桜の下に、身分はなかった
〜なぜその老人は、毛氈の上で、声を上げて泣き笑いしたのか〜
春になると、みんな判で押したように、同じことをする。
桜の木の下に、敷物を広げ、重箱をならべ、酒を酌みかわし、わいわいと騒ぐ。花見、というやつだね。会社のひとも、近所のひとも、家族づれも。桜が咲けば、その下で飲んで、食って、笑う。あんまり当たり前すぎて、誰も不思議には思わない。
けれど、ボクは知っている。
「桜の下で、身分の上下も忘れて、誰もが好きにどんちゃん騒ぎをしてよい」——そんなことが、ゆるされるようになったのは、この国の長い歴史の中で、そう、古いことじゃないんだ。
そもそも、花見というのは、もとは、たいそう高貴な遊びだった。むかしむかしの、都の貴族たちが桜を眺めながら、歌を詠み、雅な酒宴をひらく。それが、花見のはじまりだ。庶民が弁当をかついで、桜の木に登ったり、その下で寝ころんだりするなんて——とんでもない、罰当たりな話だったのさ。
(ついでに言うと、もっと昔は、「花」といえば、桜じゃなく、梅のことだった。桜が「花」の代表の座を奪うのは、ずっと後のことだ。……まあ、これはまた別の話)
それが、どうして、こんな誰でもの遊びになったのか。
きっかけは、お上だ。江戸に八代目の将軍さまがいてね。このお方が、江戸のあちこちに——飛鳥山だの、隅田の堤だのに——どっさり桜を植えさせた。そうして、「ここは、誰が来て、騒いでも、かまわぬ」と、庶民に開け放った。享保のころの話、と聞いている。
なんでも、お堅い世の中で、息のつまった町人どもに、せめて春くらいは、羽をのばさせてやろう、という思し召しだったとか。いや、大勢に踏ませて、堤を踏み固める腹づもりだったとも言う。ほんとうのところは、ボクにもわからない。
ただ、その「お情け」が、どんな大ごとを生み出したか。——あっしは、その飛鳥山で、この目で、見たんだ。
◇ ◇ ◇
享保十七年(一七三二年)の春。その日の飛鳥山は、まるで桜の雲が地に降りてきたようだった。
——江戸で、安物の小間物を商っていた頃のボクは自分を「あっし」と呼んでいた。
見わたすかぎり、桜、桜、桜。その下に、いったい何百枚の敷物が広げられていたろう。あちこちに、花見幕が張りめぐらされ、枝から枝へ、脱いだ小袖を渡して屏風がわりにしている連中もいる。重箱の蓋を開ければ、玉子焼きやら、かまぼこやら、煮しめやら。あちこちで、ぽん、ぽんと、徳利の栓を抜く音。三味線。手拍子。子どものはしゃぐ声。
驚いたのは、その客の顔ぶれだ。
羽振りのよさそうな商家の旦那衆もいれば、すすけた半纏の棒手振りの一群もいる。腰に刀を差したお侍の姿も、ちらほら。それが、みんなおなじ桜の下で、おなじように赤い顔をして、笑っているのだ。上野の山では、こうはいかない。あすこは、お寺の御山だから、鳴り物は遠慮、夜桜も遠慮、お行儀よく、しずしずと眺めるばかり。けれど、ここ飛鳥山は、無礼講。歌おうが、踊ろうが、化けようが、お構いなし。
げんに、すこし先の毛氈では、若い衆が女の着物をひっかぶって、おかめの面をつけ、ひょっとこ踊りで、仲間を笑い転げさせていた。「にわか」だ。その場の思いつきの寸劇である。あっしも、つい足をとめて、げらげら、笑ってしまった。
その笑いの輪の、はしっこに。
ひとり、ずいぶん年老いた爺さまが座っていた。孫娘らしい、小さな女の子に手を引かれて来たらしい。爺さまは、にわかを見ても、桜を見ても、ただ、ぼうっと、口を半分あけて、あたりを見まわしている。
その目から、つうっと、涙がこぼれた。
