第 98 話宗教一枚の紙人形は、何を運び去ったのか——齢の節目を恐れた、古い習わしのこと
〜正月の祝いより先に、家に伝わる古い縄が数えられた。そこに結ばれていたのは、誰の齢だったのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
長保三年(一〇〇一年)の正月、平安京の左京、曲物を作る安雄の家で、われは土間の梁からさがる古い縄を、一筋ずつ手にとっていた。年が改まるたび、家の誰もがひとつ齢を重ねる。その齢を確かめるのは、住みこみのわれに言いつけられた仕事だった。灯りは心もとなく、指先だけがやけに冷たかった。
◇ ◇ ◇
縄はどれも長さや太さがまちまちで、一筋ごとに、この家で働いた誰かの齢を数えたものだという。指でたどれば、等間隔に結び目がひとつずつ、歳の数だけ並んでいる。そのところどころに、結び目の上からさらに固く締め直された跡があった。——ある結び目は焦げて黒ずみ、ある結び目は水に濡れてよじれたまま乾き、ある結び目はほどけかけて麻がほつれていた。締め直された跡の数を数えれば、十九、二十五、三十七、四十二、五十一と、齢はまちまちで、決まった数ではなかった。それでも幾筋もの縄をたどり返すうち、いくつかの齢のあたりに、締め直しの跡が寄り集まっているのが見えてきた。ふだんの結び目を締めた手と、締め直した跡の結び方は、明らかに力の入れ具合が違った。急いで、あるいは震える手で締め直したものらしい。
三十七、と数えた締め直しの跡で、われは指を止めた。数えてみれば、それは今のわれの齢と、ちょうど重なる数だった。もう一度、縄を端から手繰り直して確かめる。三十七の齢で締め直された跡は、幾筋もの縄のなかに、二つ、三つとあった。
さらに手繰ると、ひときわ古びて黒ずんだ一筋の縄にも、同じ三十七の齢で締め直された跡があった。安雄の父にあたる人のものだという。同じ齢で、同じように結び直され、同じようにこの家で春をやりすごしたのだろう。締め方の力だけがそれぞれに違って、几帳面に締めた手もあれば、震えたような手もあった。縄はどれも幾度も継ぎ足された跡があり、これだけで何代分になるのか、われには数えきれなかった。先代の縄のそばには、締め損じたような、歪んだ結び目も残っていた。
顔を上げると、安雄がこちらを見ていた。何も問わず、土間の隅から白木の札を一枚取り出し、墨をすって、物忌、の二字を書きつける。それを門の柱に下げると、安雄は黙って背を向け、いつもどおり土間で薄板を曲げはじめた。まるで、それだけのことのように。

その日から、われは門をまたげなくなった。よそを訪ねることも、客の応対に出ることも許されない。米を買いにも、檜の板を仕入れにも、注文の品を届けにも、安雄がかわりに走った。土間にひとりのこされたわれは、削りかけの曲物にひたすら手を動かした。薄板を湯にひたし、曲げ、乾かす。手だけは覚えていて、迷わず動いた。木の削り屑が積もっていくのだけが、日の経つ目印になった。
曲物にも、たくさんの顔がある。飯を入れる飯櫃、強飯を蒸らす行器、湯を汲む柄杓。薄く削った檜の板を、ひとつひとつ丸く曲げ、樹の皮でとじる。継ぎ目に隙間ができれば、水も飯も漏れてしまう。曲げるときの音は、いつも決まって同じ高さで軋む。ひとりで手を動かしているあいだは、齢のことも、結び目のことも、しばし忘れていられた。
門の柱には、新しい札の下に、もっと古い札の痕がいくつも残っていた。墨の色が薄れ、二字の形も読みとれぬほど擦り切れたものもある。柱そのものが、そこだけ幾重にも削れ、白木の色が透けていた。幾人もの誰かが、同じようにここで齢の節目をやりすごしてきたのだと、それを見ればわかった。誰に教えられずとも、わかることだった。
物忌みの幾日か、門の外で困ったこともある。遠方の客が注文の催促にやってきて、大声でわれの名を呼んだのだ。土間の奥でびくりと肩をすくめたわれに、安雄が目配せをよこす。出るな、ということらしい。けっきょく安雄が門の内から「甚三は当分、人に会えませぬ」と断りを入れ、客は怪訝な顔で帰っていった。足音が遠ざかるまで、われは息を殺していた。
食事は、安雄の妻が土間の隅まで運んでくれた。ものを言わず、椀を置いて、また台所へ戻っていく。物忌みのあいだは、そういう決まりなのだという。ただ椀の中身だけは、いつもよりひとつ多く、粥の上に梅干しがのっていた日もあった。門の外を人が通るたび、われは手を止めて耳をすませた。だが誰も、こちらへは近づいてこなかった。
