第 29 話宗教一字書いては、三たび額づく——文字を写すことが、そのまま祈りだったころのこと
〜母は、子の名でも経の文句でもなく、ただ一字を、なぜあれほど長くためらってから書いたのか〜
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願いごとを紙に書く、ということを、人は今でもやめられずにいる。
絵馬に願を書く。短冊に願を書く。年のはじめには、今年こそはと紙に書きつける。口で言えば済みそうなものを、わざわざ手を動かし、文字のかたちにして残そうとする。声は消えるが、書いたものは消えにくい。だから人は、いちばん切実な願いを、文字に託すのだろう。
その癖の、ずっと奥のほうに、写経というものがあった。
経を、一字ずつ書き写す。今の暮らしなら、文字を写すのは退屈な写しごとでしかない。けれど昔は、経の一字を写すこと、それ自体が祈りであり、徳を積むことだと信じられていたらしい。亡くなった人の供養に経を写して納める。病が癒えるようにと経を写す。声に出して読むのと同じだけ、いや、それ以上に、手で書き写すことに人は意味を込めた。
ボクが見てきたのは、墨の匂いの満ちた薄暗い部屋で、人がひと文字ごとに頭を下げ、文字に祈りを縫いつけていく、そういう静かな仕事のことだ。
◇ ◇ ◇
永承六年(一〇五一年)の秋のことだった。われは平安京の東のはずれ、とある寺に付いた小さな写経所で、紙を継ぎ、墨を磨る雑用をして暮らしていた。
そこを束ねていたのは、浄人という名の経師だった。年のころは五十をいくつか越えて、背を丸め、目を細めて筆を運ぶ。声は小さく、めったに笑わない。けれど筆を持つと、その手だけが別の生き物のように、まっすぐに、よどみなく動いた。
経師というのは、経を写すことを生業にした者のことらしい。寺の僧が写すこともあれば、浄人のように、頼まれて写すことを仕事とする者もいた。願う側が、自分では書けぬ字を、銭や布を払って写してもらう。そうして写された経は、施主の名とともに寺へ納められ、その人の祈りの証となった。
写経には、こまごまとした決まりがあった。筆をとる前に手を洗い、口をすすぐ。香をたいて部屋を清める。墨を磨るにも心を込めよと、われはよく叱られた。雑用とはいえ、墨の濃さひとつで経のたたずまいが変わるのだ。浄人はわれの磨った墨を筆先につけ、紙にひと画ひいては、薄いの濃いのと言った。はじめは墨を磨るだけのことになぜここまで、と思った。けれど写すものが祈りなら、その墨もまた祈りの一部なのだと気づくのに、そう日はかからなかった。
われは最初、写経というものを、ただの写しごとだと思っていた。同じ文句を、ひたすら紙に移すだけのことだと。だが、浄人の手もとを一日見ていて、考えをあらためた。
浄人は、ひと文字書くたびに、筆を止めるのだ。
一字を書く。筆をおく。両の手を膝に揃え、文机にむかって、ゆっくりと頭を下げる。一度、二度、三度。それからまた筆をとり、次の一字を書く。書いては、止め、額づく。書いては、止め、額づく。
一字三礼、というのだそうだ。一字書くごとに、三たび拝む。聞けば、経の一字一字には仏が宿っているとされ、だから一字を、ひとりの仏のように敬って書くのだという。そういう作法が、写経にはあったらしい。
はじめ、われは正直、まだるっこしいと思った。これでは、ひと巻き写すのに幾日かかるかしれない。早く書けばそのぶん多く写せて、施主も増え、銭も入るだろうに。
あるとき、つい口に出してしまった。もそっと早う書いては、と。
浄人は筆を止め、われをちらと見て、それから、めずらしく少しだけ笑った。
「これはな、写すのではない。祈るのよ。早う祈れる祈りなど、どこにあろうか」
それだけ言って、また文机にむかった。書いては、止め、三たび額づく。墨を磨る音と、衣ずれの音のほかは、何も聞こえない。その繰りかえしを見ているうちに、なるほど、これは写しごとではない、と腑に落ちてきた。一字ごとに頭を下げるその間に、浄人は、施主の願いを一字ずつ預かりなおしているのだ。だから早くは書けない。早く書ける祈りなど、どこにもないのだ。
いちど、浄人に言われて、われも反故紙に一字を書いてみたことがある。筆は重く、墨はかすれ、線はみみずのように曲がった。書きおえて、見よう見まねで頭を下げてみる。一度、二度、三度。けれど頭を下げながら、心はどこにもむかっていなかった。形だけ真似ても祈りにはならぬ。浄人の三礼とわれの三礼は、見た目は同じでも、まるで違うものだった。そのことが、はっきりと分かった。
写経所には、いろいろな人が訪れた。栄えを願う商人もいれば、旅の無事を願う者もいた。だが多くは、亡くなった誰かのために経を頼みに来た。親のため、連れ合いのため、子のため。みな銭の多寡はあれど、頭を下げるときの顔つきは、よく似ていた。文字を写すことに祈りを託すのは、身分の上下を問わぬものらしい。もとは身分ある人たちの行いだったものが、いつのまにか、こうした貧しい者の手にまで下りてきていたのだろう。
その秋、ひとりの女が写経所を訪れた。
粗末な麻の衣を着た、痩せた女だった。商家の下働きか、どこかの乳母か、身なりからは知れない。手に、わずかばかりの銭と、繕い跡だらけの布を握りしめていた。それが、写経を頼む手間賃のすべてらしかった。
