第 41 話文化黒と白の石が、いちばん静かだった遊びのこと
〜値打ちのつかない一目に、なぜ名前がついていたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
次郎丸は、荷を解く前に、まず盤を出した。
筑紫から都へ上ってくる行商人で、反物より先に、黒と白の石を並べてみせる。それが、この男のやり方だった。
何のためにそれを見せたがるのか、次郎丸自身は多くを語らなかった。それを知ったのは、ボクがしばらくその邸に潜りこんでからのことだった。
◇ ◇ ◇
寛弘二年(一〇〇五年)の秋、われは都の東の、とある邸で下働きをしていた。庭を掃き、水を運び、客人の車の支度をととのえる、名もない男だ。朝は霜のうっすらおりた庭を箒で掃き、昼は井戸と厨のあいだを幾度となく往き来する。誰の目にもとまらぬ身ではあったが、それゆえに邸のどこへでも入りこめて、簀子の隅にも、渡殿の陰にも、われの立つ場所はいくらでもあった。
次郎丸が邸に出入りするようになったのは、その年の初めごろからだ。筑紫から唐渡りの薬種を担いで上ってくる行商人で、年に幾度か都をめぐっては、また西へ戻っていく。背の荷は反物や薬包でふくれあがっていたが、そのすきまに、いつも黒と白の石を詰めた小さな器がまじっていた。白い石は蛤の殻をひたすら磨いたもの、黒い石は遠い国から流れついた、つやのある黒石だという。どちらも、都ではまず見かけぬ品だった。訪れるたび、次郎丸はまず反物を広げず、この器から解いた。売り物より先に、それを見せたがった。
邸の女房たちは、はじめ胡散くさそうにその石を眺めていた。「そのようなものに触れて、祟りでもあってはかなわぬ」と、年かさの女房のひとりは袖で顔をおおって遠ざかった。よその国のものだから、と裏を返せば、ただの言い訳にすぎなかったろうが、それでも素性の知れぬ行商人が持ちこんだ石を手に取る者は、なかなか現れなかった。
その邸に、弁の君という女房がいた。歳のころは母ほど、いつも落ちついて、めったに声を荒らげない人だった。衣の襲も、薄や枯野を思わせる地味な色あいばかりを重ねていた。次郎丸が器の蓋をあけて石を見せたとき、真っ先に手を伸ばしたのも、この人だった。「おもしろそうだ」と言って、几帳のこちらへ膝を進める。ほかの女房たちが眉をひそめて見守るなか、二人は盤を挟んで向きあった。
ある日、使いの合間に、われは簀子の隅にうずくまって、二人の打つ盤をぼんやり覗きこんでいた。水を運ぶ桶を足もとに置いたまま、しばらく戻るのを忘れていたほどだ。次郎丸は、器から黒い石と白い石を出し、われの目の前で、代わるがわる置いていった。

石は盤の上で、かちり、と鳴った。硬い音だ。置いたあと、しんと尾を引いて消える。次郎丸の手はためらわず、弁の君の手もまた、迷うことが少ない。二人は、ひとことも交わさなかった。次郎丸の石は、いつも弁の君の石の逃げ場をひとつ先に塞ぐように置かれていく。隅に追い詰められた白の一群が、いつのまにか黒に取り囲まれ、逃げ道をふさがれているのに、われはようやく気づいた。盤の上の石は、そうして縦横につながりながら、少しずつ囲いになっていった。庭を掃く手を止めて見入っていると、厨の女に肩をこづかれ、われは慌てて箒を動かした。それでも目だけは、盤の上の石の並びを、ちらちらと追いつづけていた。日が傾いて、簀子に長い影がのびるころになっても、二人はまだ、石を置きつづけていた。石の数は、はじめの十や二十では利かず、盤の目という目が、いつのまにか黒と白でひしめいていた。
盤の上に、もう地の伸びる場所がなくなると、次郎丸と弁の君は、どちらの陣にもならずに残った目を、黙って一つずつ埋めはじめた。取りあうでも、譲りあうでもなく、ただ順に石を置いていく。数にもならぬ目に、なぜわざわざ石を置くのか、われには解せなかったが、次郎丸は指さきでその目を示し、「これは、駄目だ」と言った。地にもならず、値打ちもつかぬ目のことを、そう呼ぶのだという。だからこそ、盤に地の伸びる場所が残っているうちは、次郎丸はそこへ石を置こうとしなかった。地が伸び終えたところで、埋めるだけの場所だからだ。
