山の奥の闇に夏まで眠っていた氷を、姫君のひと匙のために、汗だくで都へ運んだ日のこと06
平安のころ・平安京読了 約8

山の奥の闇に夏まで眠っていた氷を、姫君のひと匙のために、汗だくで都へ運んだ日のこと

生まれてはじめて舌にのせた夏の氷に、幼い童女は、なぜ泣きそうな顔で笑ったのか

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kezurihi

 夏の盛りに冷たいものを口にするくらい、今ではなんでもないことだ。

 機械が氷を削って、しゃりしゃりの山を寄越してくる。製氷皿の角氷を麦茶へからりと放り込む。誰もありがたいとは思わない。溶けて水になったところで、また凍らせればいいだけのことだ。

 けれど、ずっと昔——夏に氷を口にできるのは、この世のいちばん上の、ほんのひと握りの人だけだった。

 氷は冬にしか出来ない。夏まで残しておくには、山の奥の闇に隠して、溶けるのを必死でこらえさせるよりほかなかったらしい。そうしてようやく夏まで生きのびた氷の、そのまたほんのひとかけらを、姫君が匙でひと口すくって召し上がる。それが、贅沢の極みというものだったのだろう。

 ボクが見てきたのは、その「夏の氷」が、どれほど遠い山から、どれほどの汗を引き連れて、姫君のひと匙のもとへたどり着いたか——という話だ。

◇ ◇ ◇

 長保二年(一〇〇〇年)の夏のことだ。平安京は二条のあたり、さる上達部の邸で下働きをしていた頃の話さ。

 その夏、われは氷を受け取り、氷を削る役をおおせつかった。

 氷というのは、北の山あいの氷室から来る。冬のうちに切り出した氷を深い穴へ落とし込み、萱や木の葉を厚く被せ、その上から土をかけて、ひと夏のあいだ闇に眠らせておく場所だ。山の北側の、日の射さぬ斜面に掘ってある。中へもぐると、外がどれほど灼けていようと、ひやりと骨まで沁みた。氷というものは、ああして光を断ち、人の手で守ってやらねば、夏まで生きてはいられないものらしい。

 氷室から都までは遠い。だから運ぶのは決まって夜だった。日の出る前の、いちばん暗くて涼しい刻に山を下り、明けきらぬうちに都へ入れる。汗ばんだ男たちが代わる代わる肩に担いで、休まず急いでくる。それでも、着く頃には荷はずいぶん軽くなっている。運ぶそばから、氷は自分の身を水に変えて、ぽたぽたと道へ落としてくるのだ。

 その夏の都は、たまらぬ暑さだった。土塀の照り返しで道がゆらゆらと立ちのぼり、犬は軒下で舌を出して伸びている。井戸の水もぬるく、扇いだところで生あたたかい風がうごくばかり。汗は拭いても拭いても噴いてくる。あの暑さのなかで、氷だけが、たったひとつの別世界からやってくる品だった。だからこそ、ひと晩を徹してでも運ぶ値打ちがあったのだろう。

 夜明けに門のところで荷を解くのが、われの役目だった。

 萱を払い、濡れた莚をめくると、出てきた氷は、山を出たときの半分にも足りない。透きとおった塊が、白くくもり、角という角がまるく溶けて、握りこぶしふたつほどに痩せている。触れれば手のひらが痛いほど冷たく、そのくせ、見ているそばからまた一滴、また一滴と縁から雫を落としていく。

 これが、ひと晩じゅう汗をかいて運んできたものの、残りぜんぶだ。

 われは、その痩せた塊を布にくるんで抱え、邸のいちばん涼しい板の間へ走った。床下を風の通る、北向きの隅だ。そこへ据えて、また萱を被せ、姫君のお召しのあるまで、一刻でも長く生きていてくれと祈るような心持ちで番をした。日が高くなるほど、邸じゅうが蒸して、抱えた布のなかから、ちろちろと水の落ちる音がする。氷が、刻一刻、痩せていく音だ。

 昼下がり、女房から声がかかった。姫君が、氷を召し上がるという。

 われは新しい金鋺をひとつ、布で念入りに拭った。器は新しくなければならぬ。古びた器では、せっかくの冷たさが見すぼらしく映る。そういう細かな約束ごとが、この涼ひと匙には山ほどついて回った。

 小刀を研ぎ、痩せた氷を膝にのせ、しゃり、しゃり、と刃をすべらせて削っていく。薄く、薄く。削った氷は、鋺のなかへ綿のように積もり、ほのかな霧を立てて、まわりの暑さをじんわり押しのける。指の先がたちまち赤くなり、やがて感覚が遠のいた。それでも手は止めない。一片でも厚く削れば、それだけ口どけが鈍くなる。冷たさで指がかじかむそばから、額には汗が噴いてくる。冷たいものを拵えながら汗だくになるのだから、おかしなものだった。

 削り終えた白い山へ、上から甘葛をひとすじ、つうっと垂らす。

 甘葛というのは、蔓の汁を煮つめて取った、とろりと琥珀色の甘味だ。砂糖などというものが、まだこの国の口に入らなかった頃のことさ。甘いものはどれも貴く、なかでも甘葛は手間のかかる品で、そうそう使えるものではなかったらしい。その貴い一すじが、白い氷の山へ染みていく。冷たさのなかに、ほのかな甘さがひと匙ぶん灯る。

 それを、両手で捧げて運んだ。

 御簾のむこうの薄暗がりで、姫君が銀の匙をとった。氷をひと匙すくい、口へはこぶ。しんと静まったあと、ほう、と小さな息がもれた。声にはならぬ、けれど隠しきれぬ、心からのため息だった。暑さに気だるげだった御身が、ほんのいっとき、子どものようにほどけたのが、御簾ごしにも分かった。

