散りゆく春を、ひとすじの色に閉じ込めて袖に纏った娘のこと12
平安のころ・都の東の京読了 約7

散りゆく春を、ひとすじの色に閉じ込めて袖に纏った娘のこと

散ってしまった桜を着てはならぬと、なぜ老いた染め女は静かに首を振ったのか

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 着るものの色など、今は気分で選べばいい。

 朝に簞笥を開けて、なんとなく手の伸びたものを羽織る。誰も咎めはしないし、季節を外したからといって笑われることもない。せいぜい「暑そうだね」と言われるくらいのものだ。

 けれど色の取り合わせそのものに名があって、その名を取り違えれば人前で恥をかいた——そんな時代が、たしかにあった。

 平安のころの貴人は、衣を何枚も重ねて着たらしい。袖口や裾には重なった衣の色が薄い順に幾筋ものぞき、薄物の表からは裏に当てた色がほのかに透けて、もとの色とは違うもう一つの色を生む。その重なりの一つ一つに、紅梅だの萌黄だの柳だのと、花や若葉の名がついていたのだという。

 どの色を、どの時季に重ねるか。それを誤らぬことが、そのまま人の教養とされたのだとも聞く。

 ボクは、その色を染めて仕立てる家のかたわらで、しばらく下働きをしていたことがある。

◇ ◇ ◇

 長和四年(一〇一五年)の春のことだ。都の東の京、とある受領の館で、衣の染めと仕立てを一手に束ねる、いとという老女がいた。われはその染め場で、藍や紅花の甕をかき混ぜ、染め上がった絹を物干しへ運ぶ下働きをしていた。

 その日、館は大わらわだった。家の若い姫がはじめて宮仕えに上がる。その晴れの装束を、いとが仕立てていたのだ。

 いとは、もう幾人もの娘をこうして宮へ送り出してきたらしい。館の女たちは、染めのことならいとに聞け、と口をそろえる。年は誰も知らぬほど寄っているのに、色を見る目だけは少しも衰えていなかった。

 染め場には色という色が干されていた。薄紅、濃き紫、淡い萌黄、白がかった青。風の通るたびに絹が揺れ、色と色が触れ合って、見ているこちらまで目が染まりそうだった。

 染めというのは、見た目よりずっと根気のいる仕事だ。紅花の色を取るには、まず黄の汁を幾度も水で洗い流し、最後にわずかに残る紅だけを灰汁で引き出す。藍は甕の中で生き物のように発酵して、覗き込めばつんと鼻を突く匂いが立つ。布を一度浸しただけでは淡い色しかつかない。浸しては空気にさらし、また浸す。それを何十遍とくり返して、ようやく濃い色が宿る。われの手は、いつも爪の先まで藍に染まっていた。

 いとは、その一枚一枚を手に取っては光に透かしていた。

 「この白に、この紅を裏から当てる。すると、ほら」

 いとが薄い白絹を紅の上に重ねてみせると、白がほんのり色づいて淡い桜の色になった。表は白、裏は紅。重ねて透かすと、そのどちらでもないもう一つの色がうまれる。それが桜の襲、というものらしかった。

 姫は、その桜をたいそう気に入った。これを着て上がりたいと、頬を染めて言う。

 ところが、いとは静かに首を振った。

 「もう、遅うございます」

 なぜ、とわれも思った。これほど美しいのに。

 いとは庭を指した。館の桜はもう盛りを過ぎて散りはじめ、地には花びらが散り敷いていた。

 「桜は咲くころに着るもの。散ったあとに桜を着てまいれば、宮の女房がたは口には出さずとも笑いましょう。あの子は花の散ったのも知らぬ、と」

 色を時季から外すというのは、そういうことらしかった。袖の端にのぞく一筋の色が、その人の目がどこまで世を見ているかを、声よりも先に告げてしまう。

 姫の顔が、みるみる曇った。せっかくの桜を着られぬのか、と。

 いとは、その肩をそっと撫でて別の絹を引き寄せた。薄い紫の表に、青みの裏を当てる。重ねて透かすと、藤の花の色になった。

 「これからは藤がよろしゅうございます。藤なら、春の名残を惜しみながら夏のはじめへも続いてまいります。散った桜を惜しむお心は、この薄紫がちゃんと宮の方々へ伝えてくれましょう」

 色には言葉があるのだ、といとは言った。

 声を高くして物を言うことのかなわぬ女たちは、その心を襲の色に託してきたのだという。喪に服す者は鈍色という、ねずみがかった沈んだ色を重ねる。人を慕う心がきざせば、袖の端にそっと紅をのぞかせる。春を待ちかねれば、雪の下から芽吹く色——紅梅を装う。

 「どうして、口に出しては言わぬのです」

 姫がそう尋ねると、いとはちょっと笑った。宮の暮らしでは、女が思いをそのまま口にするのははしたないとされる。簾の内に座って、めったに顔も見せぬ。そういう人たちにとって、袖の端からこぼれる色だけが、外の世へ差し出せるただ一つの便りだった。だから色は、それは細やかに選ばれたのだという。喜びも、悲しみも、人を待つ心も。ひとことも交わさぬまま、几帳ごしの色合いひとつで相手の胸のうちを察し合うことさえあったらしい。

