捨てるはずだった煮豆が、藁苞のなかで糸を引いていた第 37 話食
食室町のころ・信濃の山あいの村読了 約6分
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捨てるはずだった煮豆が、藁苞のなかで糸を引いていた

〜腐ったと決めてかかった豆に、なぜよそ者の男は先に箸をつけたのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 岩造は、鍋についた豆の一粒すら、指でぬぐって口へ運ぶ男だった。捨てるくらいなら、腹へ入れる。飢饉をいくつも越えてきた者には、それがただひとつの分別だった。

 その岩造が、ある朝、藁の苞つとを手にしたまま、渋い顔で立ちすくんでいた。中の煮豆が、白く濁った糸を引いていたのだ。捨てるべきか、しまっておくべきか、それとも祓ってもらうべきか、家の中で言い合いになった。

 のちに納豆なっとうと呼ばれる食い物だが、この朝、それを知る者は、村にひとりもいなかった。

 ひとりも、とは言い切れない。ボクには、見覚えがあった。ただ、目の前のそれは、ボクの覚えているものと、どこか違っていた。粒の大きさも、匂いの強さも、名の呼び方さえも。

◇ ◇ ◇

 応永おうえい十五年(一四〇八年)の冬、おれは信濃しなのの山あいのこの村に流れ着いていた。岩造という年寄りの納屋に転がり込み、薪割りと水汲みで、冬のあいだの飯にありついていた。

 その年の蓄えは、ことのほか心もとなかった。米はとうに年貢で持っていかれ、稗と粟に煮豆を混ぜたものが、この家の日々の飯だった。釜の底が見えるまでの日数を、おれはつい指で数えてしまう。日雇いの身では、この納屋にいつまで置いてもらえるかも分からない。そんな思いが、ふとした拍子に胸の底をかすめることがあった。

 沢向こうの家へ、その煮豆をいくらか分けてやる約束が、岩造にはあった。あすこの婆ばあさまが、冬を越す力をなくして、寝込んでいると聞いていたからだ。だが、雪がまた荒れて、道が消えた。届けるどころではなくなり、岩造は煮豆を藁苞に詰めたまま、炉のわきへ放っておいた。豆の温もりと、炉のぬくもりとで、苞はほんのり湿って、あたたかいままだった。雪のやむのを待つうち、二日が過ぎ、三日が過ぎた。

 雪がようやく落ち着いた朝、岩造は苞を解いた。開けてみれば、あの有様だった。

 「腐ったな」

 岩造がつぶやいた。せっかくの蓄えを、まるごと無駄にした。婆さまへの約束もふいだ。苞ごと表の雪へ放り出そうとする岩造から、おれは、それを借り受けた。

 なかをあらためる。豆と豆のあいだに、白く濁った糸が幾筋も渡っている。箸でつまめば、どこまでも切れずに伸びる。鼻を近づければ、つんとくる、強い匂いがした。

挿絵:なかをあらためる

 ——これに、覚えがある。

 だが、思い出す姿とは、どこか違った。粒はひとまわり大きく、色も濃い。糸の匂いも、覚えているよりずっと鋭かった。おれの知っている、あの小さな黒い豆とは、別の食い物のように見えた。呼び名すら、いま口にできるものと同じかどうか、怪しかった。知っているつもりで、実のところ、何ひとつ知らなかったのかもしれない。

 岩造は、まだ苞を庭先へ放り出そうとしていた。「こんなもの、置いておいても仕方あるまい」

 「待ってくれ」

 「これは、食える」

 おれは、そう言った。

 岩造は、目を丸くした。「食えるじゃと。糸を引く豆をか」

 「腐ってはおらぬ。豆のなかで、なにかが仕事をしているだけだ」

 言った端から、確かめる術がないことに、おれ自身気づいた。それでも、箸でつまみ上げ、ひとくち、口へ運んだ。

 思っていたより匂いが強く、粒の歯ごたえはしっかりしていた。噛みしめるうち、豆の甘みの奥から、じわりと旨みが広がってくる。煮ただけの豆とは、まるで別の食い物だった。おれの覚えているものより、ずっと荒々しい味だった。

 岩造は、口をあんぐりと開けたまま、おれを見ていた。「正気か。腹が下ったら、どうする」

 「下ったら、そのときのことだ」

 軽口で返したが、腹の底では、おれ自身、確かめようがなかった。ただ、豆のにおいと粘りに、覚えのある何かを感じていた。それだけを頼りに、口へ運んだのだった。

◇ ◇ ◇

 その晩、おれはひと晩、腹の具合を見た。何ごともなかった。次の朝も、その次の朝も、変わりはなかった。それで、岩造にも椀を勧めてみた。

 「わしはまだ、御免こうむる」

 岩造ははじめしぶっていたが、幾日か経って、おれが平気な顔をしているのを見ると、恐る恐る、ひとくち含んだ。

 「……ふん。臭いが、悪くない。飯にかけると、なお良かろう」

 それからおれは、同じことを幾度も試した。煮豆を藁苞に詰め、炉のわきに置く。一日めは、なにも起こらない。二日めに、かすかな糸が見えはじめる。三日めには、はっきりと、白い糸が幾筋も渡る。冷えた土間の隅へ置いた苞は、いつまでも、ただの煮豆のままだった。

