白い飯は、炊くのでなく蒸すものだった——甑の湯気がハレを運んだ、固い飯のこと07
平安のころ・平安京(左京)読了 約8

白い飯は、炊くのでなく蒸すものだった——甑の湯気がハレを運んだ、固い飯のこと

湯気の立つ白い山を、土間の子は、なぜあんなに長いこと見つめていたのか

アイキャッチ案(レビュー用・未生成なら表示されません)

kowameshi

 飯というのは、今の人にとっては、いちばん当たり前の顔をした食い物だろう。

 釜に米と水を入れて、しばらく待てば、ふっくらやわらかい飯が炊きあがる。やわらかいのが当たり前で白いのが当たり前だ。たいていの食卓に、湯気の立つ白い飯がのっている。それを、誰も特別なものとは思わない。

 けれど、ずっと昔の人にとって、白い飯は、そうそう口に入るものではなかった。日々の腹を満たしていたのは、粟や稗のまじった、ざらりとした飯のほうだ。まじりけのない白い米の飯は、年に幾度かの晴れの日のためのものだった。しかもその白い飯は、今のようにやわらかく炊いたものではない。固く蒸した飯だった。

 米を、炊くのではなく、蒸す。湯気の力で、こわくぼろりと蒸しあげる。それが、晴れの日の飯のかたちだった。

 ボクが見てきたのは、その白い湯気が、土間の隅にまで流れていく、そういう台所のことだ。

◇ ◇ ◇

 天暦七年(九五三年)の秋のことだった。われは平安京の左京、さる受領の館の御台所で、下働きの端に加わっていた。庭の隅では柿の実が色づきはじめ、夕方には虫の声が御台所の板間まで届いた。米のとれる季節である。

 その日は、館で祝いごとがあった。何の祝いだったかは、もう忘れた。ともかく、ふだんは膳にのぼらぬ白い飯を、たんと蒸すことになっていた。台所をとりしきっていたのは、はつという、年老いた女だった。腰は曲がっていたが、火のあつかいにかけては、館の誰よりも確かな目を持っていた。指の節は太く、長年の竈の熱で、爪のあたりがほんのり飴色に焼けていた。

 大きな竈の上に、底に穴のあいた土の器が据えられている。甑、と呼ばれていた。腹のあたりがゆるくふくらんで、底のほうへ向かってすぼまっている。長く使いこまれた甑の肌は、煤と湯気で黒ずみ、内側には飯のこびりついた白い跡が、幾重にも層をなしていた。下の釜で湯を沸かし、その湯気を、穴を通して上の米へ送り、蒸しあげる。釜と甑の合わせ目には、湯気が逃げぬよう、ぬらした布をきつく巻きつける。はつは前の晩から研いだ白米を水に浸しておき、ふやけた粒を、湿らせた布に手早く包んだ。布の上から軽くならして、湯気の通り道をこしらえる。それから甑のなかへ、こぼさぬように収めた。指先で米の山に、そっとくぼみをつける。こうしておくと、湯気が真ん中まで抜けて、蒸けむらができぬのだという。

 「炊いちゃ、いけませんのか」と、われは尋ねた。釜で炊いたほうが、よほど手間が省けるように思えたのだ。

 はつは、ふんと笑った。「炊いた飯は、やわらこうて、くずれる。蒸した飯は、こわうて、崩れぬ。崩れぬから、高う盛れる。高う盛れるから、晴れの膳になるのさ」

 よく分からぬまま、われは竈に薪をくべた。乾いた割木がぱちりと爆ぜ、火の粉が短く舞う。やがて釜の湯がたぎり、甑の縁から白い湯気が綿のように湧きはじめる。湯気はまず板間の低いところを這い、それから少しずつ、土間の隅々へと流れていった。その匂いが、台所いっぱいに満ちていく。粟のまじった常の飯では、けっして立たぬ匂いだった。まじりけのない、白い米だけの、甘く清らかな匂いだ。鼻の奥が、ふいに切なくなるような匂いだった。

