第 136 話文化門前の酒屋の土間で、客が替わっても同じ間で沸いた二人の口まね
〜顔ぶれが入れ替わっても、人はなぜ同じところで笑ってしまうのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
笑うつもりのなかった客が、気がつけば腹をかかえている。口をきくだけの男二人に、どうしてそんなことができるのだろう。ボクは笑う側にいるとき、ふとそれが気になってしまう。
◇ ◇ ◇
康正二年(一四五六年)、秋。大和の山ぞいの道を、おれは南へ向かって歩いていた。日の高いうちに、あと六里は稼いでおきたかった。空を見あげては、足を速める。雲の足が早く、陽のかげる間も短い。ここ幾日か、足が重い。
道は、とある社の門前の町を抜けていた。祭礼のさなからしく、通りは人でふくれている。籠を抱えた物売りの声、子どもの駆けまわる足音、社のほうから流れてくる太鼓の音が、ごちゃごちゃに重なっていた。なかでもひときわ人垣の厚い店があった。酒屋らしい。酒甕を積んだ店先は、戸も暖簾もとりはらわれて、奥の土間が通りから丸見えになっている。田楽を焼く煙と酒の匂いが、冷えた風にまじって流れてきた。足は先へ行きたがっていたのに、気がつくと、人垣のいちばん外で、荷を足もとへおろしていた。
土間では、店の者が柄杓で水を打っていた。まだ二人の姿はない。土間の奥の戸口には短い暖簾が垂れていて、その手前の二箇所だけ、土が黒く固まって光っている。ほかは粉をふいたように白っぽいのに。店の者は、その二箇所をよけて水を撒いた。撒いた水は、黒い跡の際でぴたりと止まった。何度も繰りかえした手つきだった。
おれの前で背伸びをしていた女房が、連れの袖をひいた。
「そろそろ、をかしだよ」
狂言か、と口のなかで言いかけて、おれは言葉をのみこみ、「をかし、か」と言いなおした。女房は聞こえたのか聞こえぬのか、前を向いたままだった。
奥の暖簾の向こうから、ひとつ、咳ばらいが聞こえた。人垣のざわめきが、すっと薄くなる。
土間に出てきたのは、装束も面もない、素顔の男が二人だった。袴の裾を端折った、畑から戻ったままのような格好だ。人垣のなかから、おや、という顔がいくつも持ちあがる。囃子の笛も、鼓もない。二人は迷いもせず、さっきの黒い二箇所へ、それぞれ足を置いた。

一人が胸をそらして主になり、もう一人は肩をすぼめて召使いになった。
「やい、留守を頼んだ酒を、お前みなのうてしもうたな」
「いやさ、あれは……あれは、鬼が来て、飲んでいきましたわいの」
「鬼が、ひとりで一斗を飲むか」
客は、まだ笑わなかった。口をあけたまま、つぎの言葉を待っている。主は、まじめくさった顔のまま、口を結んでいる。召使いは、肩をすぼめて足もとの黒い土に目を落とし、それから上目づかいに主をうかがった。
奥の戸口の暖簾が、風にひと揺れして、もとへ戻りかけた。
「それがな、飲みますのじゃ。そうして、こう申しました」
召使いは、すっと胸をそらした。声が、がらりと変わった。
「やい、留守を頼んだ酒を、お前みなのうてしもうたな。……と、鬼めが、わしを叱りよりました」
主の口が、ぽかりとあいた。自分の声、自分の言いまわし、自分の胸のそらし方が、ひとつ残らず目の前の下人の口からとびだしてきたのだ。暖簾の揺れがおさまるのと、人垣がどっと沸くのとが、ほとんど同じだった。笑いは波が返すように、外の端から前へ、また外へとうねる。通りを歩いていた者までが、足をとめて首を伸ばしている。前の女房は、連れの背中をたたいて笑いころげた。
二人は終わると、頭をさげもせず、すたすたと奥へ引っこんだ。主を演じたほうが、戸口をくぐりぎわに、袴の裾の土をぱんと払ったのが見えた。客はまだ笑っている。おれは荷をおろしたまま、ぼんやりと土間を見ていた。二人が引っこんだあとも、黒い二箇所は、そのままそこにあった。踏まれて固まった土は、人垣の足が寄せてきても、そこだけ砂ぼこりを立てなかった。
となりで、荷をかついだ年配の男が、連れに話しかけている。
