第 42 話食十杯の乳を、ひとかたまりに煮つめる夏の竈
〜夏の一日、鍋の前で十ばかりの童だけが知っていたこと〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
なぜ昔の人は、牛の乳を、わざわざ煮詰めてから口にしたのだろう。
いまの牛乳は、紙の箱に入って、冷えたまま棚に並んでいる。注いで飲めば、それで終わりだ。鍋にかけて日が暮れるまで煮つめよう、という人は、まずいない。
けれどこの国には、乳を煮つめて固める仕事が、たしかにあった。蘇と呼ばれたものだ。ボクはいちど、その仕事に雇われて、鍋の前に立ったことがある。夏の、たった一日の手伝いだった。
◇ ◇ ◇
長和二年(一〇一三年)の夏。都のはずれの、牛を飼う一画で、われは一日だけの日雇いにありついた。口をきいてくれたのは、乳を搾る家の長だった。賃は、玄米ひとにぎりの袋と、夕の粥。仕事は、竈の火の番と、乳の甕運びだという。
夜明け前から、牛小屋では牝牛がしきりに鳴いていた。長は牝牛の脇にしゃがんで、乳の張った腹をさすっている。けれど乳は、ほとんど出てこない。
「今朝は出し渋るな。どうした、おまえ」
長は牝牛の尻をぴしゃりと叩いた。牝牛が足を踏みかえる。その横から、十ばかりの童が、子牛の綱を引いてきた。乙丸という、長の孫のような子だ。子牛は牝牛の腹の下へ頭をつっこみ、ひとしきりぐいぐいと吸った。それを、乙丸が尻尾をつかんで、ぐっと引きはがす。
牝牛が、ふうっと息をついた。長の手の下で、乳が、ちちち、と小さな甕の底へ落ちはじめた。長は童のほうを見もしなかった。
甕が満ちるたびに、われが運ぶ。片腕に抱えられる小さな甕で、満ちたのをひと杯と数える。口に大きな葉をかぶせ、搾り場から竈の小屋まで、二十歩ばかり。一杯、二杯。甕はまだ人肌ほどに温かく、抱えると、腹のあたりがじんわりと湿る。この一画の牝牛は三頭きりで、ひと朝に搾れる乳は、あわせてもこれだけだという。十杯目を運びおえたころには、東の空が白みかけていた。
竈の小屋は、土の床に、大きな鍋がひとつ据わっているだけの、がらんとした造りだった。十杯の乳を、その鍋へあける。鍋の半ばまでが白くなって、湯気もたたぬうちから、あまい匂いがした。
長は、鍋の内側の、乳のいちばん高いところを、湿らせた指でひとすじなぞった。煮えて減れば、その筋が白く乾いて、高いところに取り残される。その開きを見るのだという。仕上がりの目当ては、鍋の底に、両の手のひらにのるほどのかたまりだけが残ること。それが蘇だ、と長は言った。

「ひと夏に、きまった数を、役所へ納めにゃならんでな。病の殿がたの薬になる。年のはじめの供えにもなる。うちの一画は、牛の数が少ない。この十杯を、むだにはできん」
「火は強うせい」と長は言った。「強いほど早う固まる。日のあるうちに仕上げて、夕までに役所へ納めにゃならんのでな」
われは薪を足した。乾いた枝は火の回りが早く、太い薪は長持ちする。その按配を、手のなかで確かめながら、竈の口へ、順にくべていく。竈の口がごうと鳴る。鍋のふちには、童がしゃがんでいた。縁に耳をぴたりとあてて、目をつぶっている。火の番は、われの仕事だ。子どもの遊びに構っている暇はない。
そのうち、童がふいと手を伸ばし、竈の口から薪を二本、引きぬいた。
「おい」
われは、その薪を拾って、竈へ戻した。童は黙っている。やがてまた手を伸ばす。引く。戻す。三度めには、童は薪に手をかけたまま、じっとわれの顔を見た。われは、その手をはらった。長は強い火と言った。それが、われの受けた仕事だった。
童はあきらめたように、また鍋の縁へ耳をあてた。
日が高くなるにつれて、乳はかさを減らした。白い泡がふくらんでは、はじける。鍋の半ばまであった白が、いつのまにか、三指ほどの深さに沈み、鍋肌の白い筋は、はるか上に取り残された。かき混ぜる木べらはだんだん重くなり、小屋は蒸して、背中を汗が伝った。われは何度も袖で顔をぬぐい、木べらを持つ手を左右に替えた。底をさらうたび、鍋肌に乳の膜が張りついてくる。それを剥がしては、また混ぜる。泡は初めのうち大きく、ぽこぽこと割れていたのが、煮つまるにつれて細かくなり、色も、白から淡い黄へ、黄から飴色へと、ゆっくり移っていった。単調な仕事だが、手を止めれば、すぐにそこが黒くなる気がした。
