第 119 話文化海を渡ってきた音が、宮の調べになるまで——耳から耳へ手渡された、龍笛のひと息のこと
〜暗がりのなかで、若い笛吹きは、なぜ譜も見ずに、師の息づかいだけを追いつづけたのか〜
音楽というのは、考えてみれば、ふしぎなものだ。
絵なら壁に残る。文字なら紙にとどまる。器なら土の中から、何百年でも掘り出せる。けれど音だけは、鳴ったそばから消えていく。ひと息吹けば、その息はもう空に散って、あとには何も残らない。残らないはずのものが、それでも千年のあいだ、絶えずに鳴りつづけている——雅楽というのは、そういう、めずらしい続きかたをしてきたものだ。
今の暮らしなら、音は箱の中にしまっておける。指でひとつ触れれば、いつでも同じ調べが、寸分たがわず流れ出す。鳴らした人がとうに世を去っていても、その息づかいまでが、そっくり残っている。そういう「とっておける音」を、誰も不思議とは思わない。
けれど、とどめておく術がなかった頃、音を残す入れ物は、人の体しかなかった。耳で覚え、口で吹き、それをまた次の耳へ渡していく。生きた体から体へと、息のまま手渡していくほかに、音を未来へ運ぶ道はなかった。
ボクが見てきたのは、海の向こうから渡ってきた調べが、人の耳をいくつもいくつも経めぐって、この国の宮の音になっていく、そういう受け渡しのことだ。
◇ ◇ ◇
寛仁二年(一〇一八年)の秋のことだった。われは大内裏のかたすみ、楽人らの詰める一棟に、下働きとして雇われていた。
雅楽寮という。海の向こう、唐や高麗から渡ってきた楽の調べを、宮の儀式のために奏でる人々が集まる役所だ。笙、篳篥、琵琶、箏——耳なれぬ名の鳴り物が、朝な夕なに鳴っていた。笙の音は、寒い朝には湿気て鳴りそこねるので、楽人は火桶に近づけて、ふところの子をあたためるように管をあぶる。篳篥はうらぶれた葦の蘆舌を、唇でしめらせては鳴らす。そのどれもが、生きものの世話のような手間を要した。
われの役目は、楽器を拭き、火桶を運び、譜の紙を片づける、それだけのことだったが、おかげで一日じゅう、あの不思議な調べのそばにいられた。漆の塗られた琵琶の胴を絹で撫でると、指の腹に、つるりと冷たい艶が残る。龍笛の管のうちには、息の通った跡か、かすかに甘い樹のにおいがこもっていた。
その詰所に、宗近という若い笛吹きがいた。龍笛を吹く。横にかまえる、節の長い竹の笛だ。まだ十六、七で、楽人としては駆け出しもいいところだった。父も祖父も笛を吹いてきた家の子で、生まれたときから、この音のなかで育ったのだという。指は細く、けれど笛をかまえる左の小指の付け根には、稽古でできたかたい胝があった。
宗近の師は、忠方という、髪も髭も白くなった老いた楽人だった。若い頃には宮の御前で幾度も吹いたという名手で、いまは目がほとんど見えない。冬の薄日のなかで、その瞳はうっすらと白くにごっていた。それでも龍笛をかまえると、背筋がふいに若やいで、その音は、詰所じゅうの誰よりも澄んでいた。掌は節くれだって、爪のかたちまで笛になじみ、管の孔をふさぐ指は、見えぬはずなのに、ただの一度も穴を踏みはずさなかった。
われが不思議だったのは、稽古のやりかただ。
宗近の前には、たしかに譜があった。墨で、点や仮名のようなものが、細かく書きつけてある。けれど忠方は、その譜を、ほとんど見させなかった。
「目で追うな」と老人は言った。「譜は、忘れぬための覚えにすぎぬ。音は、紙には宿らぬのだ」
そうして忠方は、まず自分が吹いてみせる。ひと節、ふた節。息を吸うとき、その薄い胸がしずかにふくらみ、白い眉が、ほんのわずかに持ちあがる。宗近はそれを、ただ耳で聴く。それから、聴いたとおりに吹く。違えば、忠方が首を振り、また吹いてみせる。宗近がまた追う。それの、際限のない繰り返しだった。同じ一節を、朝の鐘から昼の鐘まで、飽きもせず吹いていることもあった。
波の調べだ、という曲があった。「青海波」と忠方は呼んでいた。海の波を、楽にうつしたものだという。けれど譜の上では、ただの点と仮名の連なりにすぎない。その紙のどこをどう眺めても、波の音などは聞こえてこない。
「ここの、息の継ぎようがな」と忠方は、見えぬ目で宙を見ながら言った。節くれた指が、ひとところの孔の上で、宙をなでるように動いた。「ここは、ひと息で抜けてはならぬ。波が、いったん引いて、また満ちる。その、引くところの間を、息で作るのだ。これは、譜には書けぬ」
譜には書けぬ。その言葉を、われは片づけものの手を止めて聞いていた。点と仮名は、たしかに音の高さを示してはいる。けれど、どこで息を継ぐか、どこをためて、どこを撫でるように抜くか——音楽のいのちというべきところは、紙のどこにも書かれていない。それは、ただ忠方の口から宗近の耳へ、生きた息のまま渡すしか、術がなかったのだ。
◇ ◇ ◇
その秋、宗近は壁にぶつかっていた。
「青海波」の、ある一節が、どうしても師のようには鳴らない。音は合っている。高さも、長さも、譜のとおりだ。けれど、忠方が吹くとそこに波が見えるのに、宗近が吹くと、ただ竹の鳴る音にしかならない。乾いて、平たくて、海のにおいがしない。
