姿の見えぬ遠くの声が、空をわたって長屋の茶の間に降りてきた日のこと49文化
文化昭和のはじめ・東京の裏長屋読了 約6

姿の見えぬ遠くの声が、空をわたって長屋の茶の間に降りてきた日のこと

箱を囲んだ長屋の者たちは、見も知らぬ声を聴いて、なぜそれぞれ遠い顔を思い浮かべたのか

 声というのは、本来その人のそばでなければ聞こえぬものだった。

 話したい相手が遠くにいれば、文を書くか、足で会いに行くしかない。声そのものが山を越え、海を渡って届くなどとは、長いあいだ誰も思いつかなかった。だから遠くにいる人の声は、頭のなかで思い出すよりほかになかった。死んだ者の声は、なおさらだ。一度きえてしまえば、二度と耳には戻らない。

 ところが、ある時から、姿の見えぬ遠くの誰かの声が、空をわたって家のなかへ降りてくるようになった。糸も通っていない。誰が運ぶでもない。ただ空のどこかを声が流れていて、小さな箱がそれをすくい取る。すくい取られた声は、東京でも、北の村でも、同じ時刻に、同じ調子で鳴る。

 ボクが見てきたのは、その箱がはじめて長屋の茶の間に置かれた頃のことだ。見も知らぬ者の声を、肩を寄せて聴き入る人々の、その横顔のことさ。

◇ ◇ ◇

 昭和八年(一九三三年)の冬のことだ。わたしは東京の場末の、棟割りの裏長屋に住んでいた。

 その長屋へ、受信機がひとつ来た。差配の家作を借りている、勘次という指物師の家にだ。腕のいい職人で、こつこつ貯めた銭をはたいて、とうとう買ったのだという。世間では、ラヂオはもう珍しくもなくなりかけていたが、わたしらの貧乏長屋では、まだ大層なものだった。

 箱は、思っていたより慎ましいものだった。木の枠に布を張り、つまみがいくつか並んでいる。それだけのものが、夕方になると、ふいに人の声で鳴りはじめる。はじめてそれが鳴ったとき、長屋の者はみな、薄気味わるがった。誰もいない箱の奥から、見知らぬ男が、ていねいな物言いで話しかけてくる。どこの誰とも知れぬ声が、家のなかにいるのだ。無理もない。けれど、わたしだけは、なぜか怖いとは思わなかった。それどころか、胸の奥が、ふっと懐かしくなった。どこか遠い——もうずいぶん長いこと帰っていない場所から、聞き慣れた音が届いたような、そんな心持ちだった。なぜそう感じるのか、自分でもうまくは言えなかったがね。

 勘次は、夕餉どきになると障子をあけ放った。

 わざと、だ。ひとりで聴くのは惜しいから、長屋じゅうに聞こえるようにしてやろうという腹さ。すると、どこからともなく人が集まってくる。仕事を終えた職人、内職の手を止めたかみさん、洟をたらした子ども。みな、勘次の家の上がり框に、めいめい腰を下ろす。火鉢ひとつを囲むように、小さな箱を囲んで、ぐるりと顔が並ぶのだ。

 わたしも、そのひとりだった。

 声がはじまると、不思議なもので、誰もしゃべらなくなる。さっきまで井戸端で言い合いをしていた女房連中までが、ぴたりと黙って、箱のほうへ顔を向ける。布を張った枠のなかから、抑揚のととのった声が、夜の天気を告げ、遠い土地の出来事を告げる。聴いている者たちの目は、みな同じ一点を見ていた。なにも見えやしないのに、声の出てくるあたりを、じっと見つめていた。

 はじめのうち、長屋の者は半信半疑だった。

 どこか遠くの町に、この声を出している人がいる。その口の動きから出た声が、いま、たしかにこの框に届いている。そう聞かされても、みな、すぐには腑に落ちぬ顔をしていた。文なら、書いた人の手の跡が紙に残る。けれど声は、出たそばから消えてゆくものだ。その消えるはずのものが、姿も持たずに長い道のりをわたって、見も知らぬ長屋の茶の間まで生きて届く。考えるほど、不思議なことではあった。けれど勘次は、つまみをいじりながら、こともなげに言った。声は空を通ってくるのだと。空のどこを、と若い者が問うても、勘次は笑うばかりだった。ただ、わたしには、なぜだか、その声が空をわたって来ることが、ちっとも不思議には思えなかった。さも当たり前のことのように、すとんと胸に落ちていた。なぜそうなのか、自分でもうまくは言えなかったがね。

