第 79 話食椀の底の飯粒ひとつを、指先でぬぐっていた鎌倉の老いた飯炊き
〜雪で道の閉ざされた寺の台所は、何で幾日をしのいだのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
道安は、椀の底に飯粒がひとつでも残っていると、指先でぬぐって口へ運んだ。
この寺の台所を長くあずかってきた人だ。その道安から、飯のしたくいっさいを譲られたとき、無駄なく使うということになら、妙な自信があった。だが、それを飯や汁の上でやってのける手は、まだどこにも持ち合わせていなかった。
◇ ◇ ◇
暦応四年(一三四一年)の冬、鎌倉のとある禅寺は、諸国の戦がやまぬせいで、村々からの届け物がめっきり細り、蓄えの乏しい時期に差しかかっていた。
道安は、その年の暮れから、目がめっきり弱り、竈の前に長く立っていられなくなっていた。ある朝、鍋の前で立ちすくんでいるおれの肩を、道安の手がひとつ叩いた。
「与一、あとは頼む」
それだけを言い置いて、道安は、飯のしたくのいっさいをおれに譲った。
いざ任されたはいいが、勝手はまるで違っていた。里で握り飯をこしらえるのとはわけがちがう。麦の混じった飯を炊くにも、水加減ひとつで硬さがまるで変わる。初めの幾日かは、飯を焦がし、汁を煮詰め、出したものはとても人に食わせられる代物ではなかった。焦げた飯を、僧たちは文句ひとつこぼさず、黙って箸をつけた。その静けさのほうが、かえって身にこたえた。
夜が明けきらぬうちに起き、まだ暗い台所で灯りをひとつだけ灯し、竈に火を入れる。冷えきった水に手を入れて米を研ぐと、指の先の感覚がしばらく戻らなかった。升で量るのは蔵から出すときだけで、その日の釜に入れる米の量は、手のひらに乗せた重みを頼りに決めるほかなかった。包丁も、この台所に来たときからある古い一挺きりで、砥石で研ぐ手入れも、水を替える間合いも、すべて手探りで覚えていった。
焚き付けを運んでくるのは、寺の下働きをする男の子だった。歳のころは十かそこら、口数の少ない子で、竈の前に薪を積み終えても、しばらくおれの手元を見ていることが多かった。何を尋ねるでもなく、ただ見ている。それだけの子だった。手が空くと、黙って水を汲みに井戸へ走ってくれることもあった。
膳といっても、麦のまじった飯と、汁がひとつ、菜がひとつ。その膳を、寺の僧たちは来る日も来る日も、それだけで暮らしていた。若い僧のなかには、量の少なさに文句をこぼす者もいたが、古株の僧たちはそれを気にする様子もなかった。
冬のうちは、大根と乾かした青菜が菜の種になった。それも底をつきかけると、菜っ葉の固い軸や筋まで捨てずに刻み、汁の実にまわした。捨てるところが、この台所にはほとんど無かった。飢えた村の者が門を叩く日もあり、そんなときは、その日の膳をさらに薄めてでも、椀をひとつ余分に用意した。骨と皮ばかりの子を背負った女房が、椀を両手で受けとって、深く頭を下げていったこともあった。

昆布を沈めた汁を、いつもの調子でぐらぐらと煮立ててみたところ、できた汁は塩辛いばかりで、香りの立たぬものになった。手のあいたときに舐めてみて、しくじりに気づいた。幾日か作り直すうち、昆布は前の晩から水に浸けておき、火にかけたら煮立つ前に引き上げるのがよいと分かった。浸けた水の色が、朝にはうっすらと琥珀に変わっているのが、頃合いの目印だった。それを見つけるまでに、幾晩も無駄にした。ぐらぐら煮ると味が逃げる、ということだけは、指先の感覚として残っていった。
米も同じだった。研ぐたびに、研ぎ汁に流れていく一粒までもったいなく思えて、ざるで受けて拾い上げるようになった。鍋の底に落ちた粒まで、指でひろい集める。ひと粒、ふた粒の話ではあったが、それが積もると、日々の飯にまじる、ひと握りほどの差になった。包丁の使い方にも無駄が出ないよう、菜っ葉は端から端まで同じ幅に刻むよう、幾度も切り直した。
鍋のなかに落ちるのは、塩と味噌、それに乾かした海のものだけだった。味噌の底に溜まる汁を味付けに使う手は、この寺の台所には、まだ伝わっていない。塩と味噌の加減だけで、汁の味を決めるほかなかった。同じ塩でも、日によって粒の大きさがまちまちで、指ですりつぶす力加減を毎度探るところから始めねばならなかった。ひとつまみの見当が狂うだけで、翌日の汁の味はまるで違うものになった。
