◇ ◇ ◇

 長和五年(一〇一六年)の秋のことだった。われは平安京のとある邸で、繕い物の手伝いをして口を糊していた。腕のよい仕立て手の下について端切れをまとめ、糸を通し、針を渡す。それだけの見習いの日々だった。邸の隅の板敷きで、日がな一日、他人の衣の綻びを繕う。針の先だけを見て過ごす日々に、季節の移ろいは、持ち込まれる衣の厚みで知れた。

 その邸の若君は、まだ元服げんぷくしてまもない年で、何より身を動かすのが好きな人だった。鞠まりを蹴り、弓を引き、馬を駆けたがる。ところが、よい家の子であればあるほど、装いは重く定められている。表向きの場で着る袍ほうは、肩が張り、裾が長く、袖の口がふさがって、腕を高く上げることさえままならない。鞠ひとつ蹴ろうにも、布が足にまといついて、若君はいつも苦い顔をしていた。坐れば裾を踏み、立てば袖をもてあます。先だっての客人を迎えた日にも、若君は幾度も裾を踏んで、供の者にたしなめられていた。客が去ると、真っ先に肩の紐をゆるめたがった。

 あるとき、供の者が若君に着せていたのは、この邸ではまだ数を作らぬ一枚だった。野の装いを御殿の内で仕立てるのは、この家では珍しいことで、公の場に出せるものではないと言われていた。

 仕立てがまるで違う。両の脇が縫いふさがれておらず、身ごろと袖とが、肩のところでしか留まっていない。だから腕を上げれば、脇から風が通って、布が背についてこない。袖の口もすぼめずに、紐でゆるくくくるだけだ。襟もとも張らず、裾も短い。袍にくらべれば、まるで野良着のように、そっけなく軽い。

 われは思わず近寄って、その布に手をふれた。糊はほとんど効いておらず、指のあいだをするりと逃げる。やわらかな絹だった。手のひらに乗せると重さがないようで、息で吹けば動きそうなほど薄い。袍を縫うときの、あの腕に残るこわばりとは、まるで別の手ざわりだった。日にかざすと、薄い地のむこうに、若君の腕の影がほのかに透けた。色は枯れかけた草を思わせる、ひかえめな香染こうぞめ。丁子ちょうじの実を煮出した汁で染めると、仕立て方の間では聞いていた。深く煮出すほど色は濃くなり、独特の匂いが生地に移るのだという。野に出ても土にまぎれ、獣に覚られぬための地味な色だと、仕立て方の間では言い慣わされている。実用から来た色がそのまま、目にやさしい上品さになっている。

挿絵:われは思わず近寄って、その布に手をふれた

 仕立てを生業とする者ならば、ひと目で知れることだった。これはもと、狩りに出るときの略装だ。馬上から弓を引き、鳥を狩り、獣を追う。そういう荒々しい動きに、長い袖や張った肩は邪魔でしかない。だから脇を開け、袖をくくり、裾を短くした。裾が長ければ鐙にからむし、袖がふさがれば弓を引く肘が邪魔される。すべては、身軽に動くため、ただそのためだけの仕立てだった。

 われは、その縫い目に指を這わせて、目の数を数えた。脇を縫わぬ分だけ、糸目が少ない。括くくり緒おの通し穴も、いつもの倍近く大きい。布を縛るための工夫ではなく、布を解き放つための工夫だった。

 若君は、その一枚をまとうと、別人のように身軽になった。庭へ駆け下りて、鞠をひとつ、高々と蹴り上げる。袍を着ていたときには上がらなかった腕が、脇の開いた布のなかで、伸びやかに振りぬかれる。庭先の楓が色づきはじめた、よく晴れた日だった。供の者たちも、袍姿の若君しか知らぬ者ばかりで、そのはしゃぎように目を丸くしていた。

 「これだ。これでなくては、息ができぬ」

 若君は笑って、何度も鞠を追った。脇から秋の風が通って、薄い布がふわりと背に膨らむ。括り緒でしぼった袖が、腕を振るたびに小さく鳴って、若君の動きにぴたりとついていく。

 その声に、ボクの奥で、何か遠い日の感覚が、静かに繋がった気がした。

 ひとしきり鞠を追って、汗ばんだ若君が縁に腰をおろす。その坐りようまでが、袍のときとはまるで違った。袍ならば、裾をさばき、膝を整え、布のかたちが崩れぬよう坐らねばならない。それがこの一枚なら、膝をくずして、片肘をつき、思いのままに身をあずけられる。われは繕いの手を止めて、その姿にしばらく見入っていた。

