黒く染めてこそ、一人前——白い歯を恥じた頃の、鉄漿(かね)のはなし69
平安のころ・平安京読了 約8

黒く染めてこそ、一人前——白い歯を恥じた頃の、鉄漿(かね)のはなし

はじめて歯を染める朝、姫君は、なぜあんなに鏡を覗きこんだのか

 今の世では、歯は白いほどよいとされている。

 歯を白くする練り粉が棚にずらりと並び、わざわざ薬で漂白までしてもらう人もいる。笑ったときに白い歯がきらりと見えると、それだけで清潔そうで、若々しく見えるのだという。白いほど美しい——そんなことは、もう誰も疑いはしない。

 けれど昔は、まるきり逆だった。歯は黒いほど美しいとされた頃が、たしかにあったのさ。

 大人になった証として、女も、ときには男も、こぞって歯を黒く染めた。鉄を酢や茶につけて、わざわざ黒い汁をこしらえ、何度も塗りかさねて、白い歯をすっかり塗りつぶしてしまう。手間も暇もかかる。匂いもきつい。それでも人は、その黒さこそを、一人前の印として、美しさの極みとして、長いこと大切にしてきた。

 白い歯を、子どもっぽい、はしたないと恥じた時代があった——と言っても、今の人にはなかなか信じてもらえまい。けれどボクは、その黒く染める朝に、たしかに居合わせたんだ。

◇ ◇ ◇

 長和三年(一〇一四年)の春、平安京のとある邸でのことだった。

 われはその邸で、人の嫌がる雑用をひとつ引き受けていた。鉄漿——かね、と呼ぶ黒い染め汁を、絶やさず作っておく役だ。古釘や折れた鍬の先を、欠けた壺にどっさり放りこみ、そこへ酒と酢、煮出した茶や粥の上澄みを注いでおく。あとは時おりかき混ぜて、ひと月もじっくり寝かせる。すると鉄が汁の中でとろけたようになって、どす黒い、ねっとりした水ができあがる。

 この壺が、とにかく臭う。鉄の錆びた匂いと、饐えた酢の匂いとが入りまじって、鼻の奥を突いてくる。蓋を取るたび、われは思わず顔をそむけた。それでも女房がたは、この臭い汁を、宝のように待ちかねるのだ。

 はじめてこの役を言いつけられたとき、われは正直のところ、なぜこんな臭いものを後生大事に育てるのか、さっぱりわからなかった。古釘を漬けて腐らせただけの水ではないか、と。けれど一日二日と番をするうちに、汁の色が日ごとに深まっていくのが、妙におもしろくなってきた。はじめは赤茶けた錆び水だったものが、寝かせるほどに黒みを増し、とろりと重くなる。生きてはおらぬはずの汁が、まるで何かを孕んでいくように見えた。手をかけた分だけ、黒は深くなる。それだけは、たしかに手応えのある仕事だった。

 その朝、奥のほうがいつになく華やいでいた。この邸の姫君が、はじめて歯を染める日だという。

 邸では、ちょうど裳着とかいう祝いを済ませたばかりだった。子どもの装いを脱いで、大人の女として身ごしらえを改める——その仕上げが、歯を黒く染めることらしい。歯を染めてはじめて、一人前の女と認められるのだと、女房たちが口々に言っていた。

 われは命じられて、寝かせておいた鉄漿を小ぶりの器に移し、それから五倍子の粉を、別の小皿に山と盛った。五倍子というのは、ヌルデの葉などにできる虫こぶを乾かして挽いた、渋い粉だ。この渋い粉を鉄漿といっしょに歯に重ねると、ふしぎと黒さが濃く、深く、長もちするのだという。なぜそうなるのか、われは知らない。ただ、染める女房たちが、代々そうしてきたというだけのことだ。

 器を捧げて奥へ運ぶと、年かさの女房——右近と呼ばれる人が、われを手招きした。この邸でいちばん歯染めの上手な人だと評判で、よその邸からも頼まれて出向くほどの腕だった。

◇ ◇ ◇

 姫君は、まだほんの幼さの残る面ざしで、脇息にもたれて座っていた。落ち着かぬのか、しきりに手元の鏡を覗きこんでは、口を小さく開けて、自分の白い歯を見ている。

 「そのように覗いても、白い歯は今日かぎりにございますよ」

 右近がそう言って笑うと、姫君はぱっと頬を染めて鏡を伏せた。けれどすぐにまた、そろそろと鏡を持ちあげて、覗く。名残を惜しんでいるのか、これから変わる己の顔が待ち遠しいのか、その両方なのか。幼い目が、鏡の中を行ったり来たりしていた。

 右近は、われの捧げた器をかたわらに置き、羽でこしらえた小さな刷毛を取った。鉄漿にひたし、しずくを切る。それから姫君の前ににじり寄って、やわらかく言った。

 「お口を、ほんの少し。歯にしみることはございません。匂いだけ、しばらくご辛抱を」

 姫君がおずおずと口を開く。右近の刷毛が、白い前歯をひとつ、すうっと撫でた。鉄の汁が乗ったところが、はじめは灰がかった鈍い色に染まる。続いて右近は、五倍子の渋い粉を指の先につけて、その上から丹念に塗りこんでいく。鉄漿、五倍子、また鉄漿。何度もかさねるうちに、灰色だった歯が、しだいに艶を帯びた黒へと深まっていった。

 姫君は、はじめのうち眉をひそめていた。匂いがこたえるのだろう。鼻の頭にしわを寄せて、それでも口は健気に開けたままだ。右近は急がない。一本ずつ、まるで蒔絵でも施すように、ゆっくりと黒を重ねていく。塗っては乾かし、また塗る。

