第 133 話道具二人がかりで挽く大きな鋸が、丸太から薄い板を何枚も挽き出すようになった日のこと
〜山あいの杣で、年老いた木挽きは、楔を打つ手を止めて、なぜ若い二人組の鋸を黙って見つめていたのか〜
板というのは、平たくて薄い、一枚の木だ。
考えてみれば、暮らしのまわりは板だらけさ。足の下に張られた床も、部屋を仕切る戸も、物をのせる棚も、衣を納める箱も、もとをただせば一枚の板からできている。当たり前にそこにあって、だれも板そのものを見はしない。けれど、その平たい一枚を丸太から取り出すのが、どれほどの難儀だったか、今の人はもう知らないだろう。
昔は、丸太に楔を打ち込み、木の目にそって力ずくで割った。割れた面は波打ち、厚みもまちまちで、手斧で削ってどうにか平らにする。一本の太い丸太から取れる板は、せいぜい数枚。あとは削りくずと割れ損じになって捨てられた。板はだから、ひどく値の張る、ぜいたくな品だった。
ボクが見てきたのは、二人がかりで一挺の大きな鋸を挽き、その同じ丸太から、薄い板を何枚も何枚も挽き出せるようになった、その移り変わりだ。板が安くなり、家の構えも、家具のかたちも、まるごと変わっていった、そのあたりのことさ。
◇ ◇ ◇
長享二年(一四八八年)の秋のことだ。おれは近江の山あいの杣で、木挽きの下働きをしていた。
谷あいの杣には、朝はまだ霧が腰のあたりまでたまっていて、伐り口の生木が甘く青くさい匂いを立てた。足もとには木っ端と削りくずが厚く敷き積もり、踏むたびにふかりと沈む。日が高くのぼると、斜面のあちこちで斧の音が谺して、どこからともなく松脂のにおいが流れてきた。
その杣を仕切っていたのは、伝助という年老いた木挽きだった。腕も目も確かな男で、丸太の木肌に手のひらをあて、木目の走りをひと撫でしただけで、楔をどこへ打てばどう割れるかを言い当てた。打ち込む槌の音を聞きながら耳をすませ、木の内へ響く音の濁りで、節のありかまで読んだ。おれは伝助のもとで、割った板の面を手斧で削り、まっすぐ平らにする役をあてがわれていた。波打つ割れ面に刃をあて、薄く薄く削いではかんなくずを散らす。骨の折れる仕事で、肩も腕もすぐに張った。一日かけて削っても、まともな板は幾枚も取れやしない。
その秋、麓の寺が古びた堂を建て直すというので、大量の板が入用になった。伝助は腕を組んで、これは冬までかかる、と渋い顔をした。楔で割り、手斧で削るやり方では、それだけの板はとても間に合わなかった。霜が来れば木も荒れる。日も短くなっていく。伝助は曇った空を見上げて、ひとつ、太いため息をついた。
そこへ、京のほうから来たという、二人組の若い木挽きが雇われてきた。背に荷を負い、菅笠の縁から汗を光らせて、谷を登ってきた。彼らが背負ってきたのは、見たこともない、大きな鋸だった。布を解くと、長い鉄の刃が、秋の日をはじいて鈍く光った。
おれの知る鋸は、片手で挽く小ぶりなものばかりだ。ところが彼らの鋸は、丈が背丈ほどもあり、両の端に取っ手がついている。歯は荒く、一つひとつが指の先ほどもあって、ぎらりと尖っていた。一人では、とても扱えぬ代物だった。
「大鋸というものさ」と、若い片割れが笑った。日に焼けた、人なつこい顔だった。「二人で挽く。木の目を断ち切って、まっすぐに挽き割るのよ」
◇ ◇ ◇
彼らは太い丸太を高い台に据え、ぐらつかぬように楔をかい、縄でしっかと縛りつけた。それから墨壺の糸を引き出し、丸太の端から端へ、ぴんと張っては指ではじく。糸が木肌をぴしりと打って、表に幾本もの黒い線が走った。等しい間をおいた、まっすぐな線だ。墨の匂いがかすかに立った。木挽きは線のひとつへ顔を寄せ、目を細めて、ゆがみがないかをたしかめた。そうして二人が丸太をはさんで向き合い、足を踏んばって、大鋸の取っ手を握った。
