第 112 話宗教柳に紙を結び、火を落として、なお人を思う——凶を避けて身を慎んだ「物忌み」のこと
〜なぜ人は、何ごともない日に、わざわざ門を閉じて息をひそめたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
柳の枝に結んだ、紙切れが一枚。それだけで、隣近所の誰も、その家の戸を叩かなくなる。字は、物忌み。その一枚が、家の内と外を、はっきりと分けていた。
ボクは、その一枚を自分の手で結び、門を閉じ、火を落として、一日を仕切ったことがある。
◇ ◇ ◇
長元二年(一〇二九年)の春、京の東洞院のあたりで、その日は明け方からどこか落ち着かない気配に包まれていた。
庭の隅には、ようやく芽吹いたばかりの柳が一本あって、朝の光に若い葉先を光らせている。土のにおいと、隣の家で焚く朝餉の煙のにおいが、まだ冷たい空気に混じっていた。そんな、いつもと変わらぬはずの朝だった。
仕えていた古参の刀自のつねが、うなされる声で目を覚ましたのだ。歯が音を立てて抜け落ちる夢を見た、という。つねは布団の上に起き直ったまま、しばらく口をつぐんでいた。この家に仕えて四十年近く、つねがこれまで物忌みを言い出したのは、われの知るだけで六度。それだけの重みを持つ夢だということが、その沈黙で知れた。
「今日は、物忌みにします」
声はしっかりしていたが、身を起こしかけたところで、つねは軽くよろけた。近ごろ膝が悪く、長く座るのもままならない。床につきながら、つねはわれに顎で指図した。門を閉じよ、札を結べ、火を落とせ——言葉は、それだけだった。
この家に来てから、われは幾つの物忌みを見てきただろう。最初の一度は、ただ突っ立っていただけだった。二度目は、水を運ぶことしかできなかった。三度目、ようやく札の結び方を教えられた。そして六度目のあとの、七度目——今日は、初めてすべてを託される日になる。
われは、これまで幾度となく、つねの手もとを見てきた。細い柳の枝を選ぶこと。墨を磨るときは急がぬこと。「物忌」の字は、こまかく整えるより、いくらか乱れているくらいがよいこと——凶事を祓う字は、美しく書きすぎると験が薄れるのだと、つねが指先で示したことがあった。
筆を執るのは、初めてだった。いつもは、つねの手もとを覗きこむだけだった。立て札、いや——ここでは物忌みの札、と呼ぶのだったな。ひと呼吸置いて、われはそう思い直し、筆を紙に下ろした。
書いた札を柳の細枝に挟み、門の内側に結ぶ。重い扉を閉じると、鈍い音とともに、外の通りと家のあいだに、見えない境目がひとつ引かれた。竈の火も落とす。燃えさかる薪を一本抜き、灰をそっとかぶせて、炎を熾火のほうへ沈める。薪の弾ける音がしだいに小さくなり、灰をかぶった熾火は、赤い芯だけを残して、静かに息をひそめていった。煮炊きの煙を、外に見せぬためだという。

つねの枕もとには、細い藁縄が下がっていて、結び目が並んでいた。古い結び目は色が黒ずみ、新しいものほど白く硬い。年月の差が、指先の感触にそのまま残っていた。物忌みのたびに、ひとつずつ増やしてきたのだという。今日でいくつ目になるのか、われは指を這わせて数えた。六つ目だった。四十年で、まだ六度。
昼の膳も、われが用意した。あり合わせの冷たいものですませる。塩でしめた菜と、冷えた飯だけ。湯気の立たぬ膳は、それだけで、家のなかの物言いまで静かにする。つねの分は、粥にゆるく仕立てて、枕もとまで運んだ。
その日、家のなかは水を打ったように静まっていた。針も持たず、文も書かず、声高に笑うこともない。座敷には、光だけが刻々と畳の目を移ろっていく。日の傾きだけが、時を計る術だった。刻限を告げる鐘の音も、この日ばかりは、やけに遠く聞こえた。われは座敷の隅で、竹ひごを削っては丸めるだけの、目的のない手仕事に時を溶かした。外の通りを、物売りの声や、牛車の音が遠く流れていくが、家のなかだけが、その音から切り離されたように静かだった。その静けさのなかで、われはふと、自分ひとりだけが、この一日の外側にいるような心もとなさを覚えた。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎたころ、門のそとが、にわかに騒がしくなった。