節分にちかいある日、安雄が、市中で祓えを頼まれ歩くという法師陰陽師を家によんだ。その者は、墨染めの装束に幣を手にしてやってきた。土間に上がると、まず米を撒き、なにか低く唱えごとをした。声はくぐもっていて、ことばの中身までは聞きとれなかった。それから、笈を下ろした。取りだされたのは、人のかたちに切りぬくための、一枚の型紙だった。ふちがまるく擦れ、幾重にも折り目のついた古い紙だ。額のあたり、肩のあたり、腰のあたり、足のあたりに、ひときわ濃く筋がついている。幾人もの誰かが、同じ順に同じ場所を撫でてきた跡だと、それを見ればわかった。折り目の数だけ、ここで齢を送ってきた者がいたのだろう。

その法師は、型紙をあてて紙を切りぬくと、それをわれの手に握らせた。あとは何も言わなかった。われは型紙の筋のとおりに、額を撫で、肩を撫で、腰を撫で、足の先まで撫でおろし、最後に紙へそっと息を吹きかけた。手のなかの紙は、思ったより軽かった。
払いがすむと、安雄とふたり、鴨の川べりへ出た。見れば、同じように紙の人形を手にした人影が、川べりのあちこちにあった。子を連れた女がいる。老いた男がひとりでしゃがんでいる。誰も声高には話さず、めいめいに川面だけを見つめていた。誰もが、われとおなじように、川下へ向かって紙をそっと放している。白い人形は、いちど水を吸ってくるりと回り、それから流れに乗って、ゆっくりと遠ざかっていった。
春先の川は、まだ底冷えがして、瀬の音だけが高かった。流れていく白い紙は、ときおり淀みでくるりと止まりそうになり、それでもまた、思い出したように下流へ滑っていく。途中で岸の草に引っかかりでもしたら、いったいどうなるのだろうと、われは目を離せなかった。さいわい紙は、どの草にもつかまらず、瀬を越えて見えなくなった。
「行ったな」と、安雄が短く言った。
「行きました」と、われも応えた。
紙きれが一枚、川を流れていっただけだ。われの身に、何かが変わったわけではない。それでも、立ちあがったわれの肩は、来たときよりずいぶん軽かった。
安雄がわずかに頷くのを見て、われは門の札を、自分の手ではずした。柱に残ったあの痕も、いずれ、われの下げた札の痕に重なっていくのかもしれない。そう思うと、黒ずんで見分けのつかなくなった縄のひとつひとつが、急に近しいものに思えた。あの齢を、幾人が同じようにやりすごし、幾人が同じように結び足していったのだろう。指を折って数えようとしたが、縄の継ぎ目のあたりで、指が止まった。
その帰り道、安雄はいつもの調子で唄をうたいはじめた。われも、知らず口ずさんでいた。息を吐くと、まだ白くけむった。
◇ ◇ ◇
ボクは、あの縄の結び目のことも、川へ流した紙の人形のことも、いまだによく憶えている。齢はきっと、誰の身にもいつか巡ってくる、ただの数字にすぎない。
神社の授与所に、今日も厄除けの守り札が並んでいる。小銭を出し、一礼して受けとると、鞄にしまって、人々は足早に石段を下りていく。門を閉ざして幾日も息をひそめる姿は、もうどこにもない。持ち歩く一枚の紙が、あの頃の一枚と、ボクの中で静かに重なる。
石段を下りていく背に、正月の陽が、あたたかい。
参考文献・もっと詳しく
※ 厄年は、ある特定の年齢を災厄の多い年として忌み慎む俗信で、その源流は中国渡来の陰陽思想・陰陽道にあるとされる。平安期には数え年で年初に一斉に加齢する慣わしがあり、齢の節目に物忌み(一定期間の謹慎・参籠)を行う風がみられた。男四十二・女三十三などの具体的な厄の年齢が広く定着するのは後世とされ、本話では当時の不確かさを反映し、家に伝わる齢の記録から当人がみずから思いあたる形とした。形代(人形)で身体を撫で、息を吹きかけて穢れ・災厄を移し、川へ流す祓は、六月・十二月の晦日に行われる大祓・撫物の系譜に連なるが、個人の物忌み明けに随時執り行う私的な祓も古くから見られたとされ、夏越の祓などに今も残る。こうした祓は陰陽寮に属さない民間の法師陰陽師によっても市井へ広まったとされる。長保三年は一〇〇一年(長保は九九九〜一〇〇四年)。本話の人物・会話は創作。梁に下げた縄の結び目でこの家で働いた者の齢を数える習わしは、この話のための創作で、史料に拠るものではない。
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