一人が引けば、一人が送る。引いては送り、送っては引く。鋸の歯が、木の目を縦に断ち割っていく。しゃっ、しゃっ、と乾いた音が、杣じゅうに鳴りひびいた。挽くたびに、白い鋸くずが雪のように足もとへ降り積もっていく。二人の額には汗が浮き、吐く息が、谷の冷えた空気に白くたなびいた。生木の断たれていく匂いが、あたりに満ちた。
おれは、息をのんで見ていた。楔で割った面は波打つのに、鋸で挽いた面は、墨の線そのままに、まっすぐ平らなのだ。挽き割られた板の片側に指を這わせると、すべすべと吸いついて、ささくれひとつ立たない。鼻を近づければ、断たれたばかりの白い木肌が、しっとりと冷たい香を立てた。手斧でいちいち削る手間が、まるごといらない。おれが幾日も肩を張って削ってきたものを、この鋸はただ挽くだけで生み出してしまう。
しかも、だ。一本の丸太から、薄い板が、つぎつぎと挽き出されていく。一枚、二枚、三枚——楔で割れば数枚で割れ尽きた同じ丸太から、その倍も、三倍もの板が取れた。薄く、均しく、削りくずもわずかしか出ない。楔で割れば、木の気まぐれな目に引きずられて、惜しい丸太が幾本も割れ損じになったものだ。それがこの鋸では、太い木の腹をまっすぐ断って、目のうねりなどおかまいなしに、欲しいだけの厚みで板を取っていく。挽き終えた板を一枚持ち上げてみると、おどろくほど軽く、日に透かせば木目がやわらかく浮いた。
日が暮れて、谷あいに夕霧が降りてくるころには、若い二人の足もとに、おれが幾日もかけて削るより多い板が、ひと束、ふた束と、きちんと積み上がっていた。二人は腰を伸ばし、手のひらの汗をぬぐって、なんでもないことのように笑っていた。
おれは、伝助のほうをそっとうかがった。長年、楔と手斧で生きてきた老いた木挽きが、この若い者らの鋸を見て、なんと言うだろうと思ったのだ。
伝助は、楔を握ったまま、ひとことも発さなかった。節くれだった指が、その柄をきつく握りしめていた。ただ、降り積もる鋸くずと、まっすぐに挽かれた板の面を、食い入るように見つめていた。やがて、ぽつりと言った。
「……おれの削ってきた一生は、なんだったのかのう」
寂しげな声だった。けれどそのあとで、伝助はしばらく板の面を撫でてから、ふっと表情をやわらげて、こう続けたのさ。
「いや。これだけ薄い板が、安う取れるとなりゃあ……これから建つ家は、ずいぶんと変わるぞ」
その晩、若い二人組は、囲炉裏端で大鋸の歯を一本ずつ目立てしていた。赤い火明かりに刃をかざし、歯の一つひとつに、こまかな鑢をあてては傾きをととのえていく。しゃり、しゃり、と細い音がした。歯がひとつでも狂えば挽き目が曲がり、刃が木に食われて止まるのだと、片割れが教えてくれた。鋸を挽くのは半分、こうして歯を生かしておくのが半分よ、とね。おれが脇からのぞきこむと、片割れが、握ってみるかと取っ手を寄こした。柄は手の脂を吸って、しっとりと黒光りしていた。
翌朝、おれは試しに、その大鋸の片方を握らせてもらった。向かいに立った若い木挽きが、引くぞ、と声をかける。ところが、これがまるで思うようにいかない。相手が引く拍子に、おれがうまく送れず、鋸の歯が木の目に食い込んで、ぴたりと止まってしまう。力まかせに動かそうとすれば、歯がしなって、ぎりりと鳴り、墨の線から外れていく。たちまち手のひらに豆ができ、汗が目にしみた。