 夏に、冷たいものを食べる。たったそれだけのことが、この世にいくらもいない人にだけ許された、夢のような贅沢だったのだ。山ひとつぶんの闇と、男たちのひと晩ぶんの汗とが、御簾のむこうの、たったひと匙にまで縮められて消えていく。割に合うか合わぬかなど、もう誰も問わなかった。

 姫君が召し上がるあいだ、われは廊の隅にひかえていた。すぐ脇に、あこ、という幼い童女がちょこんと座っている。水仕事に使われている、痩せた手足の子だ。あこは、われの抱えた鋺を、さっきからじっと見つめていた。

 じつをいえば、あこは前の日も、その前の日も、氷を削るわれのそばに来ては、こわごわ覗き込んでいた。あれはなにか、と問いたげな目をしながら、けっして口には出さない。問うてはならぬものだと、幼いなりに分かっているのだ。生まれてこのかた、あこは氷というものを口にしたことがない。当たり前だ。氷は、われたちのような者の入るものではなかった。山の闇から運ばれてくる白い宝は、御簾のむこうの人のためだけにある。そういうものだと、誰もが当たり前に思っていた。

 姫君がお下がりになり、鋺がわれの手にもどってきた。底に、削りそこねた氷のかけらが、ほんのひとつまみ、甘葛にまみれて残っている。じきに水になって消えてしまう、わずかなものだ。

 われは、あこを手招きした。

 鋺を傾け、その溶けかけの氷を、あこの小さな手のひらへこぼしてやる。あこは、目をまるくして、それを見つめた。それから、おそるおそる、舌の先で、つん、と触れた。

 とたんに、肩がびくりと跳ねた。

 冷たさに驚いたのだ。あんなに冷たいものが、この世にあるとは思わなかったのだろう。あこは、ひっ、と息をのみ、けれど、けっして手は引っ込めない。もういちど、こんどはしっかりと舌にのせる。冷たさのあとから、甘葛のかすかな甘みが追ってくる。あこの顔が、くしゃりと歪んだ。泣くのかと思った。違った。泣きそうな、けれどたまらなく嬉しそうな、なんとも言えぬ顔で、あこは笑ったのだ。

 「つめたい……つめたいよ」

 それしか言えずに、何度もそう繰り返した。手のひらの氷は、もうあらかた水になって、指のあいだから流れていく。あこは、その最後の一滴までを惜しんで、ぺろりと舐めとった。それでも名残り惜しげに、濡れた手のひらをいつまでも眺めている。たったいま消えてしまったものが、ほんとうにこの世にあったのかと、たしかめるみたいに。

 「なあ、あれはどこから来るんだね」と、あこが小声で訊いた。山の奥に、夏でも溶けぬ冷たい場所があってな、そこからひと晩かけて運んでくるのだ——そう話してやると、あこは口を半びらきにして、見たこともない遠い山を思い描くような目をした。冷たいものが山の闇に眠っているなど、この子には、夢のなかの話のように聞こえたことだろう。

 夏に、冷たいものを食べた。たぶん、あの子が一生のうちで、ただ一度きりの夏の氷だったろう。それでも、あの顔は、なかなか消えるものではなかった。

◇ ◇ ◇

 夏の氷は、ながいあいだ、雲の上の人のものだった。

 山に穴を掘って冬の氷を守り、夜を徹して都へ運ぶ。それだけの手間と人手をかけて、姫君のひと匙にする。割に合わぬといえば、これほど割に合わぬ贅沢もない。けれど、暑さにとろけた身に、つめたいひと匙がすっと染みわたる——その心地よさだけは、千年たっても、ちっとも変わらないものらしい。

 時がたつほどに、氷はすこしずつ、上から下へおりてきた。氷室の氷が町で商われ、やがて誰でも夏に氷を口にできるようになって、今では祭りの軒先で、赤いの黄色いのと、好きなだけ削った山を頬ばっている。あこが舌の先でおそるおそる触れた、あのひとかけらが、今では子どもの小遣いひとつで、どんと一杯になる。いい時代になったものさ。

 それでも、とボクは思う。

 夏にかき氷を食べるとき、ほんのひと匙、いつもよりゆっくり舌にのせてごらん。その冷たさの奥には、山の奥の暗がりと、夜どおし汗をかいて駆けた者たちと、はじめて氷を舐めて、泣きそうな顔で笑った小さな子の声が、たしかにまだ残っている。

 冷たいものは、口の中ですぐに消えてしまう。だから、よけいに忘れがたい。消えてしまうからこそ、ひと匙の夏が、こんなにも長く、舌の根に残るのだろう。ボクは、そういうものが、好きなんだ。

参考文献・もっと詳しく

古代から平安期にかけて、冬の氷を山かげの「氷室」に蔵し、夏に宮中や貴族へ供したとされる。氷の管理は宮内の役所(主殿寮など)が担い、夏の氷は限られた上層の人々の贅沢だったと伝わる。削った氷に甘葛(蔓から採った甘味)をかけた「削り氷」は、清少納言『枕草子』の「あてなるもの」の段に、新しい金属の器に盛る冷菓として挙げられている。砂糖が広く普及する以前、甘葛は貴重な甘味料だったとされる。長保二年は一〇〇〇年(長保は九九九〜一〇〇四年)で、元号と西暦の対応は史実に整合し、『枕草子』成立期ともおおむね重なる。

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