 蒸すあいだ、はつは竈の前を離れなかった。湯がたりなくなれば飯は生煮えになり、強すぎれば焦げる。穴を通る湯気の勢いを、縁から漏れる白さの加減で、はつは見はかっていた。ときおり甑に手のひらをかざし、立ちのぼる湯気の熱さで、なかの蒸け具合をはかっているようだった。湯が減れば、わきの小釜から、そろりと差し湯をする。「炊くのは、待てば飯になる。蒸すのは、つきっきりさ」と、はつは独りごとのように言った。手間のかかるぶん、蒸した飯は、こわく、晴れがましいものになるのだ、と。竈の火に照らされたはつの横顔は、しわの一本までが赤く染まって、どこか祈っているようにも見えた。

 半時ほども蒸しただろうか。はつが布をひらくと、ふわりとひときわ強い湯気が顔を打ち、なかから、つやつやと光る白い飯が現れた。一粒ひとつぶが、こわく立っている。指でつまんでも、べたりとつぶれず、ほろりとほどける。はつは慣れた手つきで、それを朱塗りの高坏に、うずたかく盛りあげていった。崩れぬ飯だからこそ、白い山が、てっぺんへ向かってきれいに尖っていく。やわらかく炊いた飯では、こうはいかない。盛ったそばから、ぬたりと崩れてしまう。固いことが、ここでは、めでたさのかたちそのものだった。盛られた白い山の肌に湯気がうっすらと膜を張り、燭の灯を受けて、淡く光った。

 その白い山を、土間の隅から、じっと見つめている影があった。

◇ ◇ ◇

 薪を運ぶ、下男の子だった。やせた十ばかりの童で、煤で顔を汚していた。竈に薪をくべる役で、館の隅に寝起きしているらしい。膝を抱えてうずくまったまま、盛りあがっていく白い飯の山から、目を離せずにいる。喉が、こくりと動くのが見えた。湯気の匂いが土間の隅まで届くたび、その鼻がかすかにうごめく。痩せた肩のうえで、薪を運んでできた擦り傷が、煤の下に赤く覗いていた。白い山の白さと、その子の手の煤の黒さとが、火の灯のなかでひどく際立って、われの目に残った。

 はつも、それに気づいていた。けれど、館の白い飯は、主の膳と、客人の膳のためのものだ。下働きの口に入るものではない。常の日、われらが食うのは、粟稗のまじった、ざらりとした飯のほうだった。腹はふくれても、あの清らかな匂いは、けっして立たぬ飯だ。

 膳がすべて運ばれ、祝いの宴が奥で始まったころ、甑の底に、わずかばかりの飯が残っていた。布にこびりついた、高坏には盛れぬ、はしたの飯だ。はつは、それを椀にこそげ落とすと、土間の子を手招きした。

 「ほれ。竈の番の駄賃だ」

 子は、目をまるくして、両手で椀を受け取った。冷えかけた椀のぬくもりを確かめるように、しばらく胸もとへ抱えている。そうして、白い飯のひとつまみを、こわごわと口に入れ——それきり、しばらく動かなくなった。

 「うまいか」と、はつが問う。

 子は、こくりとうなずいた。それから、ちいさな声で言った。「……正月にも、こんな白いのは、食うたことがねえ」

 その子の里では、晴れの日でさえ、白い飯は粟まじりだったのだろう。まじりけのない白い飯は、その子にとって、宴の奥の、遠い世界のものだった。それが今、煤けた手のひらの椀の底に、たしかにある。子は、こわい白飯を、噛んでは飲みこむのが惜しいように、いつまでも口のなかで転がしていた。一粒がほろりとほどけるたび、頬の内側で、その甘みを追っているのが分かる。湯気はとうに消えていたが、その子の顔は、湯気にあたったように、ほんのりと上気していた。