 「色を選ぶというのはね、その日の空と、おのれの心と、両方を読むことでございますよ」

 姫は藤の絹を胸に抱いて、こくりとうなずいた。さっきまでの曇りはもう消えて、なにか大切なことを授かった顔をしていた。

 われは、ただの色だと思っていた。甕の中の、染め汁の色。けれど、いとの手にかかると、それは暦になり、人の心の声になった。

 その日から、姫は暇さえあれば染め場へ来て、いとに色の名を尋ねた。

 表が紅で裏が紫なら紅梅。表も裏も濃い緑なら松。萌え出る若葉のような黄ばんだ緑は萌黄。表が白で裏が青なら卯の花。藤、柳、山吹、女郎花——花の名、葉の名、そのほとんどが、衣の重なりの色についていた。

 春が深まれば柳の襲、夏が来れば卯の花や撫子、秋には紅葉や女郎花、冬には松や氷のような色。一年が、衣の重なりのなかにそっくり畳み込まれていた。暦をめくるように、女たちは季節ごとに袖の色を替えていったのだという。そうして袖の端を見れば、その人がいま、どの季節のなかに生きているのかが知れた。

 いとは、その一つ一つを、まるで昔なじみの名でも呼ぶように口にした。長い年月、これらの色を自分の手で甕から引き上げてきたのだろう。その指の節は藍と紅が幾重にも染み込んで、洗っても落ちぬ色になっていた。

 「年寄りの手は、もうどんな色にも染まりませぬ。けれど染まらぬからこそ、どの色も曇らせずに渡してやれる」

 そう言って、いとは笑った。

 いとは、若いころに、さるやんごとなき姫君の装束をひとそろい染めたことがあるのだという。その姫君は季節のうつろいに人一倍敏い人で、同じ紅梅でも、年の明けてすぐと梅のほころぶころとでは、紅の濃さをわずかに変えさせたそうだ。

 「ひと色のなかにも、何十という濃さがございます。その日の風の冷たさ、日ざしの強さ。ほんのわずかの加減で、見る人の胸に届く季節が変わる。あのお方は、それをぜんぶお分かりでした」

 いまその姫君がどこでどうしているのか、いとは語らなかった。ただ色を引き上げる手つきだけは、若いころのまま少しも狂わぬのだと、自分の指を眺めて言った。

 姫は、上がる前の幾日かを色あわせの稽古に費やした。十二の単衣を薄い順に並べては重ね、いとに見せる。差し込む一枚の順を違えただけで、いとは「それでは紅が勝ちすぎます」とやり直させた。姫の指は、はじめこそおぼつかなかったが、日に日に迷いがなくなっていった。

 宮へ上がる朝、姫は藤の襲を装った。

 薄紫の表に、濃い紫から白へと薄れていく幾枚もの絹を重ねてある。袖口や裾からは、その色が薄い順に幾筋ものぞいて、波のように零れていた。歩くたびに、それが揺れる。散りゆく春と来たる夏とが、その一人の娘の袖の上で、静かに重なり合っていた。一枚いちまいの色は、いとがこの幾日、甕の前で根気よく引き上げてきたものだ。

 見送るいとは何も言わなかった。ただ目を細めて、その色の波をいつまでも見ていた。

 門を出ていく姫の後ろ姿を、われも染め場の隅から見ていた。藤の色は日の光のなかでいっそう淡く、白い陽炎のように揺れている。あの色のなかには、いとの幾十年の指の記憶と、散ってしまった桜への名残とが、そっくり畳み込まれているのだろう。娘はそれを知ってか知らずか、軽い足取りで坂を下っていった。

◇ ◇ ◇

 その色の名は、今もいくつか残っている。

 紅梅、萌黄、桜、藤。色見本の帳をめくれば、隅のほうに小さな四角で、そんな名がふられていることがある。けれど、それを選ぶとき、もう誰も散る桜のことも芽吹く若葉のことも思いはしない。名は残って、暦のほうが抜け落ちてしまった。

 それでも、とボクは思う。

 いつか春のおわりに、藤の花を見上げることがあったら。あの薄紫を、ほんの少し思い出してほしい。声に出さずとも、袖の端の色ひとすじだけで、移ろう季節と揺れる心を、まるごと相手へ手渡せた人たちがいたことを。

 色には、言葉があった。ボクは、それを忘れたくないんだ。

参考文献・もっと詳しく

襲(かさね)の色目は、平安期の貴族が複数の衣を重ねて着る際の、表裏や層の配色の取り合わせを指すとされる。薄い絹を通して裏の色が透ける効果も含め、紅梅・萌黄・桜・藤・卯の花など草木や季節の名で呼ばれ、時季にふさわしい配色を選ぶことが教養とみなされたと伝わる。喪の鈍色(にびいろ)など心情を表す色も用いられたとされる。長和四年は一〇一五年(長和は一〇一二〜一〇一七年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。色目の名称・組み合わせの定義は文献・時代により異同があり、本文の表裏の対応は代表的な一例として扱う。

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