昼ちかくなって、童は小屋の隅にあった甕の葉をめくり、鼻を寄せた。前の晩に搾って置いた、残りの乳だ。顔をしかめて、われのほうへ甕を押しやる。かいでみると、つんと、酸い匂いがした。長はそれを見て、ひとこと「ああ、夏はなあ」と言い、甕ごと外の溝へあけた。
昼の粥を、われは立ったまま、鍋の前で食べた。椀を傾けるあいだにも、木べらは止められない。長は庭先の日陰で、牝牛の足をさすっている。子牛が、その脇で、乳をねだるように鳴いていた。朝にはあれほど張っていた牝牛の腹は、いまはもうしぼんで、骨が浮いている。鍋肌の白い筋は、まだ遠かった。

ひとつ、気づいたことがある。童は、その甕を鼻で確かめるあいだも、片方の耳を、鍋のほうへ向けていた。
日が傾きかけたころだ。鍋のなかはすっかり飴色に煮つまり、木べらにもったりと糸を引くようになっていた。長の言いつけどおり、われは、薪をもう一本、足した。
ちり、と音がした。
鍋の底からだった。ほんの小さな、紙をこするような音。それから、鼻の奥が、きな臭くなった。急いで薪を引きぬき、木べらで鍋の底をさらった。もう遅かった。底に張りついた分が、黒くぱりぱりと割れて剥がれてくる。甘い匂いのなかに、苦い煙が混じって、小屋にたちこめた。戸を押し開けると、風が煙を外へ引いていく。われは咳をひとつして、木べらを持ったまま、しばらく動けなかった。
童が、われの横にしゃがんで、ひとことも言わず、鍋の縁を指さした。さっきから、ずっと、そこへ耳をあてていたのだ。ちり、に変わる前の音を、童は聞いていた。われが戻した三度の薪は、その音を、そのたびに押し戻していた。
長は、黙って鍋をのぞきこんだ。鍋肌の白い筋と、鍋の底とを、見くらべている。納める数に足りるかどうか、頭のなかで勘定しているのが、背中でわかった。それから、童の頭に、ごつごつした手を置いた。そのまま、しばらく動かさなかった。われは木べらを握りなおして、ただ、自分の足もとを見ていた。
われは、底の黒いところには触れず、上の飴色の部分だけを、木べらでそっとすくいあげた。木の盆に移して、風の通る戸口に置く。すくうそばから、湯気が顔にかかるほど熱い。冷めるにつれて、かたまりは、ゆっくりと締まっていった。指でおすと、すこし跳ね返すほどの、固さだった。十杯の乳が、両の手のひらにのるほどの、ひとかたまりになった。手で持てるまで冷めたのを見て、長は麻の布でそれを包み、日の暮れぬうちに、役所の者へ渡しに、みずから出ていった。
「あまいやつ」と童は、その布の包みを、そう呼んだ。われは、すこし間をおいて、「ああ、蘇だな」と返した。童は、それそれ、という顔でうなずいた。
帰りぎわ、童は、鍋の縁にこびりついていた焦げの屑を、指先でこそげ取って、われの掌へのせた。まだ温かい。口に入れると、苦かった。その苦さの奥のほうに、深い甘みが、じわりとにじんだ。
その晩、小屋の隅で、焦げた鍋をこすって洗った。底に残った黒いものは、いくらこすっても、すっかりは落ちなかった。翌朝、われは玄米の袋をさげて、その一画を出た。
◇ ◇ ◇
夏の乳は、日なかに置けば、半日で酸くなる。それが、夜明けから日暮れまでの、ひと日がかりで、十杯、両の手のひらにのるほどのひとかたまりになった。
いまの牛乳を、紙の箱から注ぐたびに、ボクの頬に、あの日の竈の口のほてりが戻る。
参考文献・もっと詳しく
※ 蘇は牛乳を煮詰めた濃縮加工品で、薬・神饌・贈答用として、おもに貴族や宮廷など限られた層のものであり、庶民の口には入りにくかったとされる。その製法の細部は史料上明確でなく諸説あるため、本編では場面の所作にとどめ、乳の量と仕上がりの数は創作である。乳製品の利用は大陸・仏教とともに伝来し、中世以降、武家の世への移行・仏教の不殺生観・牧の衰退などが複合的に重なって衰退したとされる。本編ではその要因には立ち入らなかった。
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