 聞けば、その子は、飢えた年に里を出されて、この館へ薪運びにあがったのだという。母は、別れぎわに、いつか白い飯を腹いっぱい食わせてやる、と言ったきりだったらしい。それきり、母の顔も、遠くなった。子は椀の底の最後の一粒を指でぬぐい、名残り惜しそうに口へ運んだ。固い一粒がほろりとほどけるたびに、置いてきた里の竈のことを、舌の奥で思い出していたのだろう。

 はつは、それを横目に、何も言わず、甑を洗いはじめた。冷めた甑の底からは、まだ白い匂いがかすかに立っていた。子に背を向けたその肩が、ほんの少し、笑っているように、われには見えた。

 われも、はしたの飯をひとつまみ、もらった。こわく、ほろりとほどけて、奥から白い米の甘みがにじむ。やわらかく炊いた飯とは、まるで違う味だった。固いぶん、一粒ひとつぶの輪郭が舌のうえではっきりと立っている。噛むほどに、その輪郭が崩れ、甘みだけが残る。これが晴れの日の飯か、と、腹より先に、胸のほうが得心した。粟まじりの常の飯では、こうして一粒を惜しむ気にはならぬ。固いということが、白い米をこんなにも大切なものに思わせるのだと、そのとき初めて分かった気がした。御台所の外では、宴のざわめきが、遠い潮のように聞こえていた。

◇ ◇ ◇

 やがて、世の中は変わっていった。

 甑で蒸す固い飯——強飯は、しだいに、晴れの日の、あらたまった膳のものになっていく。常の日には、米をやわらかく炊いた飯のほうが、広まっていった。姫飯、などと呼ばれたと聞く。炊くほうが手早く、薪も少なくてすむ。やがて釜の改良も進んで、誰の家でも、やわらかい白い飯が、当たり前に炊けるようになった。

 今では、白い飯はやわらかいもの、と誰もが思っている。固く蒸した強飯のほうが、よほど珍しい食い物になった。赤飯の、あのこわい固さ——あれが、晴れの日に固い飯を蒸した、遠い名残りなのだと、ボクは思っている。

 それでも、と思う。土間の隅で、煤けた手に白い飯の椀を抱えて、湯気の消えた一粒を、いつまでも惜しそうに噛んでいた、あの子の顔を、ボクはまだ覚えている。白い飯がやわらかくて当たり前になった今、晴れの日の飯を、あんなに上気した顔で見つめる子は、もういないのだろう。

 今度、白い飯を前にしたら、ほんのひと口でいい、固かったころの飯を思い出してみてほしい。やわらかい一杯の底に、甑の湯気と、それを土間から見つめた、ちいさな目が、たしかに畳み込まれている。

 ボクは、そういうものが、好きなんだ。

参考文献・もっと詳しく

強飯(こわいい)は、甑(こしき)で蒸しあげた固い米飯とされ、釜で炊いたやわらかい飯(姫飯〔ひめいい〕)と対をなしたと伝わる。古代から中世にかけて、白い米の飯はハレ(晴れ)の日のもので、日常は粟や稗をまじえた飯が常だったという。固く崩れぬ強飯は高く盛ることができ、晴れの膳にふさわしいものとされた。後世、炊飯がひろまるにつれ強飯は儀礼的な食となり、赤飯などにその名残りをとどめるとも言われる。天暦七年は九五三年(天暦は九四七〜九五七年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本文の人物・会話・情景は創作。

当サイトは Amazon アソシエイト・プログラムの参加者です。上記リンク経由の購入で当サイトに収益が発生する場合があります。

同じテーマの話
醍醐味という言葉の、ほんとうの味海を知らぬ里へ、ひとつまみの海を背負っていった日のこと壺の底で、豆はゆっくり塩に溶けた——味噌でも醤油でもなかったころの、どろりとした塩辛さのこと