なぜ人は、何ごともない年を、わざわざ恐れたのか——齢の節目に厄を払った、いちばん古い習わしのこと27宗教
宗教平安のころ・平安京(左京)読了 約8

なぜ人は、何ごともない年を、わざわざ恐れたのか——齢の節目に厄を払った、いちばん古い習わしのこと

門に札を下げ、息をひそめて暮らす男は、いったい何から身を隠していたのか

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yakudoshi

 「今年は厄年だから、気をつけてね」。

 そう言われて、ふと足がとまったことはないだろうか。べつだん体のどこが悪いわけでもない。占いを信じているつもりもない。それでも妙に耳に残って、その年だけは、階段をひとつ踏みはずさぬよう用心したり、いつもより慎重に車を運転したりする。

 考えてみれば、おかしな話だ。歳をとるのは毎年のことで、今年がとりわけ災いに満ちている証など、どこにもない。それなのに人は、ある決まった齢にだけ「危うい年」という名を貼りつけて、ひとつ身を引きしめる。今でも神社の授与所には、厄除けの札やお守りが、当たり前のように並んでいる。

 ある齢を災いの多い年として恐れ、身を慎む。この習わしは、ずいぶん古くから日本の暮らしに根を張っていたらしい。もとをたどれば、海のむこうから渡ってきた陰陽の考えにいきつく、とも言われる。星まわりや齢の数で吉凶を読む、あの理屈さ。

 ボクが見てきたのは、その習わしがまだ若々しく、人の暮らしのまんなかで本気で恐れられていた頃の、ある一家の春のことだ。

◇ ◇ ◇

 長保三年(一〇〇一年)の春だった。われは平安京の左京、曲物を作る安雄(やすお)という男の家に、住みこみで雑用をして暮らしていた。

 その年の正月、安雄は急に老けこんだように見えた。といって、体のどこかを痛めたわけではない。年が改まって、ひとつ歳をとった。ただそれだけのことだ。

 今の暮らしと違って、あの頃は生まれた日に歳をとるのではなかった。年が明ければ、家じゅうの者が、赤子も年寄りも、いっせいにひとつ歳を加える。だから正月というのは、めでたいと同時に、誰もが齢の段をひとつ上がる、あらたまった節目でもあった。

 その節目で、安雄はとある齢にいきあたった。陰陽師の見立てでは、男にとって用心すべき年にあたる、というのだ。なんでも齢の数には、ことのほか災いの寄りやすい節があって、その年だけは、災難も病も死も、すべてがその身に向かって傾いてくる——そう信じられていた。どの齢が危ういのかは、まだきっちりとは定まっていなかったらしく、もっぱら陰陽師がその家ごとに数えて告げる、というやり方だったように思う。

 告げられてからの安雄は、見ているこちらが気の毒になるほど、しゅんとしていた。

 ふだんは荒い手つきで薄板を曲げ、よく通る声で唄をうたう男だ。それが正月をすぎてからは、戸口の敷居でさえ、つまずかぬようまたぐ。小刀を研ぐ手つきが、やけにそろりとしている。屋根にのぼって樋を直す仕事を、若い者にゆずってしまう。

 「親方、たかが齢ひとつでしょうに」と、われはつい笑ってしまった。

 すると安雄は、いつになく真顔で首を振った。

 「齢ひとつが、こわいのよ」

 そう言って、安雄は門の柱に、一枚の小さな札を下げた。物忌みの札、というものらしい。これを下げているあいだは、よその家を訪ねもしないし、客も上げない。家のなかでひっそりと身を慎んで、災いが通りすぎるのを待つ。門先で見知らぬ者にいきなり呼びかけられても、うかつに返事をしてはいけないのだという。

 なんとも窮屈な暮らしだ、とわれは思った。けれど安雄にとっては、これが命がけの用心だった。札の下がった門のうちで、安雄は息をひそめるようにして、春の何日かをやりすごした。

 その何日かのあいだ、外の用はみな、われの役まわりになった。米を買いにも、曲物にする檜の板を仕入れにも、安雄の代わりにわれが走った。注文の曲物を届けにいくのも、得意先に納め日を告げてまわるのも、ぜんぶである。安雄は土間の奥にこもったきり、ただ黙々と曲物を作っていた。仕事だけは、家のなかでできるからと、人一倍に手を動かしている。出歩けぬぶん、削った木のいい匂いが、いつもより濃く土間にこもっていた。

 ある晩、炉ばたで、安雄はぽつぽつと昔の話をした。

 同じ曲物師の仲間に、こういう用心をいっさい馬鹿にする男がいたのだという。厄の年だと告げられても、札も下げず、祓も受けず、いつものとおりに屋根へものぼり、川も渡った。その男が、よりにもよってその年の夏に、足場をふみはずして大怪我を負った。たまたまのことだったのかもしれない。けれど近所の者はみな、それみたことか、厄を侮ったせいだ、と囁きあった。

 「だからな、笑うてくれてかまわんが、わしはやっぱり、慎んでおきたいのよ」

 炎にてらされた安雄の横顔は、職人の頑固さというより、ひとりの男の、いつわらぬ怖がりに見えた。理屈ではない。万にひとつでも、あの仲間のようになりたくない。その正直さの前では、もう笑う気にはなれなかった。

 物忌みのあいだ、門先で困ったこともあった。事情を知らぬ遠方の客が、曲物の催促にやってきて、門のそとから大声で安雄を呼んだのだ。安雄は土間でびくりと身をすくめ、われに目で「出るな」と合図した。うかつに返事をすれば、せっかくの慎みが水の泡だというのだろう。けっきょく、われが門の内から「主は当分、人に会えませぬ」と断りを入れ、客は怪訝な顔で帰っていった。あとで安雄は、ほっと胸を撫でおろしていた。

