祟りだ、と人々は門を閉ざした——疫病を運ぶ「祟る霊」を、祭りに変えて鎮めた都のこと113宗教
宗教平安のころ・京(平安京)読了 約8

祟りだ、と人々は門を閉ざした——疫病を運ぶ「祟る霊」を、祭りに変えて鎮めた都のこと

怖くてたまらないものを、人はなぜ追い払わず、わざわざ祀って迎えたのか

 祭りというのは、要するに、人がいちばん怖いものに、頭を下げる作法のことだ。

 今の暮らしなら、夏になれば祭りがある。提灯がともり、囃子が鳴り、屋台の匂いが路地に満ちる。誰もが浴衣を着て、笑いながら山鉾の列を見送る。あれを、ただの賑わいだと思って眺めている人がほとんどだろう。怖いものなど、もうどこにもないという顔をして。

 けれど、その華やかな囃子のいちばん奥に、ずっと昔の人の、震えるような恐れがしまい込まれている、とボクは思う。流行り病で、隣の家から人が消えていく。昨日まで笑っていた子が、今朝はもう冷たくなっている。なぜ病が来るのか、誰にもわからない。わからないからこそ、人はそれを、目に見えない「誰か」の怒りのせいだと考えた。恨みを呑んで死んだ者が、祟って病をばらまいているのだ、と。

 ボクが見てきたのは、その怖くてたまらない「祟る霊」を、人がどうにか手なずけて、ついには夏のいちばん華やかな祭りに変えていく、そういう都の道のことだ。

◇ ◇ ◇

 天延二年(九七四年)の夏のことだった。われは京の東のはずれ、鴨の河原にほど近い町に、薬草を商う者として暮らしていた。

 その年は、春の終わりから疫病がひどかった。咳をして、熱を出し、体に赤い疱が浮く。そうなると、もう長くはなかった。朝、河原のほうから風が立つと、生ぐさいような、甘く饐えたような匂いが、町の路地までただよってきた。人を焼く煙の匂いだと、誰もが口には出さずに知っていた。

 町は日に日に静かになっていった。表戸を固く閉ざし、軒に注連を張りめぐらせ、門口に塩を盛って、人は外を歩くことさえ恐れた。子を抱いた母が、すれ違いざまに袖で口を覆い、足早に逃げていく。井戸端で水を汲む音さえ、いつもより遠慮がちだった。われの店にも、薬を求める人がひきもきらず来た。乾した葛の根を擂り、桔梗の根を刻み、匙で量って包む。指の腹に薬草の苦い匂いが染みついて、夜になっても取れない。けれど、根の薬草で散らせる病ではないことは、われ自身がいちばんよく知っていた。熱に浮かされた目をのぞき込むたび、われにできるのは、せいぜい喉の渇きをやわらげる湯を教えることくらいだった。

 路地のいちばん奥に、すえ、という名の老婆が住んでいた。ひとりで機を織って暮らす、寡黙な人だった。早くに娘夫婦を亡くし、残された幼い孫娘を、ただひとりの拠りどころとして育てていた。すえの家の戸口を通ると、いつもなら、とんとん、と杼を打つ乾いた音が、絶え間なく聞こえてくる。その音に合わせて、低くくぐもった唄を口ずさんでいることもあった。誰に聞かせるでもない、機を織る手の調子をとるためだけの唄だ。その音も唄も、ここ幾日かは、ぱたりと止んでいた。孫娘が熱を出して臥せっていると聞いて、われは煎じた薬を持って訪ねた。

 暗い土間に、すえは膝を抱えて座っていた。手燭の灯が、皺の刻まれた顔を頼りなく照らしている。隅には織りかけの機が、糸を張ったまま置き去りにされていた。奥の薄縁に、小さな影が、苦しげに息をしているのが見えた。近づくと、汗と熱のこもった、こもったような匂いがした。額に手をやれば、燃えるように熱い。乾いた唇が、何か言いたげに動いては、また閉じる。すえは、その熱を移してほしいとでもいうように、痩せた手で孫の手を握りしめていた。節くれだった指が、小さな指に、痛いほど食い込んでいた。

 「薬は、もういいよ」と、すえは首を振った。低く、掠れた声だった。「これは、祟りだもの。薬で散るものじゃない」

 祟り、という言葉を、すえは恐ろしげに、けれど妙に確信をこめて口にした。ずっと昔、無実の罪を着せられて都を追われ、遠い国で恨みを呑んで死んだ人がいる。その人の霊が、いま都に戻ってきて、病をまき散らしているのだ——町の者は皆、そう囁き合っていた。井戸端でも、寺の門前でも、声をひそめて、同じ名が囁かれた。

 われは、その囁きを否といえなかった。病の正体がわからぬのは、われも同じだったからだ。手燭の灯がゆれるたび、土間の隅の闇が、生きもののようにふくらんで見えた。

◇ ◇ ◇

 その夏の盛り、都が大きな祭りを催すという話が、町を駆けめぐった。

 恐れている「祟る霊」を、追い払うのではない。むしろ、ひとつ所へ丁重に招き迎えて、楽の音と舞と供物でもてなし、機嫌をとって鎮めるのだという。神泉苑という、帝の庭であった広い苑が、その場に選ばれた。怒れる霊を、客人として遇する。怖いものに、ごちそうを並べて頭を下げる——それが、人の考えついた手立てだった。

