陸奥から来た千寿丸と、宴の前の几帳七つ第 107 話文化
文化平安のころ・京(左京)読了 約6分

陸奥から来た千寿丸と、宴の前の几帳七つ

〜風に負けぬ間仕切りは、どうやって立つのか〜

はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。

 千寿丸は、几帳きちょうを据える前に、かならず一度、掌を宙にかざした。風がどちらから抜けるかを、それで確かめるのだった。ほかの下人たちは、絹の帳さえ垂らせば事足りると思っていたから、そんな手間をかけるのは千寿丸だけだった。

 千寿丸は陸奥みちのくのほうから流れてきた男で、都へ来てまだ二年ほどだと聞いていた。几帳や屏風びょうぶ、御簾みすをあちこちに据え、また片づけて運ぶ。それが、当時のボクの、日々の仕事だった。

◇ ◇ ◇

 寛仁三年(一〇一九年)の秋、京の左京にあったその邸は、南に寝殿、東西に対を持つ、寝殿造しんでんづくりのつくりだった。渡殿わたどのという廊下が両の対へ伸び、前には池が掘られて、遣水やりみずが引かれ、釣殿つりどのが水の上に張り出していた。秋の朝は池の面に薄い靄が立ち、紅葉した梢の影が逆さまに映りこんで、遣水のせせらぎが板敷きの下までかすかに届いた。柱と柱のあいだは蔀戸しとみどや格子で、昼は跳ね上げて開け放つ。重い蔀を一枚一枚押し上げて鉤に掛けるたび、ぎい、と木のきしむ音がして、外の光がどっと内へ流れこむ。だから日のあるうちは、邸じゅうがひと続きの、広い板の間のように見えた。

 その日、寝殿の母屋もやでは、姫君のために夜の御座を設けることになっていた。千寿丸は東の対の造作ぞうさくに出払っていて、几帳を立てる役は、われと同輩の二人に回ってきた。庭先には、明日の宴に使う菊が、前栽から幾株も移されてくるところで、土のにおいがまだ濃く残っていた。

 まず帳台ちょうだいを据え、そのまわりに帷子を垂らす。次に几帳を、台に横木を渡し、絹の帳を長く垂らしたものを、幾つも運んで立てていく。慣れた手順のはずだった。だが、その日は朝から風が出ていて、開け放った蔀の口から吹きこむたび、絹の帳が大きくあおられた。一つ目はどうにか立った。二つ目を立てたところで、隣の几帳の柱を打ち、あわや倒れかけた。三つ目にいたっては、風をまともに受けて、台ごと横倒しになった。姫君づきの女房が、几帳の隙間から顔をのぞかせて、眉をひそめた。同輩の一人が、板の間の隅で忍び笑いをこらえているのが目に入り、顔がかっと熱くなった。

 われは、几帳の裾を両手で押さえて、なんとかその場をしのいだ。だが、指の先がしびれるほど長く押さえていても、手を離せばまた帳は暴れた。これでは夜通し、誰かが張りついていなければならない。額に汗がにじんだが、風のせいで、すぐに乾いた。

挿絵:われは、几帳の裾を両手で押さえて、なんとかその場をしのいだ

 戻ってきた千寿丸は、それを見るなり、何も言わずに腰の袋から小石を三つ取り出した。几帳の裾のうち、風の吹きつける側にだけ、その石を置いていく。一つ、二つ、三つ。それだけで、あおられていた帳が、ぴたりと動きを止めた。千寿丸は、そのままもう一度、掌を宙にかざして風の道を確かめると、そのまま、また東の対のほうへ戻っていった。その後ろ姿を、われはしばらく見送っていた。陸奥の冬は、都よりずっと風が強いと聞いたことがあった。石で押さえるという工夫も、そういう土地で身についたものだったのかもしれない。ここでは、そんな手を見かけたことがなかった。

 われは、自分の受け持つ残りの几帳を、千寿丸のした通りに、裾へ石を置いてまわった。一度目は、風上と風下を読み違えて、かえって帳を煽ってしまった。二度目は、石が軽すぎて、風が強くなるとまた浮いた。三度目、ようやく、風がどちらから抜けて、どこに重みを預ければ帳が静まるかが、指先で分かるようになった。石を落とし、拾い、また置き直す。袋の石は、握りこぶしほどの大きさで、角が丸く磨り減っていた。よほど長く、幾つもの邸を渡って使い込まれてきたものらしかった。千寿丸の三つは最初の几帳に置かれたままで、こちらの几帳に使う石は、遣水のふちの玉石を拾い集めて充てた。その繰り返しのなかで、われの手は、少しずつ、千寿丸の手つきに近づいていった。日が傾くころには、七つの几帳がすべて、どうにか風のなかで立っていた。あわせて二十を越える石を、置いては直し、直しては置いた。板の間の隅の同輩は、「陸奥の流儀を邸に持ち込むのか」と鼻で笑ったが、その同輩が立てた一つにだけは、石を置かせなかった。

 夕刻、姫君の御座が調い、灯りがともされた。母屋の奥に、几帳と簾とでこしらえた一画が、ぽつりと浮かびあがって見えた。壁のかわりに、七つの几帳と簾だけで囲われた、宴までの仮の部屋だった。宴が果てれば、これもまた片づけられて、母屋はもとの、がらんとした板の間に戻るのだろう。