挿絵:ひとしきり鞠を追って、汗ばんだ若君が縁に腰をおろす

◇ ◇ ◇

 狩りの場だけで許される装いだった。人目のない庭、馬を駆る朝。表向きの場へは、けっして着ていけぬものとされていた。客のある日には、若君も渋い顔で、肩の張った装いに身を押し込んでいた。供の者に幾重も引きあわされ、帯を締められて、ようやく座につく。

 それから幾年か、われはただ端切れを繕う日々のなかで、その一枚が少しずつ変わっていくのを見ていた。誰の仕立てによるものか、布はだんだん上等になり、染めは深くなり、文様がひそやかに織り込まれていく。秋には枯野を思わせる薄い香染め、冬には濃いめの縹はなだを。裏地にも気が配られ、表と裏の重なりが透けて、また別の色に見えるようになった。それでいて、脇を縫わぬという肝心の仕立てだけは、けっして変わらなかった。

 ある年の冬、われは古参の染め師に手伝いを頼まれ、縹の甕のそばで、幾度も布を上げ下げする役にまわった。藍の匂いが指先にしみつき、幾日も抜けなかった。染め上がった布を若君の間へ運ぶと、若君は袖に腕を通すなり、庭へ飛び出していった。

 客のない日、気のおけぬ仲間と語らう宵、書見の合間。若君は、いつしかその一枚を選ぶことのほうが多くなっていた。供の者に袍を出されても、まず片手で脇の開いた一枚を指すのが、いつのまにか癖になっていた。

 あるとき、年かさの女房にょうぼうが、繕い物を運ぶわれとすれ違いざま、こうつぶやいた。

 「あんなに野卑なものと厭われていた衣が、いまや殿方のいちばん気に入りの一枚とは。世も変わるものよ」

 われは、針を持つ手をふと止めた。幾年ものあいだ、この邸に仕えてきた。若君は元服したばかりの少年から、鬢に髭のあとが見える年になった。それでも、われの指のさきだけは、来た当初と同じ荒れかたのまま、変わらぬように見えた。これから先も、幾年こうして針を持ち続けるのか——ふとそんな思いが胸をよぎって、われは急いで、手もとの針をまた動かした。

 幾年か経つうちに、その衣には「狩衣かりぎぬ」という名が定まっていた。若君は壮年になっても、客を送り出したあとは、きまってあの一枚に着替えた。脇の開いた布から風を入れ、ふう、と肩を落とす。括り緒をゆるめて、袖を広くもどす。その仕草が、われはなぜだか好きだった。

◇ ◇ ◇

 狩衣の仕立て方は、幾つもの記録や図に描かれている。脇をどれだけ開けるか、括り緒をどこに結ぶか、裾を何寸落とすか。後の世の者も、その寸法さえあれば、同じ形を起こせるだろう。

 だが、あの秋、まだ糊の抜けきらぬ生地から立ちのぼっていた、丁子染めのかすかな匂いは、どの記録にも描かれていない。新しい香染めの衣は、幾たびか着るうちに、その匂いを失っていく。染め上がったばかりの布を運ぶたび、われの指先にもうつっていた、あの秋だけの匂いを覚えているのは、もうわれだけかもしれない。

 鞠を追って笑っていた若君の声も、脇から抜けていった秋の風も、どこにも記されてはいない。縹の甕のそばで指先にしみついた、あの藍の匂いも、とうに消えた。ただ、丁子の匂いだけが、繕い物の合間に、ふっとよみがえることがある。

参考文献・もっと詳しく

※ 狩衣(かりぎぬ)は、もと野外での狩猟や鷹狩のための略装で、両脇を縫い合わせず、袖口を袖括りの紐でくくるなど、動きやすさを旨に仕立てられた衣とされる。平安中期以降、その身軽さが好まれ、貴族の私的な場でのくつろぎ着・普段着として広く用いられるようになったと伝わる。当初は略装ゆえ晴れの場には用いなかったが、しだいに生地や文様が整えられて格を上げ、後世には公家の常用の装いの一つとなったという。長和五年は一〇一六年(長和は一〇一二〜一〇一七年)。本話の人物・会話・情景は創作。

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