第 135 話文化野の祭りで人を笑わせた物真似が、橋がかりを渡って幽玄の舞となった日のこと
〜里の笑いを取っていた猿楽者は、なぜ面の下で息をひそめ、幽けき舞へと身を移していったのか〜
能というのは、舞台の上で人がほとんど動かぬ、世にも静かな芸だ。
もとは、なんということもない物真似だった。社の祭りに人が群れる、その傍らで、滑稽な身ぶりをして見せ、人の口まねや所作をなぞって、わっと笑いを取る。猿楽だの申楽だのと呼ばれ、田植えの戯れや、寺社の呼びものとして演じられた、ただの座興の芸さ。腹を抱えて笑い、銭を投げ、それで仕舞いの、あけすけな芸だったのだ。
ところがその物真似が、いつのころからか、笑いを捨てはじめる。面をつけ、ゆるりと足を運び、声を長く引いて謡う。亡き者の魂が、ひとり舞台に立ちあらわれて、過ぎた日を語っては、また消えていく。客は笑うのを忘れ、息をのんで見入るようになった。
ボクが見てきたのは、その里の笑い芸が、ただの座興から「幽玄の舞」へと育っていく、その移り変わりだ。人を笑わせていた者が、面の下で息をひそめ、人を泣かせるようになった、そのあたりのことさ。
◇ ◇ ◇
享徳二年(一四五三年)の春のことだ。おれは大和の、とある社の門前で、雑事をして食うておった。
社の祭りには、決まって猿楽の座がやってきた。仮の桟敷を組み、筵を敷き、面箱を担いだ役者たちが、土ぼこりを立てて入ってくる。荷車の輪が乾いた地面を軋ませ、面箱の桐の蓋がかたかたと鳴る。おれはその荷を運び、井戸の水を汲み、桟敷の隅で見物の人垣をさばく。そういう下働きで、わずかな扶持にありついていたのさ。春の社頭は、踏み固められた土の匂いと、揚げ菓子の油の匂いと、人いきれとが入りまじって、朝から妙にあたたかかった。境内の桜はもう散りぎわで、白い花びらが筵の上にちらほらと落ち、人の草鞋に踏まれては土に紛れていく。鳥居のあたりでは物売りの声が飛び交い、子らが裸足で駆けまわって、犬まで浮かれて吠えておった。祭りの日というのは、どこの里でも、年に一度、人がいちばん晴れやかになる日なのさ。
その年の座に、ひとり、妙な役者がいた。年のころは四十がらみ、痩せて、目だけがやけに鎮もっている。座の若い者らが、田楽の滑稽や、酔いどれの物真似で人を沸かせているあいだ、その男はじっと面箱の脇に座って、出を待っていた。膝の上に手を置いたまま、身じろぎひとつしない。若い者の笑い声が高くなるほど、その静けさが妙に際立って見えた。おれが水を運んでいくと、男は会釈ひとつして、また目を伏せた。手のひらの皮が、桶の縁を握りすぎたみたいに、舞でこすれて硬くなっていた。
日が傾き、西陽が桟敷の柱を赤く染め、人垣がいちばん厚くなったころ、その男が、ひとり静かに桟敷へ上がった。
おれは、おや、と思った。笑いを取る気配がまるでない。男は白い面をつけ、ゆるりと、ほとんど止まっているかと見えるほどの遅さで、足を運びはじめた。足の裏が板を擦る、さらり、という乾いた音だけが伝わってくる。笛が細く鳴り、鼓が、間をたっぷりと取って、ぽん、と打たれる。打ったあとの、音のない長い間が、かえって耳に残った。
人垣が、しんと静まった。
さっきまで腹を抱えて笑っていた者らが、口を閉じ、身じろぎもせず、その遅い足はこびに見入っている。子の手を引いていた女も、銭を握ったままの男も、みな動かない。男は何を演じるでもない。ただ、ゆっくりと舞い、長く声を引いて謡うだけだ。けれどその静けさが、かえって人を釘づけにした。動かぬことが、これほど人の目を吸い寄せるとは、おれは知らなんだ。日が落ちきって、面の白さだけが薄闇に浮いていた。
◇ ◇ ◇
その晩、おれは荷をかたづけながら、思いきって男に尋ねた。篝火の灰がぱちりと爆ぜ、火の粉がひとつ、夜気へ昇って消えた。
「お前さま、なぜ皆のように、人を笑わせなさらぬ。あの静かな舞では、銭の投げようも、客は戸惑うておりましたぞ」
男は面を布でぬぐいながら、ぽつりと言った。布の動く、かさり、という音が、火のそばでばかに大きく聞こえた。
「笑いはな、その場かぎりで消える。腹を抱えて、銭を投げて、家へ帰ればもう忘れておる。だがな、しんと静まったあの間に、ふっと胸を衝かれた者は、何年たっても、それを忘れぬのだ」
おれは、その言葉の意味がよく分からなんだ。男の手のなかで、面が火を映して、生きた肌のように仄かに照った。
男は続けた。亡くなった者の名残を、面と舞で、いま一度この世へ呼び起こす。橋がかりの向こうから、そろりとあらわれて、過ぎた日を語り、また向こうへ帰っていく。見る者は、自分の亡くした人を、その面の奥に重ねる。だから泣く。笑いより、その静けさのほうが、人の胸の奥へ深く届くのだと。
「物真似は、人のかたちを写す。だが舞は、人のこころの奥を写すのだ。同じ猿楽でも、行きつく先がちがう」
そう言って、男は面をそっと布にくるみ、両手で持ちあげて、面箱の底へ仕舞った。赤子を寝かせるような、ていねいな手つきだった。
