第 108 話文化光と風は、跳ね上げて招くもの——格子の戸を吊って開けた、ある夏の屋敷のこと
〜重い格子の戸を毎朝ひとりで吊りあげる下男は、なぜその手間をいとわなかったのか〜
戸というのは、ただ閉じるためだけのものではない、とボクは思っている。
今の暮らしなら、窓ひとつにいくつもの役を兼ねさせる。閉じれば雨も風も虫も入らず、開ければ光と風が通る。曇りの硝子を入れれば、外の目から内をかくしながら、明かりだけは招き入れる。一枚の窓が、あれもこれもと器用にこなしてくれるのを、誰も不思議とも思わない。
けれど壁のうすい家に暮らした頃、人は外との境を、もっと手のかかるやり方で按配していた。光がほしい。風もほしい。けれど雨は困るし、夜は閉じたい。日盛りはさえぎりたいが、夕涼みには開け放ちたい。そのいちいちに応えてくれる、都合のいい一枚など、どこにもなかったのだ。
だから人は、戸そのものに工夫を畳み込んだ。格子に組んで、裏に板を張り、上の縁を蝶番がわりに吊って、ひと息に跳ね上げる。蔀戸、と呼ばれていた。閉じれば板が雨風をふせぎ、跳ね上げて鉤に掛ければ、軒下に庇ができて、雨の日でも光と風だけを招き入れる。
ボクが見てきたのは、その重い格子を、毎朝ひとりで吊りあげていた男の手のことだ。
◇ ◇ ◇
治安二年(一〇二二年)の、梅雨のあけぎわのことだった。われは番匠の下働きとして、とある中流の貴族の屋敷に、ひと夏かよっていた。
その屋敷の蔀戸が、長雨で建てつけが狂い、跳ね上げてもうまく鉤に掛からぬという。木が雨を吸ってふくれ、框がわずかに反って、鉤の先が宙をかくのだと、われを呼んだ家司は渋い顔で言った。直しに来たわれを使ってくれたのが、与一という年かさの下男だった。腰のすこし曲がった、無口な男で、屋敷のおもての戸という戸の上げ下ろしを、何年もひとりで受けもっているのだという。
明け方、まだ薄暗いうちから、与一は廂のしたを行き来していた。露をふくんだ庭土の匂いが、まだ低く垂れこめている。鶏も鳴かぬうちに起き出して、まず東のおもてから順に戸を上げてゆくのが、長年の決まりらしかった。蔀戸は、上下の二枚に分かれている。下の半分はそのまま立て、上の半分を、両手でぐっと持ちあげて、軒から下がった金の鉤に、こつ、と掛けてゆく。一枚が、われの背丈ほどもある。格子の裏には板が張ってあるから、見た目よりずっと重い。それを、いちいち。屋敷のおもてには、その戸が幾枚も並んでいた。
与一は持ちあげるとき、いちど膝を落とし、戸の框を肩で受けるようにして、息をつめて押しあげる。腕だけではない。腰から背から、体ぜんたいで押す。木が軋み、鉤の金が冷たく光って、こつ、と框の縁を受けとめる。掛け終えると、ふう、と短く息を吐いた。その息が、薄明かりのなかで白くにじむ。掛けたあとはいちど下から見あげ、まっすぐ吊れているかをたしかめてから、つぎの一枚へ移っていった。一枚、また一枚と上がるたびに、暗かったおもてが、ひと間ずつ明るんでゆく。屋敷が、まぶたをひらいてゆくようだった。
「重かろう」と、つい声をかけた。与一は手を止めず、「なれた」と短く返しただけだった。
跳ね上げた格子のむこうから、朝の白い光が、すうと座敷の奥へ流れこむ。畳のへりが光り、御簾の房がかすかに揺れた。雨をふくんだ風が、廂の下をくぐって、屋敷のなかの湿気をゆっくりと押し出してゆく。さっきまで閉じこもっていた夜の匂い——香のたきしめられた、すこし甘く重いそれが、戸の上がった先へ抜けていくのがわかった。かわりに、木と土と青葉の匂いが、外から低く入ってくる。
「これが上がらんと、屋敷が目をさまさん」と、与一はぽつりと言った。戸を上げることが、家を起こすことなのだ、と言いたいらしかった。
◇ ◇ ◇
われの仕事は、狂った戸の建てつけを直すことだった。
反った框に墨をうち、槍鉋で薄く削る。削りすぎれば隙ができて雨が吹きこむから、ひと削りごとに戸を立ててみて、鉤との合いをたしかめる。削りくずが廂のしたに薄くたまっていった。やってみてわかったのは、蔀戸というものが、ただ重いだけの板ではない、ということだった。あまり厚く作れば、跳ね上げるのに難儀する。薄く軽くすれば、風にあおられ、雨をふせぎきれない。格子の目をつめれば、外からの目はかくれるが、座敷が暗くなる。目をあらくすれば、明るいかわりに、内がまる見えになる。
光と風はほしい。けれど、ほしいだけ入れてしまっては、暮らしが落ちつかない。その案配のちょうどよいところを、組子のひと目ひと目に探ってあるのだった。重さも、格子のあらさも、跳ね上げる鉤の高さも、みな、その屋敷に住む人の、ひと夏の心地よさのために寸法が決められている。削りながらわれは、見も知らぬ昔の番匠の指の感覚を、そっとなぞっているような心もちになった。