「力で挽くんじゃねえ」と、向かいの男が笑った。「相手が引くときは、こっちは送るだけ。息を合わせるのよ。二人で一挺、二人で一枚の板を挽くんだ」
言われたとおり、おれは肩の力を抜いた。相手が引けば、おれはただ刃を送り、軽く支えてやる。引いては送り、送っては引く。おれが相手の呼吸をつかみ、相手がおれの手を待つ。たがいの動きがそろってはじめて、鋸はすうっと木に沈み、まっすぐな板が挽けていく。歯が木を噛む手ごたえが、取っ手をにぎる手のひらに、とくとくと伝わってきた。さっきまでびくとも動かなかった刃が、いまは生きもののように、おのれから木のなかへ進んでいく。一人では、この大鋸はびくとも動かぬ。二人の息が一つになって、はじめて一枚の薄い板が生まれるのだと、おれは握った取っ手の重みで知った。
◇ ◇ ◇
はたして、伝助の言ったとおりになった。
その秋に挽いた板は、束にして麓の寺へ運ばれた。番匠たちが待ちかまえていて、薄く均しいその板を見るなり、声をあげて喜んだ。これだけ揃った板があれば、と棟梁が言った。仕事の運びがまるで違う、とね。これまでなら冬までかかると見ていた堂が、これなら秋のうちに屋根をのせられる、と相好をくずした。削ってかたちを取る手間が省けるぶん、彼らはそのぶんを、組み手の細工や、見栄えの造作にまわせるようになっていた。
薄くて均しい板が安く出回るようになると、家の構えそのものが変わっていった。それまで厚ぼったい板を惜しみ惜しみ使っていた壁や戸が、薄い板戸になり、軽く開け閉てできる引き戸になった。床には一面に板が張られ、棚がしつらえられ、違い棚のような凝った造作まで生まれた。寺の堂は、おれの見ているあいだに、見ちがえるほど明るく、軽やかになっていった。
家のなかの道具も同じだ。薄い板で組まれた箱や櫃、棚や台が、安く作れるようになる。それまで刳り抜きや割り板で重たく拵えていた物が、薄板を組み合わせた、軽くて使いよいものに移り変わっていった。たった一挺の鋸が、家のかたちも、そこに置かれる道具のかたちも、静かに作り変えていったのさ。
今では、丸太は機械の刃で挽かれ、薄い板はいくらでも手に入る。板はもう、ぜいたくな品でもなんでもない。ありふれて、安くて、だれも一枚一枚に目を留めはしない。
それでも、とボクは思う。
どこかで、一枚の板を手に取ることがあったら、その平らな面を、ちょっとだけ撫でてみてほしい。この一枚を取り出すために、かつては丸太に楔を打ち、汗みずくで手斧を振るった者がいた。やがて二人で大きな鋸を挽き、しゃっ、しゃっと木の目を断ち割って、薄い板を何枚も挽き出すようになった者がいた。
板は、ただ平らで薄いだけの、一枚の木だ。けれどその一枚には、それを取り出す工夫に明け暮れ、家のかたちまで変えていった者たちの、長い長い手の跡が刻まれている。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 丸太から板を得るのは、もとは楔を打ち込んで木の目にそって割る「打ち割り」によったが、この方法では取れる板の数も少なく、面も平らになりにくかったとされる。中世に二人で挽く「大鋸(おが)」が広まり、のちに一人挽きの前挽き大鋸へと改良されると、木の目を断ち切って薄く均しい板を多く挽き割れるようになり、板が安く出回って住まいや家具のかたちが大きく変わっていったと伝わる。長享二年は一四八八年(長享は一四八七〜一四八九年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。
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