男は、世に名の知れた大夫の流れを汲む者だと、あとで座頭が教えてくれた。能というこの静かな芸は、もとはあけすけな里の笑い芸であったものを、面と謡と、たっぷりとした間とで磨きあげ、幽けき美しさへと作りかえてきたものなのだという。武家の館へも招かれ、いまや将軍家の覚えもめでたいと座頭は言った。野の祭りの芸が、上つ方の式楽になろうとしている。その境目に、おれは立ち会うていたのさ。
◇ ◇ ◇
それから、おれは何年も、その座の出入りを手伝った。
通うほどに、おれの目も少しずつ肥えていった。はじめは退屈に見えた遅い足はこびが、やがてぞくりとするほど美しく思えてくる。打たれぬ鼓のその沈黙のあいだに、亡き者の気配が立つ。声を長く引いた謡の尾が、夕闇へ溶けていく。何も起こらぬのに、胸の底がしんと冷えて、また熱くなる。雨の日には板の湿りで足音がこもり、よく晴れた日には、面の白がいっそう冴えて見えた。同じ舞でも、その日の空模様で、立つ気配がまるでちがうのだ。
座の若い者らに尋ねると、この芸は、ひとりの大夫が一代で作りあげたものではないのだという。父から子へ、子から孫へと、面の打ちようや足の運び、謡の節まわしを、ひとつずつ磨いては書きとめ、また磨いては書きとめして、幾代もかけて練りあげてきたものらしい。どこで足を止めれば客の息がのまるか。鼓をどれほど待たせれば、沈黙が亡き者の気配に変わるか。どの一句で声を切り、どの一句で長く引くか。そういう目に見えぬ間合いの工夫を、口伝てに、面箱の底へ仕舞うようにして受け渡してきたのだと、若い者らは誇らしげに語った。稽古のときは、年かさの者が若い者の肩や腰に手を当て、ほんの指一本ぶんだけ足の向きを直してやる。その指一本のちがいで、立ち姿が生きも死にもするのだと、おれは脇で見ていて知った。笑いなら、その場で取れる。だが幽玄は、幾代もの工夫を継がねば立たぬのだと、おれはそこで思い知った。
ある年の秋、社頭でまたあの面の舞があった。木々が色づき、落ち葉が桟敷の隅に吹きだまっていた。見物のなかに、いくさで子を亡くしたという老婆がいた。腰を曲げ、数珠を握りしめて、舞をじっと見上げていた。舞が、橋がかりの向こうへ静かに消えていったとき、その老婆が、声を立てずに、ただはらはらと泣いていた。皺の寄った頬を、涙がひとすじ伝って、襟へ落ちた。
おれは、あの男の言葉を思い出した。しんと静まった間に胸を衝かれた者は、何年たっても忘れぬ——あの老婆は、舞の奥に、死んだわが子の面影を見たのだろう。笑い芸であったなら、決して呼び起こせなかったものを、この静かな舞は、たしかに呼び起こしていた。
物真似が、人を笑わせるだけのものでなくなった。それは、亡き者をいま一度この世へ招き、見る者のこころを洗う、幽玄の舞になっていた。おれは、その移り変わりの傍らで、ただ荷を運び、水を汲んでいただけだ。けれど、その境目をこの目で見たことを、おれは生涯、誇りに思うておる。
◇ ◇ ◇
里の祭りの笑い芸が、面と謡と間とを得て「幽玄の舞」となり、やがて武家の式楽にまで昇っていったのは、世が乱れ、また人が美しきものを求めた、このころのことだ。ボクは、その移り変わりを、いくつもの社頭で見てきた。
いちど幽玄を知った芸は、もう、ただの座興へは戻らなかった。それは亡き者を招く舞となり、人のこころの奥を写す鏡となり、上つ方の式楽として、長く受け継がれていった。人を笑わせていた者が、面の下で息をひそめ、人を泣かせる。芸というものは、そうして磨かれ、化けていくものらしい。
今でも、舞台の上では、面をつけた者が、ゆるりと足を運んでいる。打たれぬ鼓の沈黙が、客席を静めている。けれど、それを「里の笑いが化けたものだ」と思って見上げる者は、もう、そうは多くない。
それでも、とボクは思う。
どこかの舞台で、面をつけた者が、止まっているかと見えるほどの遅さで舞っているのを見たら、その静けさを、ただ難しいものと思わずにいてほしい。もとは、社の傍らで人を笑わせていた芸だった。それを、面の下で息をひそめ、人のこころの奥を写す舞へと磨きあげた者たちがいた。あの遅い足はこびの一歩いっぽに、笑いを捨て、静けさへ賭けた者たちの、長い工夫が染み込んでいる。
能は、ただ舞台の上で、静かに舞っているだけだ。鼓が、間をおいて、ぽん、と鳴るばかりさ。それでも、その一歩には、里の笑いを幽玄へと作りかえ、亡き者を招き、人を泣かせてきた者たちの、長い長い背中が映っている。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 能は、もとは寺社の祭礼などで演じられた猿楽(申楽)と呼ばれる物真似や滑稽を主とする芸能から発展したものとされる。南北朝から室町期にかけ、観阿弥・世阿弥らが、面・謡・囃子・緩やかな所作を磨きあげ、亡き者の霊などを主人公とする幽玄の舞台芸術へと高めたと伝わり、足利将軍家の庇護を受けて武家の式楽としても重んじられるようになったと伝わる。享徳二年は一四五三年(享徳は一四五二〜一四五五年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。※本文の人物・会話・情景は創作。
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