◇ ◇ ◇

 宵のうちは、風もおさまり、几帳はどれも静かに立っていた。われは紙燭しそくをかざして、邸の内をひとまわりだけ見て歩いた。千寿丸の置いた三つも、われの拾い置いた石も、裾にしっかりと収まっていた。念のため、指先でひとつずつ位置を確かめてまわった。

挿絵:宵のうちは、風もおさまり、几帳はどれも静かに立っていた

 だが、夜更けになって、風はふたたび強くなった。下ろした蔀の合わせ目から、容赦なく吹きこんでくる。灯台の火が大きく揺れて、油の焦げる匂いが鼻をつく。

 われは、几帳のあいだを幾度も回った。一つの帳が揺れれば、そこへ屈んで石の位置を風向きに合わせて据え直す。掌に、絹の冷たさと、石の重みが、代わる代わる伝わってくる。板敷きは素足に固く、絹は指先に柔らかい。ふたつの感触を行きつ戻りつ確かめながら、几帳から几帳へと渡り歩いた。指のあいだに小石を挟んだまま、暗がりのなかを手探りで進むうち、どの几帳がどちらに傾いでいるか、灯りを見なくても、掌の感触だけで分かるようになっていた。渡殿の角を折れるたび、遣水のせせらぎが、風の音に混じって耳に届いた。

 途中、渡殿の向こうで、千寿丸も同じように几帳を見て回っているのが見えた。すれ違いざま、千寿丸は、われの手にある小石を見ても、足を止めなかった。千寿丸の足どりは迷いがなく、几帳のあいだを縫うように進んでいった。陸奥にいたころも、こうして毎晩、風と付き合っていたのだろうか。われには知りようもなかったが、そう思うと、なぜか気が楽になった。

 布一枚の仕切りの向こうから、姫君づきの女房たちの、ひそひそと語らう声が聞こえてくる。物語のこと、明日の衣のこと。ときおり忍び笑いが漏れて、すぐにしいっと制する声がかぶさる。固い壁なら遮ったはずの、そういう声が、いくらでも漏れ聞こえてきた。

 われは、几帳の裾を押さえながら、声も灯りも越えてくる布の頼りなさを、指先に感じていた。石の重みだけが、その頼りなさを、かろうじてつなぎ止めていた。灯台の油はもう半分ほどに減っていて、火はいつもより小さく揺れていた。強い風がひときわ吹き抜けたとき、離れた几帳の帳が大きく浮いた。われは板敷きを駆け、両の手で裾を押さえこんだ。石が転がって、指の先をかすめて板の上に落ちた。拾いなおして、また元の位置へ据える。それを、幾度か繰り返した。膝も肘も、板敷きにこすれて熱を持っていたが、手だけは、石の重みと絹の感触とを、休みなく確かめ続けていた。息が上がっていた。

 風がようやく弱まって、帳が静まった。夜半、同輩が石を置かせなかった一つだけは、案の定、台ごと倒れていた。われは遣水のふちで拾った石を二つ寄せて、その裾に据えた。手を離すと、絹はまっすぐに垂れた。渡殿の向こうから、千寿丸の足音も、いつしか聞こえなくなっていた。掌には、石の重みの跡と、絹のなめらかさとが、まだ残っていた。

◇ ◇ ◇

 几帳の絹も、あの石も、もう手もとにはない。かわりに、いまの家には襖や障子が立っている。

 ボクは、ときおり、襖の桟に掌をあてる。手が、まず几帳の裾を探るように動いて、そこに何もないことに、あとから気づく。掌に触れるのは、絹の冷たさでなく、木と紙の、乾いたかさつきだ。

参考文献・もっと詳しく

※ 寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の貴族の邸宅様式とされ、南面する寝殿を中心に、対屋を渡殿でつなぎ、前面に池や遣水を配したと伝わる。内部は固定壁が少なく、柱間を蔀戸や格子で開け放ち、几帳・屏風・御簾・帳台といった可動の調度で随時に空間を仕切って用いたという。この可動の間仕切りの発想は、のちの障子・襖による室内構成へと受け継がれたとも言われる。寛仁三年は一〇一九年(寛仁は一〇一七〜一〇二一年)。左京は平安京の東半をさす呼称として用いた。本話の人物・会話・情景は創作。

当サイトは Amazon アソシエイト・プログラムの参加者です。上記リンク経由の購入で当サイトに収益が発生する場合があります。

この話が続いてほしいと思ったら、心ばかりの応援をしていただけます。見返りのない、任意の支援です。

このサイトを応援する →
同じテーマの話
文化京のある家で、冠を納める箱には傷が五つあった文化月は、まっすぐ見ないものだった、盃のなかでは文化柘榴口の暗がりをくぐって、湯屋の二階へ上がる
同じ時代の話
食浜の火で二晩煮つめた塩と、海を知らぬ山あいの里道具乙丸の五本骨——かわほりの扇ひとつが仕上がるまで宗教一年に二度、紙の人のかたちへ汚れを移して流す日——長和五年、鴨の河原の大祓