われには、はじめ、その駄目とやらがいったい何のことか、よく分からなかった。国境のような線が、盤の上に見えぬまま引かれているらしいことは察しがついたが、どこまでが陣で、どこからが駄目なのか、目で追うだけでは見きわめがつかない。弁の君が数えるあいだ、次郎丸は駄目の目をひとつずつ指でなぞり、そこだけは勘定に入れなかった。石はそのまま盤に残ったが、数の外に置かれる。その手つきを何度も見るうち、駄目とは陣のふちにできる、どちらのものにもならぬ余りもののようなものらしいと、ようやく見当がついてきた。

その日の夕刻、弁の君に請われて、われも次郎丸と一局打つはめになった。むろん、たいした勝負にはならなかった。地の伸びる場所がまだいくつも残っているというのに、われは駄目とおぼしき目にまで、幾度も手を伸ばした。石を置けば、置いた気になれたからだ。そのあいだも次郎丸の手は止まらず、辺という辺へじわりと伸びて、われの陣の際を静かに押しこんでいった。勝負が終わると、次郎丸は今度もわれの駄目の石を指でなぞり、勘定から外していく。石はそのまま盤の上に残った。減っていたのは、石の数ではなく地の広さのほうだった。われが駄目にかけた手の数だけ、次郎丸の陣は広がっていた。
次に打ったのは、それから十日ばかりのちだった。庭の霜がいくらか厚くなり、井戸の水も朝はひどく冷たくなっていたころだ。今度は駄目のところへ打ちこむ数こそ、いくらか減ったが、代わりに、囲ったつもりの陣の隅を、次郎丸の白にひょいと割りこまれた。慌てて隣へ石を足したが、その石さえ、次郎丸の一手先に囲われて動きが取れなくなった。数えれば、また負け。次郎丸は今度も何も言わず、割りこまれた石の周りを、指の腹でなぞってみせただけだった。隅々まで塞いでこそ囲いになる。その一なぞりで、そこだけは分かった気がした。負けた数は変わらなかったが、負け方だけは、前とはたしかに違っていた。
弁の君は、この遊びをずいぶん気に入ったらしく、それからは邸の女房たちにも度々すすめるようになった。はじめは眉をひそめていた年かさの女房も、幾日か盤の脇で見物するうち、いつしか自分から石を並べるようになっていた。祟りだ剣呑だと言っていた口で、負けたのくやしいと零す姿を見て、われは、ひとりでにおかしくなった。あれほど遠ざけていた石を、今では自分から器に手を伸ばして選び取っている。次郎丸が来るたびに、器を借り受けては、女房どうしで打ちあう夜もできた。石を並べる音を聞きつけて、隣の局から覗きにくる者まで出てきた。冬にかかるころには、邸のあちこちの局で、かちり、かちりと石の音が、途切れずするようになっていた。
石を片づけながら、次郎丸は懐から手ぬぐいを出し、指のさきを一本ずつ拭った。それだけの仕草を、われは幾度も見た。荷を担ぎ直し、次の邸へ向かう背中を見送るたび、この男はどこまで歩いていくのだろうと、われはぼんやり考えた。
◇ ◇ ◇
駄目、ということばがある。値打ちのつかぬ、どちらの陣にもならない一目のことを、次郎丸はそう呼んだ。——ボクは今でも、「だめ」という字を見るたび、ひと呼吸置いて、次郎丸が駄目の石をひとつずつなぞった、あの指さきを思い出す。
次郎丸は、それから幾年も、秋になると背に荷を担いで邸をたずねた。老いて腰が曲がってからも、荷を下ろすたびに肩をひとつ回す、あの仕草だけは、ついぞ抜けなかった。
参考文献・もっと詳しく
※ 囲碁は古代に大陸(中国)から日本へ伝わったとされ、奈良・平安期には貴族のたしなみとして広く親しまれた。行商人の次郎丸が盤を携えて上京する筋立ては創作で、当時の碁石・碁盤の流通経路を示す記録に拠るものではない。『源氏物語』『枕草子』などの王朝文学には、身分やへだたりを越えて碁を打つ場面がしばしば描かれる。本話の次郎丸・弁の君および邸はすべて創作。碁の用語としての「駄目」は、どちらの陣にもならない目を指し、対局の終わりに双方で埋める慣わしがある。現代語の「だめ」(役に立たない、の意)の語源をこれに求める説があるが、確定した通説ではない。寛弘二年は一〇〇五年(寛弘は一〇〇四〜一〇一二年)。
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