 あるとき、箱から、しみじみとした調べが流れてきた。どこかの土地の唄だと伝わるものを、誰かが歌っているらしかった。

 すると、わたしの隣にいた老婆が、ふいに袖で目を押さえた。おたねという、北の在から出てきた人だ。若い時分に奉公に上がって、そのまま東京で年を取った。国には、もう会えぬ親兄弟がいるのだという。

 「これ……うちの在の、唄に似てるねえ」

 おたねは、そう呟いた。似ているだけで、同じではなかったろう。それでも、その人の耳には、遠い国の冬の匂いまでが、ありありと戻ってきたらしい。箱から流れる見知らぬ声が、おたねには、もう声を聞くことのかなわぬ者たちの声と、重なって聞こえていたのだ。

 国を出てから、何十年になるかと、おたねはぽつりと言った。便りもとうに途絶えて、生きているか亡くなったかも分からぬ。それでも、こうして似た調べが耳に届くと、まるで国のほうから呼ばれた心持ちがするのだと。声の主は、おたねの里など知りもしまい。それでも、その声は、おたねを遠い雪国へ、ひとときだけ連れ戻していた。

 わたしは、その横顔から、目をそらした。見てはいけないものを見た気がしてね。

◇ ◇ ◇

 考えてみれば、妙なことだった。

 その晩、勘次の框に集まった十幾人は、みな別々のことを思い浮かべていた。おたねは北の在を、子持ちのかみさんは出征した弟を、年寄りは死んだ連れ合いを。けれど耳に入ってくる声は、ただひとつ、同じ声だった。同じ時刻に、同じ調べが、ひとりひとりの胸の奥の、てんでに違う遠い顔を、そっと撫でていく。

 しかも、だ。その同じ声を、同じ時に聴いているのは、この長屋の者だけではなかったろう。

 遠い北の村でも、西の港町でも、見も知らぬ誰かが、やはり小さな箱を囲んで、同じ調べに耳を澄ましている。顔も名も知らぬ者どうしが、たがいの暮らしなど何ひとつ知らぬまま、その一刻だけは、まったく同じ音を聴いていた。声は空のどこかを流れて、別々の家の、別々の人の耳へ、いちどきに降りていく。聴いているあいだだけ、日本じゅうの茶の間が、目に見えぬ一本の糸で、ゆるくつながっていたのさ。

 おたねが、洟をすすった。勘次が、気をきかせて、つまみをひねって少し音を大きくした。誰も、なにも言わなかった。ただ、みなで同じ声を聴いていた。それだけのことが、その夜の長屋を、いつもより少し近い場所にしていた。

◇ ◇ ◇

 やがて、受信機は珍しいものではなくなった。

 一軒、また一軒と、長屋の家々にも小さな箱が入っていった。障子をあけ放って人を集める家は、いつしか減っていった。めいめいが自分の家で、自分の箱の前に座って、声を聴くようになったからだ。それでも、夕餉どきになれば、どの家からも、同じ声が低く流れていた。路地を歩けば、右の家からも左の家からも、おなじ調べが重なって聞こえてくる。茶の間に箱があるのは、もう、当たり前のことになっていった。

 今では、声を運ぶ箱など、誰も特別とは思わない。手のひらの板から、世界じゅうの声が、いくらでも、好きな時に流れてくる。同じ時刻に、みなで息を詰めて、ひとつの声を待つことなど、めったになくなった。声は、もう、ありあまっている。

 それでも、とボクは思う。

 遠くの誰かの声が、ふいに耳に届いたとき、その奥に、自分の会いたい人の顔を探してしまうことが、今でもあるだろう。同じ声を、同じ時に聴く——たったそれだけのことが、見ず知らずの者どうしを、ほんのいっとき、同じ部屋に座らせる。空をわたってくる声は、いつも、誰かのいちばん遠い人を連れてくる。

 声は、姿を持たない。ただ空を流れて、別々の家の、別々の胸へ降りていくばかりだ。それでも、降りた先では、いつも誰かの遠い顔になる。ボクは、そういうものが、好きなんだ。

参考文献・もっと詳しく

日本の放送は大正十四年(一九二五年)に始まったとされ、昭和のはじめにかけて受信機が次第に家庭へ広まっていったと伝わる。当時は「ラヂオ」とも記され、一台を近所で囲んで聴く光景も各地で見られたとされる。天気予報や時報、音楽、講話などが同じ時刻に各地へ届けられ、離れた土地の人々が同じ音を共有する経験が生まれたと伝わる。昭和八年は一九三三年で、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。

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