第 35 話食山の氷室から都の門まで、夜のうちに運ばれた、夏のひとかけら
〜生まれてはじめて舌にのせた夏の氷に、幼い童女は、なぜ泣きそうな顔で笑ったのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
いまどき、夏に氷を食べたくらいで驚く者はいない。ボクも、コンビニでカップ入りのかき氷を買うし、冷凍庫からロックアイスをつかみ出す。溶けても惜しくはない。また凍らせればいいだけだ。
けれど、いったいいつから、夏に氷が食べられるようになったのだろう。冬にしか出来ないはずのものを、いったいどうやって夏まで残していたのか。
その答えの端っこに、一度だけ触れたことがある。
◇ ◇ ◇
長保二年(一〇〇〇年)の夏、平安京の北にひろがる山あいで、ひと晩だけ、氷を運ぶ人足に雇われたことがある。
声をかけてきたのは氷室の番の者らしく、手の足りぬ荷持ちを里から集めているのだった。都のさる上達部の邸まで、氷を届ける仕事だという。一晩の働きで米にありつく身には、行く先の名も、届け先の顔も、たいして関わりのないことだった。日暮れに山の入り口で落ち合うと、見も知らぬ男が三人、それぞれ別の里から集まっていた。年恰好もばらばらで、二度と顔を合わせることもないだろう顔ぶれだった。誰かが、水と、わずかばかりの干し飯を配って寄越した。夜が更けるまで、その干し飯をかじって待たされた。
夜半になって連れて行かれた先は、山の北側、日の射さぬ斜面に掘られた深い穴だった。萱や木の葉を厚く重ね、その上から土を被せてある。覆いの分厚さを見れば、これでひと夏をしのぐつもりだと知れた。中へもぐると、外がどれほど灼けていようと、ひやりと骨まで沁みた。土の匂いと、湿った暗がりの底に、氷が眠っている。冬のあいだに切り出され、それきりずっと、この闇の中で夏を待っていたのだ。
鍬で土を除け、萱をめくる。誰も口をきかず、土を掘り返す音だけが、闇の中に響いた。下から出てきた氷は、覆いの厚みに見合うだけの大きさをしていた。一抱えほどの塊を四つ、莚にくるんで担ぎ縄をかける。運び手はわれを入れて四人。夜半のうちに山を下り、明けきらぬうちに都へ入る手筈だった。縄を肩に食い込ませてみると、思っていたより重い。氷がこれほどの目方を持つことは、体が覚えている。縄が、肩の同じ場所へ食い込んでくる。
歩き通しだった。休んだのは、山を下りきったところで一度きり。それも荷を負ったまま、立ち止まって息をつぐだけだった。月明かりだけを頼りに、石ころだらけの道を踏みしめて進む。足を滑らせれば、担いだ塊もろとも谷へ落ちかねない。肩に食い込む縄の重さは、道すがら、少しずつ軽くなっていく。担いだ塊の角という角が、いつのまにか丸く溶けて、莚の隙間から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。運ぶそばから、氷は自分の身を水に変えて、道へ置き去りにしていくのだった。夜が明けきる前にと、誰もが無言で足を速めた。他の三人の名も知らぬまま、ただ同じ重さを分け合って歩いた一晩だった。門にたどり着く頃には、山を出たときの、ゆうに半分は失っていた。

門の手前で縄を解き、莚ごと腕に抱えなおした。都はもう、明け方から蒸していた。犬は軒下で舌を出して伸びている。井戸の水もぬるく、汗は拭っても拭っても噴いてくる。それでも、腕の中の莚だけは、ひんやりと冷たいままだった。
門前で、氷を受け取ったのは、下働きの女だった。手慣れた仕草で莚の端を確かめ、重さを量るように腕にのせる。減った目方を見ても、驚いた顔ひとつしない。毎年のことなのだろう。われらは莚ごと塊を渡し、礼の米を受け取って、それで仕事は終わりだった。それより先、邸の内へ入ることは許されない。門の柱に背をあずけ、しばらく息を整えた。
礼を待つあいだ、塀の向こうから、しゃり、しゃりと、刃物で氷を削る音が漏れてきた。はじめは短く、やがて長く、刃物が氷の面をすべっていく。門の内は見えない。それでも、あの塊の行き着く先は、その音で知れた。
しばらくして、塀を越えて、甘い匂いがひとすじ流れてきた。氷に添えるものなのだろう。莚に染みた土の匂いを、その甘さが、いっとき押しのけた。