女は、夏の流行り病で、幼い子を亡くしたのだという。その子のために、経を写して納めてほしい、と消え入りそうな声で言った。けれど握った銭は、ひと巻きを写してもらうには、あまりに足りなかった。
浄人はしばらく黙って、女の手の中の銭を見ていた。それから、こう言った。ひと巻きはこの銭では写せぬ。だが、一字なら、あんた自身の手で写せる。あんたが書いた一字は、わしが百字を書くより、その子に届くだろう、と。
女は、筆を持ったことなどないと、おびえた。浄人は、筆に墨を含ませ、女の手に握らせた。そうして、紙に薄く、ひとつの文字の下書きをしてやった。なぞればよい、と。
女は、震える手で筆を構えた。けれど、なかなか書けない。下書きの線の上で、筆の先がいつまでも宙に迷っている。子の名でも、長い経の文句でもない。ただの一字を、女はあれほど長く、ためらっていた。
その横顔を、われは今でも覚えている。
女はおそらく、書いてしまうのが、こわかったのだ。書きあげてしまえば、この一字が、たしかにあの子のための一字になる。あの子はもういない、ということを、自分の手で、紙の上に確かめてしまう。だから筆が下りない。書きたいのに、書きたくない。その間で、女の手はずっと震えていた。
やがて女は、息を深く吸って、ひと思いに筆を下ろした。下書きの線を、たどたどしく、けれどたしかになぞっていく。一画、また一画。書きおえると、女は筆をおいて、両の手を膝に揃え、文机にむかって深く頭を下げた。誰に教わったでもないのに、浄人とまったく同じように、三たび、額づいた。
その一字を、浄人は受けとって、自分の写す経の、いちばん初めに継いだ。あんたの一字を頭に、あとはわしが続ける、と。施主の名のところには、子の名を書き添えた。
女は、繕い跡だらけの布と、わずかな銭を置いて、何度も頭を下げて帰っていった。
その日から幾日もかけて、浄人はその経を写しあげた。書いては、止め、三たび額づく。いつもの仕事よりも、いっそう手が遅いように、われには見えた。女の一字を頭に載せた経だ。粗略には書けぬ、と思っていたのだろう。
書きあがった経を、浄人は丁寧に巻きおさめ、寺へ納めに行った。われも荷を持って付いていった。本堂の薄暗がりに、その一巻が、ほかの経とともに納められる。女の書いた一字は、もう経の中にまぎれて、どれがそれとも知れない。それでよいのだ、と浄人は言った。まぎれてよい。あの子の一字は、もう経そのものになったのだから、と。
帰りみち、われは浄人に、あの一字はちゃんと届いたろうか、と聞いてみた。浄人は空を見あげて、しばらく黙ってから、こう答えた。届いたかどうかは、わしにも分からぬ。だが、あの母が、震える手で一字を書きおえたとき、あの母の中の何かは、たしかに済んだ。それでよいのではないか、と。
◇ ◇ ◇
写経は、それからも長く続いた。
貴族が栄えを願って金泥で経を写させた時代もあれば、戦に明け暮れた世で、武士が亡き身内のために経を納めた時代もあった。一字ずつを大勢で分けて写す、一字一石の供養というものも、後の世にはあったと聞く。文字を写すことに祈りを込める癖は、時代をこえて、人の手から手へ受け継がれていったのだろう。
今では、経を写すのは、心を静めるための習いごとのようになっている。寺の写経会に座って、一文字ずつ墨でなぞる。早く書く必要も、銭のための数もない。けれど、ひと文字ごとに筆を止め、すっと背を伸ばす、あの静かな間だけは、浄人の文机の上にあったものと、たしかに地続きだ。
早う祈れる祈りなど、どこにあろうか。浄人のその言葉を、ボクは今でもときどき思い出す。
声に出せば消えてしまう願いを、消えにくい文字に託す。一字書いて、頭を下げ、また一字書く。その遅さの中にしか、入りきらない祈りもあるのだろう。
子の名を書くこともできず、ただの一字を、あれほど長くためらってから書いた、あの女の震える手を、ボクはまだ覚えている。
参考文献・もっと詳しく
- 『写経より見たる奈良朝仏教の研究』ISBN 978-4-562-01282-4
- 『写経入門』ISBN 978-4-06-529079-8
- 『平安貴族社会と仏教』ISBN 978-4-642-04263-5
- 『日本中世仏教史料論』ISBN 978-4-642-02873-8
※ 写経(しゃきょう)は、経典を一字ずつ書き写すこと。書写そのものが功徳を積む行と考えられ、亡き人の追善供養や病気平癒・願掛けのために行われたとされる。一字書くごとに三度礼拝する「一字三礼」など、書写に敬虔さを込める作法があったと伝わる。平安期には貴族による荘厳な装飾経(金字経・金泥経等)も盛んで、後には民衆が一字ずつ石に経を写す「一字一石経」の供養も行われた。経師(きょうじ)は写経や経巻の装丁を専門とした職能で、官営の写経所のほか、寺や私的な需要に応じて写経が営まれた。本話の人物・会話・写経所は創作。永承六年は一〇五一年(永承は一〇四六〜一〇五三年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。
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