 祭りの日、苑のまわりは、おびただしい人で埋まった。表戸を閉ざして震えていたはずの人々が、この日ばかりは、おそるおそる外へ出てきていた。霊を鎮める場に、自分も立ち会いたい。そうすれば、わが家にも祟りが及ぶまい——皆、すがるような顔をしていた。痩せた肩をぶつけ合い、汗の匂いをまといながら、誰もが苑の塀のほうへ、塀のほうへと寄っていく。

 苑のなかでは、僧が経を誦し、楽人が笛と鼓を奏で、舞人が袖をひるがえした。低くうねる読経に、笛の澄んだ音が乗り、鼓の音が腹の底まで響いてくる。鉾を高々と立て、幣を捧げ、霊の名を呼んで、ねんごろに供物をささげる。怒りを鎮めたまえ、もう祟りたもうな、と。香の煙が、夏の重い空気のなかを、ゆっくりと立ちのぼっていった。華やかな楽の音の底に、人々の張りつめた祈りが、痛いほどに満ちていた。

 供物の膳は、目を瞠るほどに豪勢だった。山海のものが、これでもかと積まれている。色とりどりの果物、白い餅、海の魚まで、飢えた年とはとても思えぬほどに。こんな年に、これほどのものを、人ではなく目に見えぬ霊のために並べるのだ。膳の前では、白髪の老人が、痩せた手を合わせて何ごとか唱えていた。子をなくしたばかりなのだろう、声を殺して肩をふるわせている女もいた。それを惜しむ声は、ひとつも上がらなかった。怖いものほど、いちばん良いものでもてなす。けちって機嫌を損ねでもしたら、それこそ命にかかわる。祈る人々の顔は、必死だった。笑っている者など、ひとりもいなかった。

 われは人混みの端に、すえと、ようやく床を上げたばかりの孫娘の手を引いて立っていた。痩せた娘は、まだ足もとが頼りなかったが、はじめて見る舞と楽に、大きな目をみはっていた。舞人の袖がひるがえるたび、娘の頭が、それを追ってゆっくりと動いた。

 「ばば、こわい霊が、笛で、おとなしくなるの」と、娘がたどたどしく聞いた。

 すえは、しばらく黙っていた。それから、しわがれた声で、ぽつりと言った。

 「……怒っている者にはね、追い払うより、ごちそうを出すほうが、よく効くんだよ。人も、霊も、おなじさ」

 その言いかたに、われは、はっとさせられた。怖いものを、力で退けようとするのではない。怖いものほど、丁重に迎えて、もてなして、なだめる。すえの孫娘の手のぬくもりが、ようやく戻ってきたのを、われは横で感じていた。さっきまで握っていた手は、もう熱くはなかった。病が引いたのが祭りのおかげかどうか、それはわからない。わからないけれど、震えて戸を閉ざしているだけだった人々が、こうして外へ出て、ともに祈り、ともに楽の音を聞いている。それだけで、町に、息を吹き返したような気配がたしかにあった。

 怖さを、皆で分け合うために、人は祭りを編み出したのかもしれない。ひとりで戸の奥に震えているより、大勢で頭を下げるほうが、よほど心強い。供物を並べ、囃子を鳴らすあいだだけ、人は恐れと、どうにか折り合いをつけていられた。帰り道、孫娘はすっかり楽の音に夢中で、口をすぼめて笛の真似をしながら、すえの手を引いて歩いた。その小さな足どりを見ているだけで、町じゅうの人が、少しずつ顔をやわらげていくのがわかった。河原のほうから吹いてくる風にも、もう、あの饐えた匂いは混じっていないような気がした。

◇ ◇ ◇

 怒れる霊を、追わずに祀って鎮める。この夏の祭りの作法は、それから長い年月をかけて、都の暮らしに深く根を張っていった。

 はじめは病が流行るたびに臨時に営まれていたものが、やがて毎年きまった夏のならわしとなり、町の衆が鉾を立て、山を組み、囃子を鳴らして、霊を送るようになる。後の世の人が、夏のいちばん華やかな祭りとして親しむようになったあの祇園の祭りも、もとをたどれば、この「祟るものを祀って鎮める」という、震えるような祈りから始まったのだと伝わる。

 今では、夏の祭りは、ただ楽しい。提灯がともり、囃子が鳴り、誰もが笑って山鉾を見送る。怖いものを鎮めているのだと、もう誰も思わない。

 それでも、と思う。あの華やかな囃子の底には、戸を閉ざして震えていた人々が、それでも外へ出て、怖いものに頭を下げ、皆でともに祈った、あの夏の心細さが、たしかにまだ畳み込まれている。

 怖いものを、追い払うのではなく、丁重に迎えて、もてなして、なだめる。そういう作法を、人はずいぶん昔に編み出した。提灯の灯る宵に、もし囃子の音を遠く聞くことがあったら、その奥にしまわれた古い祈りのことを、ほんの少しだけ思ってやってほしい。

 手燭の灯のもとで、孫娘の手を握りしめていたすえの、あの祈るような横顔を、ボクはまだ覚えている。

参考文献・もっと詳しく

御霊会(ごりょうえ)は、疫病や災厄を、恨みを呑んで死んだ者の祟りとみなし、その霊を丁重に祀り、経・楽・舞・供物でもてなして鎮めようとした祭祀とされる。貞観五年(八六三年)に神泉苑で営まれた御霊会が記録に残る早い例と伝わり、この「祟るものを追わずに祀り鎮める」発想が、のちの祇園御霊会(祇園祭)の源流のひとつになったといわれる。天延二年は九七四年(天延は九七三〜九七六年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。当時、京では疫病がたびたび流行したと伝わるが、本話の人物・会話・情景は創作。

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