近くに住むよねという女が、子を背負って、必死に戸を叩いていた。子はぐったりと熱に浮かされ、頬だけが赤い。背負われていた子は、まだ三つになったばかりだという。物忌みの札を見て、よねも一度は足を止めたようだったが、背の子の重みが、女を押し出したのだろう。よねの声は震えていた。「この子が、この子が」と、それだけを繰りかえす。戸板一枚を隔てて、子のかすかな泣き声も、途切れ途切れに届いていた。
戸を開けるべきか。開ければ、つねが四十年守ってきた慎みが、われの代で崩れる。けれど、目の前で子が弱っている。
つねは奥で伏せったまま、動けずにいた。決めるのは、われしかいなかった。
われは、戸は開けなかった。かわりに、戸に額を寄せ、声を張った。手のひらに、汗がにじむのを感じていた。

「よねどの、戸は開けられぬ。だが、薬湯のことなら、教えられる」
葛の根をどれほど刻み、水はどれほど、煮立ててからどれだけ火を弱めるか。この家でつねが幾度となく調じるのを、われは見てきた。教わったことは、一度もない。だが、見ていれば、指の動きも、水の加減も、いつのまにか身についていた。
葛の根を、親指の先ほどに三つ。水は椀に八分目。煮立ったら、火を細くして、なお百を数えるほど煮詰めること。額には、井戸水でしぼった布をあて、ぬるんだらすぐに替えること。白湯は匙で少しずつ、口を湿らせるように含ませること。声を張りながら、われの手は、覚えた数を辿るように、無意識に指を折っていた。三つ、八分目、百。
戸の外で、よねがそれを繰りかえして覚えている。「葛の根を三つ……煮立ったら、火を細く……」。たどたどしく復唱する声が、薄い戸板をはさんで、しばらく行き来した。
日が暮れて、よねがもう一度、門の外まで来た。熱が下がった、子は寝入った、という知らせだった。子はもう赤い頬ではなく、寝息だけを立てているという。戸ごしの礼を述べる声には、安堵より先に、驚きがにじんでいた。戸ごしに教えられただけで、子が助かるとは思っていなかったのだろう。声の震えが、そのまま驚きの深さを伝えていた。
奥で、つねが目を覚ましていた。われが今日のことを伝えると、つねは何も言わず、枕もとの藁縄に手を伸ばし、結び目をひとつ、指先で確かめてから、もうひとつ、新しい結び目を足した。七つ目だった。
その晩、われは自分の手で灯を落とした。油皿の炎をつまんで消すと、燃え残った灯心の焦げるにおいが、つんと鼻先に立った。熾火にした竈からも、燻るような匂いがうっすらと漂っている。
明けて翌朝、つねはゆうべは何の夢も見なかった、と言った。歯の抜ける夢の不安は、一日の慎みのなかに、すでに消えていた。札を解き、門を開け放つと、久しぶりの風が座敷を吹き抜けた。つねは大きく息を吸い込み、しばらく目を閉じていた。竈の火を熾しなおすと、家に、ふだんの光と煙が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
つねの藁縄には、いま結び目が七つ、並んでいる。四十年で七度。物忌みは、そうそう毎年あるものではなかったということだ。四十年のあいだで、つねが慎んだ日は、この七日だけだったということになる。
あの家を出るとき、ボクはつねに、縄を譲ってくれと頼んだ。だが断られた。これは、この家に置いていくものだから、と。だから今も、あの縄がどこでどうなっているかを、ボクは知らない。その後いくつ結び目が増えたのかも。
その後も、いくつかの家で、似たような藁縄を見かけたことがある。だが、指先で結び目を確かめるあの仕草を、つね以外にした者を、ボクは知らない。
ただ、灯心の焦げる、あのつんとした匂いだけは、今でも鼻の奥に残っている。門を閉じ、声だけを戸の向こうへ渡した、あの長元二年の一日のにおいだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 物忌み(ものいみ)は、夢の凶兆や暦・陰陽道の禁忌にもとづいて、一定の日に外出や来客を避け、門を閉ざして身を慎んだ平安時代の習俗とされる。簾や冠などに「物忌」と記した札(柳の小枝に挟むなどした)を下げて他者に慎みを知らせたと伝わり、『御堂関白記』『小右記』など当時の日記にも、物忌みのために参内や対面を断った記述が数多く見えるという。物忌みの記録は主に貴族社会のものだが、身分に関わらず広く行われた風習と考えられ、本話では古参の女房が仕切る家に置き換えて描いた。長元二年は一〇二九年(長元は一〇二八〜一〇三七年)。東洞院は平安京の南北の通りの名として用いた。本話の人物・会話・情景は創作。
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