 温めすぎれば、豆はぬるりと崩れて、まことに腐る。ぬくもりが足りねば、糸は引かぬ。ちょうどよい火加減と、ちょうどよい日数というものが、たしかにあった。それを、おれは舌と鼻とで確かめていった。

挿絵:温めすぎれば、豆はぬるりと崩れて、まことに腐る

 一度など、炉に近づけすぎて、苞の中身がどろりと崩れ、鼻を刺す悪臭に変わったことがあった。捨てるしかない代物だった。だが、その失敗のおかげで、火からどれほど離せばよいかが、少しずつ見えてきた。

 隣家の作平が、噂を聞きつけてやってきた。糸を引く豆を見て、鼻先で笑った。

 「そんなもの、犬すら食わぬわ」

 おれは黙って、椀を差し出した。作平はしばらく渋っていたが、そのうち箸を取り、恐る恐る口へ運んだ。噛むほどに顔つきが変わっていくのが、傍目にも分かった。

 「藁を、けちるな。豆を活かすも殺すも、藁と、この炉の温もり次第だ」

 村の男たちに、おれはそう教えて回った。書き留める術も、細かい理屈もいらぬ。ぬくもりを、幾日か絶やさず保ってやる——

 はじめのうち、子どもらは、糸を引く豆を気味悪がって、口をへの字に結んでいた。それが、ひと冬を越すころには、平気な顔で飯にかけて食うようになっていた。

 作平は、それからというもの、自分の炉端でも藁苞をこしらえるようになった。できのよしあしを、おれのところへ確かめに来ることもあった。粒の色つや、糸の伸び、匂いの強さ——見極めどころは、いくつかあった。それを一つひとつ、おれは指さして教えた。

◇ ◇ ◇

 雪がゆるんだころ、おれは出来のよい糸引き豆を苞ごと背負い、沢向こうの婆さまのもとへ運んだ。腐ったものを病人に食わせるわけにはいかぬと、はじめは差し出すのをためらった。だが岩造が「滋養になる」と言い張るので、思いきって椀に取り分けた。

 婆さまは、鼻を近づけて、いちど顔をしかめた。「なんじゃ、この臭いは」と、しわがれた声でつぶやいたが、それでも、痩せた手で箸を取り、ひとくち、またひとくちと、ゆっくり噛みしめた。

 「ふしぎな味じゃ。けれど、腹の底があったこうなる」

 そう言って、椀を空にした。寝込んでいた婆さまの頬に、その晩、わずかに血の色が戻ったように見えた。気のせいだったかもしれぬ。それでも、糸を引く豆が、弱った者の力になる——おれは、そう信じた。

 帰り道、雪解けの沢音を聞きながら、おれは空になった椀の重みを思った。届けようとして届かず、放り出されかけた豆が、結局のところ、いちばん役に立った。妙な巡り合わせだった。

 村へ帰って、おれはこの話を、あちこちで吹いて回った。はじめ、誰もが顔をしかめた。腐った豆を食うとは、あの日雇いはよほど困窮したか、と陰口も叩かれた。だが、ためしに藁苞へ煮豆を詰め、炉のそばで寝かせてみた者から、ひとり、ふたりと、考えを変えていった。

 「なるほど、糸を引いておるが、これは……いける」

 糸を引けば引くほど、よく出来た印とされた。村のあちこちの炉端で、藁苞が温められるようになった。同じ豆を煮ても、藁にくるんで温もりに置いた豆だけが、こうなる。冷えた土間の隅に置いたままの豆は、何度やっても、ただの煮豆で終わった。

◇ ◇ ◇

 雪がゆるみきる頃、ボクはまた村を発った。仕事を探して、山を越えていった。

 背負った荷の隅に、岩造が無理やり押し込んだ藁苞がひとつ、紛れていた。

 解かずとも、匂いでわかる。つんと鼻を突く、あの匂いだ。

 軽いはずの荷が、その一点だけ、いつまでも重く匂った。旅の先々で、同じ匂いに行き当たるたび、ボクはつい足を止めて、藁苞のありかを探してしまう。

参考文献・もっと詳しく

※ 煮た大豆を藁苞に包み、適度な温もりのなかに置くと、藁に付着した枯草菌の一種の働きで発酵し、糸を引いて旨みと滋養の増した「納豆」になるとされる。藁に包む保存・運搬の習慣のなかから偶然に生まれたと伝わり、寒冷で米や菜の乏しい山間の村に、貴重な蛋白源として根づいていったという。菌の存在が知られる以前は、その変化を「藁の力」や「神の恵み」と受け止めたとされる。応永十五年は一四〇八年(応永は一三九四〜一四二八年)。※本文の人物・会話・情景は創作。

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