第 117 話道具米のとぎ汁で、髪は艶をとりもどした——黒髪を命とした世の、ある朝の身づくろいのこと
〜捨てるはずの白いとぎ汁を、あの娘は、なぜあれほど大切そうに坏へ受けたのか〜
髪を洗う、というのは、今ではただ汚れを落とすだけの、ありふれた朝の一仕事だ。
今の暮らしなら、栓をひねれば湯がほとばしり、香りのよい泡を立てて、わけもなく洗いあげてしまう。乾かすのも、風を送る道具をあてれば、いくらもかからない。髪を洗うのに半日を費やすなどと言えば、誰もが目をまるくするだろう。
けれど、丈にもあまる黒髪を背に垂らして暮らした世があった。髪は、ただの髪ではなかった。女の値打ちそのもの、と言ってもよいほどのものだった。床にとどくほどの黒髪を、つやつやと梳きそろえていることが、何にもまさる美しさとされた。それだけに、洗い、梳き、ととのえるのは、たいそうな手間のかかる仕事でもあった。
その手間のなかで、人がたよりにしたのが、米のとぎ汁さ。飯を炊くたびに出る、あの白くにごった水だ。ボクが見てきたのは、捨てるはずの白い水が、坏のなかで、長い黒髪をよみがえらせていく、そういう朝のことだ。
◇ ◇ ◇
万寿二年(一〇二五年)の春のことだった。われは京の東洞院あたり、とある中流の家に雇われて、雑事をこなしながら寝起きしていた。
その家に、すずという若い女房がいた。主の姫君に仕える身で、年は十六、七といったところか。器量よりも何よりも、その黒髪が見事だった。座れば、髪の先が畳のうえに淵をつくり、立てば、背を流れて足もとちかくまで垂れた。日に透かすと、青みを帯びて光った。歩くたびに、衣の裾のあとを追って黒い帯がさらりと動く。家の者はみな、すずの髪を、ひそかな自慢の種にしていた。あれだけの髪はそうそう見られるものではない、と。
その髪を、すずは月に幾度か、念入りに洗った。洗うと言っても、湯をふんだんに使えるわけではない。薪も水も、惜しみながら暮らす家だ。釜いっぱいの湯を髪のために沸かすなど、思いもよらない。そこで使うのが、とぎ汁だった。
その朝、われは竈のそばで、すずが飯をとぐのを見ていた。冷たい井戸水に手を浸し、白い指で米をくるくるとかき回す。しゃり、しゃり、と米の擦れる音が、まだ薄暗い土間に小さく響いた。研いだ米から立つ白い水を、すずは捨てずに、そばに据えた木の坏へ、そろそろと受けていく。坏のふちを伝って、とろりとした白がたまっていく。泔坏、と呼ぶのだと、このとき教わった。髪を洗い梳くための水を、ためておく坏なのだという。木地はところどころ水を吸って黒ずみ、長く使いこまれた艶があった。手のひらにのるほどの、なんということもない椀である。それが、この家でいちばん大切に扱われている器だった。
「これがね、髪にいちばんいいの」と、すずは坏のなかの白い水を、いとおしむように見つめて言った。指の先で水面をそっと撫でると、白い濁りがゆっくりと渦を巻いた。
なぜとぎ汁が髪にいいのか、すずは知らない。ただ、母も、祖母も、ずっとこうしてきた、というだけのことだ。理屈は知らずとも、手だけがそれを覚えていた。とぎ汁を一晩おくと、上澄みと、底にたまる白い濁りとに分かれる。その、ほどよくこなれた水で髪を洗うと、ぎしぎししていた髪が、おどろくほど指どおりよくなるのだという。坏に鼻を寄せると、ほのかに、炊きあがる前の米のにおいがした。甘いような、土のような、なつかしいにおいだ。
翌朝、すずの髪を洗う仕事を、われは下働きとして手伝った。
まず、長い黒髪を、幾度にも分けて、とぎ汁にひたしていく。床にもとどく髪だ、ひと息には洗えない。盥のうえにすずが顔を伏せ、われが柄杓で、泔坏の水を髪にそそぐ。ひんやりと湿った朝の気が、首すじのあたりにただよっている。白い水が黒髪をつたって、つうっと流れ落ちる。すずの指が、根もとから毛先へと、ゆっくり髪をしごいていく。しごくたびに、髪のあいだから細かな泡のようなものが立ち、白くにごった雫が盥の底へ垂れていった。
しばらくして、すずが「もう一度」と言うので、また坏の水をそそいだ。二度、三度とくり返すうちに、はじめは重く湿っていた髪が、しだいに、すべりのよい、しなやかなものに変わっていくのが、そそぐこちらの手にも伝わってきた。指にからむ感じが消え、水のなかでするりとほどけるようになる。柄杓を持つわれの手の甲にも、とぎ汁のぬめりがうっすらと残った。なるほど髪をよみがえらせるのも道理だと、ひそかに得心したものだ。すずは目を閉じたまま、「ね、ちがうでしょう」と小さく笑った。
泔坏の白い水は、そそぐそばから盥にたまり、たちまち濁っていく。一冬のあいだ髪にたまった埃や脂を、とぎ汁が吸いとっていくのだ、とすずは言った。湯ではこうはいかない、とも。熱い湯で洗うと、髪が荒れて、つやを失うのだという。ぬるい坏の水を、根気よくそそぎ、しごく。それが髪をいたわるこつなのだと、すずの手はよく心得ていた。冷たすぎても髪が締まっていけない、と言って、すずは坏の水をしばらく日なたに置き、朝のぬくみを移してから使った。