 脇に控えながら、われはその手つきに見入っていた。臭い壺の番をしているだけでは、けっして見えぬものが、ここにあった。われが幾日もかけて腐らせた黒い水が、右近の刷毛にすくわれ、五倍子の渋と出会ったとたん、別のものに変わるのだ。塗ったばかりのところは、まだ鈍く頼りない灰色だ。それが渋を重ねるたびに、奥のほうから黒が湧きあがってくる。錆び水と虫こぶの粉。そのどちらも、それひとつでは、美しさとはほど遠いものだ。なのに、ふたつ合わさり、人の手が幾度も往き来すると、漆を思わせる艶が生まれてくる。

 「右近どの、そのふたつを合わせると、なぜそうも黒くなるのです」

 思わず小声で尋ねると、右近は手を止めずに、ちらと笑った。

 「さあ。わたくしも知りませぬ。母も、その母も、ただこうしてきたというだけ。理由は知らずとも、手が覚えておりますのよ」

 理由は知らずとも、手が覚えている。臭い汁を育てるわれと、それを歯に移す右近と。たがいに何ゆえとは知らぬまま、ただ受け継いだ手つきだけで、この黒を守ってきたのだ。日が部屋の奥まで差しこむころには、姫君の歯は、上も下も、漆を引いたような深い黒に染まっていた。

 「さあ、ご覧くださいまし」

 右近が鏡を差し出す。姫君は、こわごわと覗きこんだ。そうして、ふっと口を開いてみる。鏡の中で、艶やかな黒い歯がのぞいた。

 われは、はらはらしながら見ていた。子どもには、まだ自分の変わった顔がおそろしいかもしれぬ、と。ところが姫君は、しばらく鏡を見つめたあと、ゆっくりと、ほころぶように笑ったのだ。

 「……大人に、なったみたい」

 その声には、たしかな誇らしさがあった。白い歯のころの幼さが消えて、鏡の中には、ひとまわり大人びた娘がいる。黒く染まった歯は、口を閉じれば見えず、笑ったときにだけ、奥ゆかしく艶を放った。なるほど、これを美しいと言うわけだ、とわれは妙に得心した。臭い壺と渋い粉から、こんな艶やかなものが生まれるとは。

 われが子どもの時分には、歯の白いほうが汚れなく見えるものを、と思っていた。けれどこの邸で暮らすうちに、すっかり目が慣れてしまった。女房たちの黒い歯はみな艶やかで、笑うたびに口元が引きしまって見える。白い歯のままの幼い者がいると、かえって洗いざらしのように、頼りなく映るのだ。何が美しく、何が幼く見えるか——それは生まれつき決まっているのではなく、まわりの目に、いつのまにか染められていくものらしい。臭い壺の番をしているわれの目までもが、いつしか黒い歯を美しいと感じている。それが、われにはいちばん不思議だった。

 右近は満足げにうなずいて、刷毛を片づけながら言った。歯の黒は、放っておけばじきに褪せてしまう。だからこの先は、幾日かおきに自分で染め直さねばならぬ、と。美しさを保つというのは、つまり手間を絶やさぬということなのだ、と。姫君は神妙にうなずいて、もう一度そっと、鏡の中の黒い歯に笑いかけた。

 われは空になった器を下げ、また臭い壺の番へと戻った。鼻を突くあの匂いも、この日からは、ほんの少しありがたく思えた。あの黒さの大もとを、われが絶やさず守っているのだと思うと、臭い壺の番も、まんざらではなかった。

◇ ◇ ◇

 歯を黒く染める習わしは、それからずいぶん長いこと、人の世に残った。

 はじめは貴き人々の、大人になる印だった。やがて武家にも町にも広がって、嫁いだ女の証として、ごくありふれた身だしなみになっていったと聞く。鉄を酢につけて黒い汁をこしらえ、渋い粉を重ねて染める——あの臭い壺と渋い粉の組み合わせは、世のうつろう中でも、おどろくほど変わらずに受け継がれていったらしい。

 黒い歯が美しい。今の人には、まるで逆さまに思える美意識だろう。白く磨くために薬を使う世から見れば、わざわざ黒く塗りつぶす手間など、わけがわからぬかもしれない。

 けれどボクは、あの春の朝を思い出すたびに、こう思うのさ。美しいとされるものの中身は、世につれて、いくらでも裏返る。黒が美しい世もあれば、白が美しい世もある。どちらが正しいというものでもない。ただ、その時代に生きる人が、これを美しいと信じて、せっせと手をかける——その手間のかけようだけは、黒の世も白の世も、ふしぎと変わらないようだ。

 鏡の中の黒い歯に、はにかむように笑いかけた、あの幼い姫君の顔を、ボクはまだ覚えている。大人になったみたい、とつぶやいたあの声を。

 歯を黒くするか、白くするか。装いは裏返っても、はじめて大人の顔になった朝の、あのくすぐったいような誇らしさだけは、きっと、今の世の誰かの胸にも、同じように灯っているのだろう。

参考文献・もっと詳しく

お歯黒(鉄漿・かね)は、鉄片を酢・酒・茶などに浸して酸化させた黒い液と、五倍子粉(ふしのこ=ヌルデなどの虫こぶを挽いた渋=タンニンを含む粉)とを交互に歯へ塗り重ね、歯を黒く染めた化粧の習俗とされる。平安期には貴族の成人(裳着)に伴う通過儀礼として男女に行われ、黒く染めた歯が美しく、一人前の証とされたと伝わる。のちに武家・庶民へ広まり、既婚女性の身だしなみとして近世まで続いたという。長和三年は一〇一四年(長和は一〇一二〜一〇一七年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の人物・会話・情景は創作。

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