昼さがり、日が高くまわって、廂のしたまで照りつけてきた。蝉の声が、青葉の奥からひっきりなしに降ってくる。格子のあいだを抜けた日が、畳の上に細い縞をいくつも落とす。縞は時のうつろいにつれて、少しずつ座敷の奥へとずれていった。すると与一は、座敷の側に立てた御簾を、すいと下ろした。蔀戸は上げたまま、内に御簾をたらす。こうすると、風はそのまま通すのに、強い日ざしと外の目だけが、やわらかくさえぎられる。御簾ごしに、外の青葉がぼんやりとにじんで見えた。風が渡るたび、簾の玉が触れあって、さらさらと低く鳴った。座敷のなかは、ひんやりとうす暗く、それでいて風だけは、たえず青い匂いをはこんでくる。
その御簾のうちには、屋敷のあるじの幼い娘がいた。簾ごしににじむ青葉の影を、飽きもせず眺めている。風が通るたびに簾がふわりと持ちあがって、葉のあいだから洩れた光が、童女のおもてを、まだら模様にすべっていく。娘はそのたびに小さく笑って、手を伸ばし、つかまえようとしては取り逃がしていた。光は指のあいだをすり抜け、また頬のあたりへ戻ってきて、そこで小さく跳ねる。童女はきゃっと声をあげ、また手を伸ばす。その繰りかえしが、いつまでも飽きないものらしかった。与一が跳ね上げた一枚の戸が、座敷の奥のその子のところまで、外の夏をはこんできているのだった。あの童女にとって、夏とはきっと、簾の上をすべるあの光のことだったろう。
戸を上げ、簾を垂らし、几帳をずらす。与一はその按配を、刻々とうつる日の高さに合わせて、ひと日じゅうこまめに直しつづけていた。暑ければ開け、雨が吹きこめば下の半分だけ立て、客が来れば内を隠し、夕風が立てば奥まで通す。にわかに雨つぶが廂を打てば、走っていって風上の一枚だけを下ろし、雨脚がゆるめばまた上げた。一枚の窓がなんでもこなす世とちがって、ここでは人の手が、光と風を一日じゅう按配していたのだ。
「めんどうではないか」と、われは正直に聞いてみた。これだけの手間だ。与一は、めずらしく少し笑った。
「日の高さも、風の向きも、毎日ちがう。それに合わせて戸を按配するのが、おもしろいのさ」
手間こそが暮らしの楽しみなのだ、という言いぶりだった。重い格子を上げ下ろしする毎日を、与一は労役とは思っていない。今日の風はどこから来るか、いつ日が廂をまわるか。それを読んで戸を按配することが、この無口な男の、ひそかな手すさびなのだった。空の色を見、葉のそよぎを見て、与一は夕立が来るかどうかまで、たいてい言いあてた。
夕暮れ、われが直した戸を、与一は一枚ずつ下ろしてまわった。鉤をはずし、軽く支えて、そうっと立てる。跳ね上げるときの威勢とはちがう、いたわるような手つきだった。下ろすとき框がことりと鳴って、鉤の跡へぴたりと収まる。直す前のような、引っかかる手ごたえはもうなかった。一枚下りるごとに、座敷の明かりがひと間ずつ減ってゆき、昼のあいだ通っていた風も、ゆっくりとせきとめられていった。最後の一枚を立てると、屋敷はしんと暗くなり、外の入相の鐘が、板ごしにこもって聞こえた。
「直してくれて、たすかった」と、与一は頭を下げた。「これで、また明日も上がる」
また明日も上がる。その言いかたに、明日も家を起こしてやれる、という、ささやかな張りがにじんでいた。
◇ ◇ ◇
蔀戸は、それからも長いこと、家のおもてに立ちつづけた。
寺の堂にも、町屋のみせさきにも、跳ね上げて鉤に掛ける格子の戸が、かたちを変えながら受け継がれていったと聞く。みせの蔀を跳ね上げれば、そこがそのまま商いの店になった。光と風を、ほしいだけ手で按配するという心は、そうして、貴族の屋敷から、町の暮らしへと下りていったのだろう。
今では、窓の一枚が、光も風も雨も、ひとりでこなしてくれる。指ひとつ触れずとも、外の目はさえぎられ、明かりだけが入ってくる。あまりに行きとどいて、誰も、戸を按配したりはしない。
それでも、とボクは思う。日の高さを読み、風の向きを読んで、戸を上げ、簾を垂らし、几帳をずらす——あの、ひと日じゅう光と風を手で迎えていた手間のなかには、外の天気とともに暮らす、という心地よさが、たしかに畳み込まれていた。
重い格子を、こつ、と鉤に掛ける。たったそれだけのことを、家を起こすことだと言って、毎朝ひとりで吊りあげていた与一の、あの曲がった腰を、ボクはまだ覚えている。
今日の風がどこから来るか、あなたは、いつ最後に気にしただろう。窓を、ひとつ、手で開けてみるといい。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 蔀戸(しとみど)は、格子の裏に板を張り、上半分を上方へ跳ね上げて鉤で吊り、下半分を立てて用いた建具とされる。平安期の寝殿造の主要な開口部で、光・風・雨・人目を一枚で按配しきれぬため、御簾・几帳と組み合わせて室内環境を調えたと伝わる。のち寺院や町屋の「揚げ見世」にも応用され、上げ下ろしする開口部の系譜を残したという。治安二年は一〇二二年(治安は一〇二一〜一〇二四年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の人物・会話・情景は創作。
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