われは、ただ柄杓を傾けるばかりの手伝いだったが、長い髪が水のなかでほどけ、生きもののように揺れるさまには、つい見入った。盥のふちで、黒い筋が幾本もうねり、ひるがえる。これだけのものを、ひと束に背負って暮らすというのは、誇りでもあり、また、たいそうな重荷でもあったろう。夏のさかりには汗で重く、冬のあかつきには冷えて、寝るときも枕のうえに広げてやらねば傷んでしまう。それでもすずは一度として髪を疎んじなかった。洗いおわるころには、すずの額にもうっすらと汗がにじんでいた。前髪のあたりに垂れたひとすじを、すずは手の甲でそっと払いのけた。
◇ ◇ ◇
洗いおえると、こんどは乾かす番だ。
これがまた、気の長い仕事だった。丈にあまる髪である。手ぬぐいで押さえるくらいでは、いっこうに乾かない。すずは縁先に出て、春の日のあたるところに座り、髪を背いっぱいに広げて、風に流した。庭では梅がもう散りかけて、白い花びらが、ときおり濡れた髪のうえにひとひら、ふたひらと落ちた。すずは気づくと、それを指でつまんで、ふっと吹いて飛ばした。
乾くのを待つあいだ、すずは黄楊の櫛を手にとった。生乾きの髪を、毛先のほうから、少しずつ梳いていく。いきなり根もとから梳けば、髪が切れる。だから毛先から、もつれをほどくように、ていねいに、ていねいに梳きおろす。櫛の歯のあいだを、黒い筋がさらさらと通っていく。櫛がもつれにかかると、すずはそこで手を止め、指でそっとほぐしてから、また櫛を入れた。けっして無理に引かない。櫛の通る音が、しゅ、しゅ、と、ひそやかに庭に流れた。
日が高くのぼるにつれ、湿っていた髪が、すこしずつ乾いていく。乾いたところから、つやが立ってくるのだった。とぎ汁の何が効くのか、洗うまえのぎしついた髪が、嘘のように、ぬめりと光をたたえている。日に透かすと、やはり青く光った。風がわたると、乾いた毛先のあたりが、ふわりと持ちあがって、また肩へ落ちる。すずはときどき髪を手のひらですくっては、その重みと乾きぐあいを確かめていた。
「もったいないでしょう、こんなに手をかけて」と、すずはわれの顔を見て、すこし笑った。「でもね、これだけは、惜しんじゃいけないって、母が」
髪は、その人の心ばえまで映すものだ、とすずの母は言ったらしい。ささくれた髪は、ささくれた心に通じる。だから、どんなに暮らしが詰まっていても、髪だけは、とぎ汁の一坏で、ていねいにととのえておくのだ、と。すずはそう言いながら、空になった泔坏を、井戸端で静かにすすいでいた。捨てるはずの白い水が、ひとの心まで支えていたわけだ。
その日、梳きおえたすずの髪は、縁先の光のなかで、一筋の乱れもなく流れていた。手をかけただけのものが、たしかにそこにあった。豪奢な装いひとつないつましい家の、つましい朝の、けれど目を瞠るような美しさだった。すずは満ちたりた顔で、その黒髪を、肩のうしろへひとつ、するりと払った。
◇ ◇ ◇
黒髪を命とした世は、それからも長くつづいた。
高貴な姫君たちも、おそらくは似たような坏を用いて、丈なす髪をととのえていたのだろう。後の世の書きものにも、髪を洗うのは吉日を選ぶ大ごとで、幾日もかけて乾かした、という話が残っていると聞く。とぎ汁で洗い、櫛でひたすら梳きおろす——その手のかけかたは、身分の上下をこえて、この国の女たちが長く受け継いだものだったらしい。
今では、髪を洗うのに半日も待つ人はいない。とぎ汁を坏に受ける人も、もういない。あまりに早く、あまりにたやすく洗えるので、誰も、乾くのを縁先で待ったりはしない。丈なす黒髪を背負う人もまた、めっきり見かけなくなった。
それでも、と思う。米をとぐとき、あの白くにごった水を流しに見るたび、ボクはふと、東洞院の縁先を思い出す。捨てるはずのひと坏の水に、髪を、ひいては身づくろいの心ばえを託していた——あのていねいな手つきは、香りのよい泡で手早く洗いあげる今の朝にも、どこか、まだ畳み込まれている気がするのだ。
毛先から、ていねいに、ていねいに櫛を通していたすずの横顔を、ボクはまだ覚えている。手をかけたものは、手をかけただけ、ちゃんと応える。捨てるはずのひと坏の水にさえ、そういう手をかけられる人がいた。たったそれだけのことを、春の縁先の光が、静かに教えてくれていた。
ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 泔坏(ゆするつき)は、米のとぎ汁(泔=ゆする)を受けためておき、髪を洗い梳くのに用いた坏とされる。平安期、丈にあまる黒髪を美の要とした女性たちは、洗髪に吉日を選び、とぎ汁で洗って櫛で梳きおろし、幾日もかけて乾かしたと伝わる。とぎ汁に含まれるものが髪の指どおりをよくしたとも言われるが、当時は経験として受け継がれたものである。万寿二年は一〇二五年(万寿は一〇二四〜一〇二八年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。東洞院は平安京の南北の通りの名として用いた。本話の人物・会話・情景は創作。
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