そばにいた女房が、連れに小声で話すのが聞こえた。今日も姫君に、涼をさしあげるのだと。削ったそばから溶けてしまうゆえ、急いで運べ、と急かす別の声も、塀の内から重なった。
門のかたわらでは、水汲みをする童女が一人、水を張った小ぶりの盥を、よろけながらも抱えていた。五つ六つほどだろうか。何度も水汲み場と門とを往復しているのだろう、足取りに迷いはなかった。細い腕に、水仕事でひび割れた指先が見えた。莚を解くときに転がり落ちた、握りこぶしほどの欠片が、土の上で転がっている。誰も見向きもしなかった——欠けて汚れたその一片は、姫君の口には届かない。捨てられるだけの氷なのだろう。

われはそれを拾い上げ、袖でざっと汚れを払った。もう半分ほどは水になりかけていたが、まだ確かに冷たかった。面には、鍬の跡とも刃の跡ともつかぬ細い筋が、いく本も走っている。あこ、と誰かが童女を呼ぶ声がした。名を聞いたのは、そのときが初めてだった。
われは、その氷を、あこの小さな手のひらへのせてやった。
あこは、目をまるくして、それをじっと見つめた。掌のくぼみに、小さな雫が溜まりはじめていた。それから、おそるおそる、舌の先で、つん、と触れた。
とたんに、あこの肩がびくりと跳ねた。この暑さのさなか、手のひらから冷えがのぼってくるのだ。あこは、ひっ、と息をのみ、けれど、けっして手は引っ込めない。もういちど、こんどはしっかりと舌にのせる。
あこの顔が、くしゃりと歪んだ。泣くのかと思った。違った。泣きそうな、けれどたまらなく嬉しそうな、なんとも言えぬ顔で、あこは笑ったのだ。
「つめたい……つめたいよ」
それしか言えずに、何度もそう繰り返した。手のひらの氷は、もうあらかた水になって、指のあいだから流れていく。あこは、その最後の一滴までを惜しんで、ぺろりと舐めとった。それでも名残り惜しげに、濡れた手のひらをいつまでも眺めている。たったいま消えてしまったものが、ほんとうにこの世にあったのかと、たしかめるみたいに。
「ねえ、これ、どこから来たの」
あこが小声で訊いた。山の奥に、夏でも溶けぬ冷たい場所があってな——そう教えてやると、あこは口を半びらきにして、遠い山を思い描くような目をした。谷の底の、闇の中で眠る氷のことなど、この子には、夢の中の話のように聞こえたことだろう。あこは、その話をもっと聞きたそうにしていたが、それ以上は語らなかった。
「おい、米が出たぞ」
運び手仲間の声に呼ばれ、それきりだった。あこは、盥を抱えたまま、こちらを見ていた。手を振るでも、呼び止めるでもない。ただ、じっと見ていた。あこの名も、あの邸の名も、二度と耳にすることはなかった。われはその足で門を離れ、次の仕事を探しに行った。
◇ ◇ ◇
あの頃、この国では、砂糖はまだ、誰の口にも入るものではなかったという。氷に添えるのは、蔓の汁を煮つめた甘葛だったらしい。『枕草子』には、それを削った氷にかけ、新しい金属の器に盛ったものが、上品なものとして挙がっている。
いま、氷を一つ凍らせるのに、機械のスイッチひとつで足りる。人手も、夜通しの道のりも要らない。
あの晩、氷を運んだのは、ボクを入れて四人。夜半に氷室を出て、明け方に門へ着くまで、四人の肩を渡ってきた。行き着く先は、塀の内の、ボクの見ることのない誰かの涼だった。
あこの手のひらにのったのは、こぼれ落ちた欠片がひとつ。冬に切り出されて半年、夜どおし運ばれて、それが消えるまでは、ゆっくり百を数えるほどだった。
鼻を近づければ、いまのかき氷の蜜は、いつでも同じ甘い匂いがする。あの朝、あこの濡れた手のひらに残っていたのは、莚の藁と、湿った土の匂いだった。
参考文献・もっと詳しく
※ 古代から平安期にかけて、冬の氷を山かげの「氷室」に蔵し、夏に宮中や貴族へ供したとされる。氷の管理は宮内省の主水司が担い、夏の氷は限られた上層の人々の贅沢だったと伝わる。削った氷に甘葛(蔓から採った甘味)をかけた「削り氷」は、清少納言『枕草子』の「あてなるもの」の段に、新しい金属の器に盛る冷菓として挙げられている。砂糖が広く普及する以前、甘葛は貴重な甘味料だったとされる。長保二年は一〇〇〇年(長保は九九九〜一〇〇四年)で、『枕草子』成立期ともおおむね重なる。
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