「じいちゃん、どうしたの」と、孫娘が心配そうに、顔をのぞきこむ。
爺さまはしわくちゃの手で、涙をぬぐうと、かすれた声で、笑った。
「いや、なに……あんまり、ありがたくてな」
あっしは、つい近くにいたもので、その爺さまに、徳利を差し向けた。「ご老人、一杯、いかがで。花見に、涙は似合いませんぜ」
爺さまはこくり、と猪口を受けて、ひとくち、すすると、しみじみと、語りだした。
「わしがな、おまえさんくらいの、若い時分にゃあ……桜ってのは、お武家か、よほどの大店のお庭で、こっそり眺めるもんだった。わしらのような、その日暮らしの者が、こうして、おおっぴらに、桜の下で、酒を飲んで、踊って……そんなこと、夢にも、思わなんだ」
爺さまは、満開の枝を見上げた。
「それがどうだ。今は、お侍も、棒手振りも、おんなじ木の下で、おんなじ顔して、酔うておる。隣の毛氈の若いのが面なんぞつけて、踊っておる。……ええ世になった。長生きは、するもんじゃのう」
ちょうど、そのとき。
さあっ、と風が吹いて、桜がいっせいに、散った。花びらが、雪のように、敷物の上に、酒の中に、爺さまの白髪の上に、ふりかかる。誰かが「わあっ」と、声をあげた。あちこちで、手がのびる。子どもが花びらを追いかけて、走りまわる。
爺さまはその花の雪を、両手で、そっと、受けとめながら、こんどは、声を出して、笑った。涙をぼろぼろ、こぼしながら。泣いているのか、笑っているのか、わからない顔で。
あっしはその孫娘の小皿に、こっそり、いちばん上等な玉子焼きを、一切れ、足してやった。女の子はきょとんとして、それから、にっこり笑った。
◇ ◇ ◇
いまでは、花見はすっかり、当たり前になった。
春になれば、誰もが当然のような顔で、桜の下に、敷物を広げる。場所取りで、朝からけんかになったりもする。あの爺さまが涙をこぼして、ありがたがった「桜の下の無礼講」を——もう、誰ひとり、ありがたいとは思っちゃいない。
長く生きていると、おかしなものでね。あれほど、とんでもない罰当たりだった遊びがたった何代かのうちに、「あって当たり前」のありふれた春の景色に、なってしまう。ありがたみは薄れる。けれど、それでいい、ともボクは思う。当たり前になったということは、それだけ、深く、根づいたということだ。
毎年、桜がいっせいに散るのを見るたびに。ボクはあの飛鳥山で、花の雪を両手に受けて、泣き笑いしていた、あの爺さまの顔を、ふっと、思い出す。
あの人は、とうにいない。けれど、毎年春になると、この国じゅうの桜の下で、何万、何十万という人が、あの日の爺さまがそうしたように、花の雪を両手で受けて、「ああ、いい日だ」と、目を細めている。爺さまがあの日、しみじみと噛みしめていた、あの歓びだけは——顔ぶれをそっくり入れ替えながら、毎年ちゃんと、また別の誰かの胸に、咲く。
参考文献・もっと詳しく
※ 八代将軍徳川吉宗が江戸近郊(飛鳥山=享保5年〔1720〕頃、隅田川堤=享保2年〔1717〕頃など)に桜を植え庶民に開いたのが庶民花見の大きな契機とされるが、植樹の年・本数・動機(行楽の場/治水のための踏み固め等)には諸説がある。本文は「享保のころ」と幅をもたせ、固有数の断定を避けた。古代に「花」が梅を指したこと、上野(寛永寺境内)が鳴り物等を制限したのに対し飛鳥山・隅田堤が無礼講だったことは、額縁・場面の対比として用いた。「行楽」「公共」等の分析語は額縁の現代ボクのみ。
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