あせった宗近は、譜にいよいよかじりついた。点の脇に、こまごまと書き足しをした。ここで息、ここでためる、と。覚えを、しるしで埋めようとした。筆をなめては書き、また消しては書き、紙はじきに墨でくろずんだ。けれど書き足せば書き足すほど、その一節は、かえって硬く、ぎこちなくなっていった。肩に力が入り、頬がこわばり、笛をかまえる手まで、いつしか震えていた。
ある晩のことだ。詰所の火がほとんど落ちて、譜の点も見えぬほどの暗がりになった。外では木枯らしが板戸を鳴らし、すきま風が、燭の燃え残りを細くゆらした。宗近は、それでも笛を置かなかった。冷えた竹を、何度もかまえなおしては、おなじ一節につまずいていた。やがて、見かねた忠方が、闇の中で、おもむろに自分の笛をかまえた。
「目が見えぬのは、われも同じだ」と老人は笑った。皺の寄った頬が、暗がりのなかでやわらかくゆるんだ。「灯りを消せ。譜を捨てよ。今宵は、われの息だけを聴け」
残った炭火を、宗近が灰でそっと埋めた。部屋は、墨を流したような闇になった。そのなかで、忠方が吹きはじめた。
その音を、宗近は、闇に目を閉じて追った。譜はもう見えない。見えるものは何もない。あるのは、老人の体から漏れてくる、息のうねりだけだ。どこで吸い、どこで止め、どこでそっと吐き抜くか。竹を伝ってくるその息づかいを、宗近は、自分の体ごと写しとろうとしていた。胸がふくらむ気配、喉の奥でひと呼吸ためる間——音そのものより先に、その前ぶれを、肌で聴こうとしていた。
われは火桶のそばで、その二つの笛を聴いていた。掌にあたる炭の温みだけが、たしかな寄る辺だった。
はじめは、老いた笛だけが鳴っていた。やがて、若い笛が、おそるおそる、そのあとを追いはじめる。重なって、ずれて、また重なる。何度も、何度も。若い息はまだ気が急いて、波が引ききらぬうちに、つい満ちてしまう。そのたびに音は平たくなった。そうしているうち——ある一節で、ふいに、二つの息が、ぴたりと一つに溶けた。
波が、引いた。そして、満ちた。
暗がりの中に、たしかに海が見えた、とわれは思った。沖から寄せて、足もとで砕けて、また沖へ退いていく、あの大きなひと呼吸が。譜のどこにも書かれていなかったあの間が、いま、若い笛のうえに、たしかに宿ったのだ。宗近自身が、息をのむのがわかった。
忠方は、笛を口から離した。その音が消えても、闇のなかには、まだ波の余韻が満ちているようだった。
「それだ」と、ただひと言、老人は言った。「それを、忘れるな。紙にではない。お前の息に、刻みつけておけ」
宗近は、暗がりのなかで、深くうなずいていた。頬を伝うものを、隠そうともしなかった。覚えたのは、一節の音ではない。師の体から自分の体へ、たしかに手渡された、生きた息そのものだったのだろう。
灯りのない部屋で、笛の余韻だけが、ゆっくりと壁に染みていった。やがて、木枯らしの音だけが、また戻ってきた。
◇ ◇ ◇
雅楽は、それからも、ずっとそのやりかたで受け継がれていった。
海の向こうから渡ってきた調べは、書きとめられるよりも先に、まず耳から耳へ手渡された。譜は残った。けれど、譜だけでは音は鳴らない。どこで息を継ぐか、どこをためるか——いちばん肝心なところは、いつの世も、生きた師の口から、生きた弟子の耳へと、息のまま渡されてきた。それが絶えなかったから、千年の昔の調べが、いまもなお、絶えずに鳴っているのだという。
今では、音はいくらでも、箱の中にとどめておける。鳴らした人がとうに世を去っていても、その息づかいまで、そっくり残せる。あまりに確かに残るので、誰も、耳から耳へ手渡すなどとは、もう考えない。
それでも、とボクは思う。あの暗がりのなかで、譜も灯りも捨てて、ただ師の息だけを追っていた若い笛吹きの、あの研ぎ澄まされた耳を、ボクは忘れられない。とどめておけない音だったからこそ、人は、これほどまでに耳を澄ましたのだ。
次に、ゆかりも知れぬ古い調べを耳にすることがあったら、ほんのひと節でいい、その音が、いったいいくつの耳を経めぐって、ここまで運ばれてきたのかを、思ってみてほしい。
消えていくはずの息が、人から人へ手渡されて、千年を生きのびる。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 雅楽は、唐や高麗など大陸から渡来した楽舞と、日本古来の歌舞とが平安期に整えられて成立した宮廷音楽とされる。龍笛は唐楽に用いる横笛で、笙・篳篥とともに管の主軸を担う。楽譜(譜)はあくまで記憶の手がかりであり、息づかいや微妙な間合いは口から耳へ伝える口伝で受け継がれてきたと伝わる。「青海波」は舞楽の名曲として知られ、後の『源氏物語』にもその舞の場面が描かれる。雅楽寮は大宝令以来、宮廷の楽を司った役所と伝わる。寛仁二年は一〇一八年(寛仁は一〇一七〜一〇二一年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。本話の人物・会話・情景は創作。
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