「この店の土間は、祭りのあいだ日に三度は踏むでな。去年は、鬼が飲んだのは味噌だったがの」
「味噌を飲む鬼があるかい」
「それだ。あれも、そこで笑いがきた」
男はそれ以上は何も言わず、荷をかつぎなおして、人波のなかへ消えた。店の者は、柄杓をかたむけて、もう一度土間に水を打ちはじめた。やはり、黒い二箇所だけは、よけて通った。濡れた土のにおいが、田楽の煙の下から、うっすらとのぼってくる。

◇ ◇ ◇
店のなかで酒を酌む客の声が、ひとしきり大きくなった。奥では甕の蓋をずらす音がして、酒の匂いがまた濃くなる。そのあいだに、地べたの冷えが尻から腰へのぼってきた。通りを、荷を負った男や牛をひく女が、ひとり、またひとりと過ぎていく。みな足は止めず、笑い声のするほうへ首だけかしげて、また前を向いた。おれも、そちら側の人間のはずだった。腰をあげかけては、なぜか、おろしてしまう。日がかなり傾いたころ、人垣のなかから声があがった。
「もういっぺん。さっきの、鬼のやつを」
人垣がざわついて、そのあと店の者が、土間にもう一度水を打った。客のあいだから、またひとり、ふたりと、通りを渡って寄ってくる。入れかわりに前の女房の姿はなく、背伸びをする顔が、みな見知らぬものに替わっていた。
所望だった。奥の暖簾の向こうから、ひとつ、咳ばらいが聞こえる。二人は、さっきとおなじ格好で、おなじ側から出てきた。出てきて、さっきの黒い二箇所へ足を置いた。主の声は、すこしかすれていた。
「やい、留守を頼んだ酒を、お前みなのうてしもうたな」
「いやさ、あれは……あれは、鬼が来て、飲んでいきましたわいの」
「鬼が、ひとりで一斗を飲むか」
客は、やはり、まだ笑わない。日の暮れ方になって寄ってきた、牛追いや、薪を負った老爺や、小僧といった顔ぶれは、さっきのとはちがうのに、口をあけて待つ顔つきまで、さっきとおなじだった。
召使いは、前とおなじように肩をすぼめ、足もとの黒い土に目を落とした。上目づかいに主をうかがう、その目の角度も、さっきのままだ。奥の戸口の暖簾が、風にひと揺れして、もとへ戻りかけた。
「それがな、飲みますのじゃ。そうして、こう申しました」
召使いが胸をそらした。そうして、鬼の口から出てきた声は、主のかすれを、そのまま写していた。かすれて、ひび割れて、それがかえって、いっそう主の声に聞こえた。
暖簾の揺れがおさまると、人垣がどっと沸いた。
二度とも、暖簾がひと揺れしてから。二度とも、おなじ二つの黒い跡の上。
店の奥から、酒を温める匂いがただよってきた。日は、もう山の端にかかっていた。遠くの社の太鼓も、いつのまにか止んでいる。影がながく伸びて、通りの土が墨のように濃くなっている。宿に着くのは、夜になるだろう。荷を背にのせて、尻の土を払う。人垣の外の道へ出ると、背のうしろで、また、どっと笑いが揺れた。もう一度、やったらしい。おれは振りかえらずに、足を前へ出した。
◇ ◇ ◇
このあいだ、ボクは公民館の前を通りかかった。二階の窓があいていて、素人の狂言教室でもやっているのか、声が道まで降りてきた。
「やい、太郎冠者」
かすれた、年輩の男の声だった。そのあとに、ひと呼吸の静けさがあって、窓の奥が、どっと揺れた。窓の下を自転車が通り、ベルがひとつ。
参考文献・もっと詳しく
※ 狂言は、猿楽の系譜のなかから、能とともに育った笑いの劇で、もとは能の番組のあいだに演じられた素顔・面なしの滑稽な寸劇であったとされる(門前の店先などでも演じられたと伝わる)。当初は即興性が強く、台詞も演者ごとにまちまちであったが、主人・召使い(のちに太郎冠者の名で定まる)・すっぱ(詐欺者)といった類型の登場人物と、笑いの「型」がしだいに定まり、口伝のかたちで代々受け継がれる一個の芸へと育っていったと伝わる。康正二年は一四五六年(康正は一四五五〜一四五七年)。当時は「をかし」などとも呼ばれたと伝わる。※本文の人物・会話・情景は創作。
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