朝の膳と昼の膳のあいだには、縁の欠けた椀がひとつ、竈のそばに置いてあった。もう使い道のないその椀に、いつからか、余った菜の切れ端を入れておくようになった。次の汁の実にまわすための、ちょっとした置き場だった。
やがて膳が整うと、僧たちにまじって、おれも声をそろえて唱えるようになった。「この一椀がここへ来るまで、幾つの手をわずらわせたか」と、そんな文句が続く。この一椀がどれだけの人手を経てきたか。おのれはそれを受けるにふさわしいか。むさぼる心を起こしてはいないか。腹をふくらませることだけを望んで箸をとってはいないか——五観の偈という、五つの戒めを、ひと口ごとに胸へ刻むための文句だと、後になって知った。

食べ終えると、椀に白湯をそそぎ、香の物のひと切れで底までぬぐって、その湯ごと飲み干す。椀を洗う水さえ汚さぬための作法だった。はじめのうちは、湯に浮いた飯粒が気になって半分も飲みきれなかったが、幾月とたつうちに、その一連の所作は、おれの手にすっかり染みついていった。焚き付けの子も、いつからか、おれの椀を洗う手つきを、じっと目で追うようになっていた。
道安の手の甲に増えていく染みを見るたび、おれは鍋の底を、必要のないところまで長くかき回していることがあった。
寒さが底を打ったころ、届け物はさらに細り、麦の量を増やして飯を炊く日が続いた。それでも、ひと粒も無駄にしないやり方だけは崩さなかった。夜半に目を覚まし、明日の膳の目方を頭のなかで数え直すことも、幾度かあった。道安は床につく日が増え、それでも粥の椀だけは、最後まで自分の手で持とうとした。
年が改まって二月に入ってすぐ、雪が幾日も続き、里からの道が閉ざされたことがあった。届け物は完全に止まり、蔵に残るのは、乾かした青菜と、わずかな麦だけになった。それでも道安は、粥を薄めることはあっても、椀の数を減らすことは許さなかった。米が尽きかけたその数日、おれは研ぎ汁の一粒までひろい集めていた癖に、はじめて助けられた思いがした。ひと粒ひと粒を惜しんできた分だけ、蓄えにわずかな余裕が残っていたのだ。雪が晴れて道が開いたときには、蔵の底に、次の届け物までをつなぐだけの分がまだ残っていた。
二月の雪が明けたころには、しくじりもめっきり減った。野に出れば、蕗のとうや若い蓬が汁の実にまじるようになった。冬のあいだ乾いた青菜と麦ばかりだった膳に、久しぶりに土のにおいのする青みが差した日、僧たちの箸の運びが、いつもよりわずかに早いのに気づいた。汁ひとつ、菜ひとつ。それだけの膳が、いつからか、おれ自身にとっても、日に一度のいちばんの楽しみになっていた。
道安は、その冬を越せなかった。二月の終わり、雪の残る朝に、床に伏したまま、静かに息を引き取った。前の晩まで、粥を椀の底まできれいに食べ終えていた。長く使い込まれたその椀を、寺では、そのまま台所の棚に置くことにした。
◇ ◇ ◇
あとを継いだのは、あの焚き付けの子だった。飯の炊き方も、汁の煮方も、口ではろくに教えられなかった。棚に置かれた道安の椀を、その子はときどき手に取って眺めていた。それでも幾月かたつうちに、その子自身も、空になった椀を両手でしばらく包んでから置くようになっていた。誰かに言われたわけでもなく、身についた癖だった。
参考文献・もっと詳しく
※ 禅宗の寺院では、食事の用意をつかさどる「典座」の役を修行の一環として重んじ、食をととのえることを座禅と同等の勤めとした。食前に唱える「五観の偈」は、その一飯がもたらされるまでの労や、むさぼりを戒める心を確かめる文句として伝わる。こうした「足るを知り、簡素を尊ぶ」食の精神が、質素を貧しさではなく節度と捉える価値観として、武家の膳の心構えにも通じていったとされる。汁ひとつ菜ひとつを基本とする膳の形が広く整っていくのは中世から近世にかけてと伝わる。暦応四年は一三四一年(暦応は一三三八〜一三四二年)。※本文の人物・会話・情景は創作。
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