 節分にちかいある日、安雄は陰陽師を家に呼んだ。厄を払ってもらうのだ、という。

 その日のために、安雄は一枚の紙を用意していた。人のかたちに切りぬいた、小さな紙の人形だ。形代、と呼んでいた。陰陽師に言われたとおり、安雄はその紙の人形で、自分の体じゅうをゆっくりと撫でていった。額を撫で、肩を撫で、痛む腰を撫で、足の先まで撫でおろす。そうして、ふうっと息を吹きかける。

 自分の身についた災いや穢れを、すっかりこの紙へ移しているのだ、と陰陽師は言った。撫でられ、息を吹きかけられた紙の人形は、もう安雄の身代わりなのだった。

 払いがすむと、一家そろって鴨の川べりへ出た。安雄が、川下へ向かって、その紙の人形をそっと水面に放す。

 白い人形は、いちど水を吸ってくるりと回り、それから流れに乗って、ゆっくりと遠ざかっていった。安雄は川岸にしゃがんだまま、それが見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。災いを身代わりに負わせて、川の流れにあずけ、遠い海まで運び去ってもらう——そういうつもりらしかった。

 春先の川は、まだ底冷えがして、瀬の音だけが高かった。流れていく白い紙は、ときおり淀みでくるりと止まりそうになり、それでもまた、思い出したように下流へ滑っていく。安雄の目は、その一進一退を、まばたきもせず追いつづけた。途中で岸の草に引っかかりでもしたら、いったいどんな顔をするのだろう、とわれは余計なことを案じた。さいわい紙は、どの草にもつかまらず、瀬を越えて見えなくなった。安雄が、はじめてふっと、肩で息をついた。

 「行ったか」と、安雄がぽつりと言った。

 「行きましたね」と、われも応えた。

 紙きれが一枚、川を流れていっただけだ。安雄の身に、何かが変わったわけではない。それでも、立ちあがった安雄の背は、来たときよりずいぶん軽そうに見えた。長いこと肩にのっていた重たいものを、たった今おろしてきた、とでもいうように。

 その帰り道、安雄はようやく、いつもの調子で唄をうたいはじめた。

 家にもどると、安雄は門の物忌みの札を、自分の手ではずした。

 「これでもう、ふつうに暮らしていいのよ」

 そう言って、安雄はさっそく屋根にのぼり、後まわしにしていた樋を直しはじめた。敷居も、もうまたいだりしない。小刀も、いつもの荒い手つきにもどった。なんのことはない、紙を一枚流しただけで、男はもとの男にもどったのだ。

 われには、その齢の何が危ういのか、とうとう最後までわからなかった。けれど、わからないなりに、ひとつ腑に落ちたことがあった。

 恐れていたのは、たぶん、齢そのものではない。歳をひとつ重ねるたびに、人の体はすこしずつ衰え、できぬことが増えていく。元気だと思っていても、ある日ふいに、坂をのぼる息が切れる。その、自分でもうすうす感づいている下り坂を、「厄の年」という名で呼んでおいたのだ。名をつけ、札を下げ、紙に移して川へ流す。そうやって、目に見えぬ衰えを、いちど手のひらにのる形にしてやれば、人はそれと、どうにか折りあいをつけて生きていける。

 安雄が流したのは、災いというより、齢を重ねることへの、あのそこはかとない心細さだったのかもしれない。

◇ ◇ ◇

 厄を恐れる習わしは、それからも長いこと、人の暮らしから消えなかった。

 危ういとされる齢は、世が移るにつれてだんだんと定まっていったらしい。男はいくつ、女はいくつ、と数えあげる言いかたが、後の世にはすっかり根づいた。陰陽師が一軒ずつ告げてまわった頃にくらべれば、ずいぶん仕組みらしくなったものだ。形代を撫でて川へ流す祓も、かたちを変えながら、今も夏越の祓などにその名残をとどめている。

 神社の授与所に並ぶ厄除けの札を見るたびに、ボクは、鴨の川べりにしゃがんでいた安雄の背を思い出す。紙きれ一枚に災いを託して、流れにあずけて、ほっと肩の力を抜いた、あの背中を。

 齢を数え、その節目をひそかに恐れる。それは、ただの迷信と笑いきれない、人のやさしい弱さのようにも思う。衰えていく自分を、まっこうから見すえるのは、いつの世も、なかなかにこわい。だから人は、それに名をつけ、払うしぐさを編みだして、すこしだけ気を楽にしてきたのだろう。

 水につけた飯がもどるように、流した紙が、何かを持ち去ってくれるわけではない。それでも、流したあとの肩の軽さだけは、本物だった。安雄の、あの春の唄声の軽やかさを、ボクはまだ覚えている。

参考文献・もっと詳しく

厄年は、ある特定の年齢を災厄の多い年として忌み慎む俗信で、その源流は中国渡来の陰陽思想・陰陽道にあるとされる。平安期には数え年で年初に一斉に加齢する慣わしがあり、齢の節目に物忌み(一定期間の謹慎・参籠)を行う風がみられた。男四十二・女三十三などの具体的な厄の年齢が広く定着するのは後世とされ、本話では当時の不確かさを反映して陰陽師の見立てとした。形代(人形)で身体を撫で、息を吹きかけて穢れ・災厄を移し、川へ流す祓は大祓・撫物の系譜に連なり、夏越の祓などに今も残る。長保三年は一〇〇一年(長保は九九九〜一〇〇四年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の人物・会話は創作。

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