第 110 話言語歌を人に頼むということ——三十一文字と、紙と枝の日々
〜なぜ、歌を頼む客は、出来より先に、紙と日数を気にしたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
一度に商う紙は、十枚のこともあれば、三十枚を超えることもある。萩の枝を添えて求める客もあれば、松の枝でと言う客もある。届けの使いは、近くならその日のうちに、遠くの家なら三日はかかった。
われは紙と枝の売れ行きばかりを気にしながら、幾年も、西の京の見世に立っていた。
◇ ◇ ◇
万寿四年(一〇二七年)の秋のことだった。われは京は西の京のはずれで、紙と筆をわずかに商う見世を開いていた。商いの相手には位のある家も多く、季節のことづけや祝い事のたびに、歌を添えねばならぬ場が幾度もあった。歌のたしなみは薄く、自分では三十一文字をとても詠めない。そういうときは、隣家の若い女房、しのぶという者に、一筆こしらえてもらえぬかと頼みに行くのが常だった。しのぶは歌の心得があり、頼まれれば厚意で引き受けてくれる人だった。礼といっても、決まった値があるわけではない。干し柿の一籠、染めの糸ひと巻き——そのつど、心づけの品を添えるだけでよかった。
われの見世には、紙と枝を求めに来る客が絶えなかった。売った品と客の名、日付だけを、われは自分の帳面に書き留めていた。萩の枝に薄様、松に厚様、桜の枝に色紙。買っていく組み合わせは、客によってではなく、用向きによっていつも決まっていた。同じ客でも、あるときは萩を、あるときは松を選ぶ。用向きが変われば、選ぶ枝も紙も変わる。それだけの違いだった。反故になった料紙の切れ端が見世の隅に積もり、硯のふちは幾重にも磨り減っていた。庭先の虫の声も、日を追うごとに細くなっていった。
見世を継いだ当初は、われもただ紙を並べ、枝を束ねて売るだけだった。萩を求める客の声は低く、口ごもりがちで、包みを急いで懐にしまう。松を求める客は逆に、声も足取りも大きく、包みを堂々と抱えて帰っていく。並べる品は同じでも、それを求める手つきまでは、われがいくら見ても同じにはならなかった。子を亡くした家の使いが白の無地を求めにきたときは、差し出す布を包む手さえ震えていて、われはそれを受け取るのに、いつもより時をかけた。

その年の秋、われは商いで世話になっている家へ、月見の挨拶がわりの一首を頼みたく、しのぶのもとへ通った。急ぎではないと告げると、十日ほどかけて、ようやく一首が仕上がった。その家へ届ける紙は一等よいものではなく、萩の枝も添えなかった。急がぬ用向きには、それだけの紙と日数で足りる。仕上がりの一首がどう詠まれたかは、われの与り知らぬところにあった。十日後、届いた歌は月見の席で読み上げられ、先方はことのほか喜んだと、あとで聞いた。届けにいった使いの童が、帰りしなに干し柿をひとつ持たされていたのを、われはあとで知った。翌年もまた同じ家から同じ頼みが来て、われは同じように紙を用意し、同じようにしのぶへ通った。取り立てて代わり映えのしない年中行事のようなものだったが、その一年きりのようで、実は毎年続いているというのが、この商いの性分らしかった。庭の萩も、毎年おなじ場所で同じように咲きこぼれ、同じように散っていった。
◇ ◇ ◇
冬に入ってすぐ、隣家の翁が身罷った。弔いの席に持たせる歌も、われはしのぶに頼みに行った。その日、われの見世で求められたのは白の薄様ばかり。枝は結ばずに、そのまま届けるようにと言いつかった。飾らぬ紙、急ぎの届け——それだけで、悼む中身の重さが知れた。祝いの歌には日数をかけ、弔いの歌には日数をかけない。逆ではないのが、われには不思議でならなかった。悲しみに迷う暇を与えぬための急ぎなのだろうかと、後になって思い当たった。翁の家では、通夜の灯りが一晩じゅう消えず、庭先まで焼香の匂いが流れてきていた。
その帰り、しのぶの文机のわきに、書きさしの反故がいつもより多く積まれているのに気づいた。弔いの歌のためではなく、しのぶ自身の用向きらしかった。使いの童が、萩でも松でもない、色づいた楓の枝を携えて出ていくのを、われは見送った。戻ってきた童に、しのぶが「遅くなってすまなんだと、詫びておいで」と言いつけているのが聞こえた。送った文の返事を、幾日も画面越しに待ち続ける——そんな心持ちを、われは遠くに覚えている気がした。それきり、しのぶはその日、それ以上は何も言わなかった。

◇ ◇ ◇
年が明けて、商いの得意先に子が生まれた。祝いの歌もまた、われはしのぶに頼んだ。その家が求めたのは、厚みのある唐紙と、常には使わぬ榊の一枝だった。榊は見世に常には置いていない品で、頼まれて近くの社の下から一枝分けてもらった。届けにいくと、屋敷の門先で赤子の産声が聞こえ、集まった女たちがそれぞれに華やいだ声を上げていた。数えてみれば、その一年でわれの見世を頼りにきた家は、祝いに三度、弔いに二度、季節の挨拶に二度、都合七度にものぼった。
萩なら恋か季節、松なら祝い、白の無地なら弔い、榊なら祝い事のうちでも格の高いもの。日数の長さは、迷いの深さと、そのまま釣り合っていた。急げば急ぐほど紙は選ばれず、時をかけるほど、枝も紙も吟味された。誰にそう教わったわけでもない。積もる紙の束と、擦り減った硯と、書き込まれた客の名と日付を、幾年も見世で眺めているうちに、われはひとりでに、その決まりを読みとれるようになっていた。しのぶの文机のわきの硯も、いつしかわれの見世の品と同じだけ、ふちが磨り減っていた。帳面に並んだ客の名を数えると、同じ家が幾度も名を連ねていることに、われは気づいた。一度きりの用向きより、幾度も歌をやりとりする間柄のほうが、よほど多かった。
歌の贈答は、恋ばかりのものではなかった。季節の挨拶にも、弔いにも、祝いにも、人は同じ作法で三十一文字を贈り合っていた。中身は言わずに、紙と枝と日数に託す。受けた側は、それを読みほどいて、また同じ作法で返す。誰の恋文も、誰の弔いの歌も、同じ帳面の同じ列に、客の名と日付だけを記されて並んでいた。詠み手の腕がどうあれ、帳面のうえでは、みな同じ扱いだった。
われはその後も、事あるごとにしのぶを頼り、紙と枝を商い続けた。頼む用向きは年ごとに変わったが、帳面に書き留める手順だけは、いつも同じだった。品を渡してしまえば、それがどんな一首に化けるかは、こちらの知るところではなかった。
◇ ◇ ◇
けさ、ポストに何日ぶりかで届いた一通の葉書を、われは指先でつまみ上げた。日に炙られた紙は、思いのほか冷たかった。
参考文献・もっと詳しく
※ 平安期の貴族社会では、男女の交渉も社交も、和歌(三十一文字の短歌)の贈答を介して行われたとされる。直接的な言葉を避け、露・袖・月・花などの景物に想いを託す掛詞や縁語の技法が発達し、受け手はその含意を読みほどいて返歌した。返歌の遅速や紙・結ぶ枝の選び方までが意思表示の一部だったと伝わり、こうした「言外に語る」作法は『古今和歌集』以来の歌の伝統に連なるものと言われる。万寿四年は一〇二七年(万寿は一〇二四〜一〇二八年)。本話の人物・会話・情景は創作。
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