第 139 話仕事半値で売る辻の油と、桝の縁に札を打つ店
〜土器二枚に注いだ油は、一刻足らずでなぜ顔つきを変えたのか〜
はじめて読む方へ——語り部「ボク」がなぜ千年を渡り歩いているのかは、プロローグにあります。
「半値だ、半値だ。同じ灯し油が一合で半値だぞ」
辻に立つ男の声は、宿場の端まで通っていた。大永四年(一五二四年)の秋、近江の街道ぞいの宿場である。おれは針と糸の荷を負って村から村を渡る行商で、明日は夜明け前に宿を発ち、日のあるうちに峠を越えねばならなかった。暗いうちの足元を照らす油が一合、どうしても要る。誰に頼まれた用でもない、おれ自身の用だ。値が半分と聞けば、迷う理由がなかった。
◇ ◇ ◇
男は柄杓を片手に、客の竹筒へたぷたぷと注いでみせる。桝は一度も出さず、目分量だった。人だかりが辻の角まで伸びていた。おれもその尻について、竹筒に一合を受けた。男の手は荒れていなかった。種の脂の染みた指ではなく、荷を担ぐだけの、乾いた指だった。その手を、おれはそのとき、見ていながら見ていなかった。
宿の板間で、その油を小皿に注ぎ、灯心を浸して火を移した。火はついた。ついたが、芯の先がじじっと鳴って煤を吐き、見る間に黒い糸が一筋、天井へ立った。となりで足を洗っていた客が咳きこんで顔をそむける。部屋の隅に、油の焼ける嫌な臭いがこもった。窓を開けても、臭いは板の目に染みたまま、動かなかった。
宿の女は、何も言わなかった。煤で黒くなった皿を下げ、土間の暗がりのほうへ、顎をしゃくった。そちらは街道の角で、灯の下に、店の戸が一枚見えた。
教えられた角の店は、戸を開けると、種を煎る匂いが先に立った。荏胡麻が焦げるきわの、あの香ばしさだ。土間の奥で、小僧が竈の前に膝をついている。平たい鍋に種をあけ、木べらを休めず動かしていた。足を踏ん張るたびに、小僧の足の裏が、藁を敷いた土の上できしんだ。
主は久米蔵といった。おれは竹筒を逆さにして、底に残った辻の油を、久米蔵の出した土器の皿へ受けた。
「灯し油を、一合。夜明け前に発つので、今夜のうちに欲しい。辻の油がこれだ。煤で使えなんだ」
「今夜じゅうは無理だ。絞りは日の入りの前に終わっておる」
「ならば、いま絞り置きがあるぶんでいい」
久米蔵は皿の油に鼻を寄せ、顔をしかめたが、それについては何も言わなかった。答えないまま、奥の戸を引いて消えた。おれは土間に立ったまま待った。木槌が樽の蓋の楔をゆるめる音が、一打ち、また一打ちと、壁ごしに響く。奥の暗がりで何をしているのか、おれの目は届かなかった。見えるのは土間の暗がりと、竈の火と、小僧の背中だけだ。小僧は鍋の縁を木べらで鳴らし、種のはじける音を数えているらしかった。はじける音が三つ重なったところで、鍋を火から下ろし、笊へあけた。焦げ目がつくには、あと一息ある。その一息のこちら側で止めるのだと、手の動きだけが言っていた。煎りすぎれば油は苦く、煎りが足りなければ、油は種の中に居残って出てこぬ。そういう加減を、小僧は数でなく、鼻と耳で量っていた。

壁ごしの音がやんでしばらくして、久米蔵は油壺を提げて戻ってきた。壺から別の土器へ、糸のように細く注ぐ。二枚の皿を並べ、竈の火と灯明の照らすあたりへ置いた。辻の油と、いま注いだ油と。
久米蔵の女房が、欠けた碗に白湯を汲んで、おれの肘のそばへ置いた。手を出すと、碗の縁が熱かった。土間の炉の火で温めておいたものらしい。待つ客に出す白湯を、この店は惜しまなかった。湯気の向こうで、小僧の木べらの音だけが、一定の拍で続いていた。
「値は、辻の倍だ」
「倍か」
「嫌ならよい」
針一包みの利を、おれは頭のなかで数えた。倍の油を買えば、今日の稼ぎは油にほとんど消える。辻へ戻れば、まだ半値の男は立っているだろう。だが、あの黒い糸がまた天井へ立つ夜を、峠の暗がりへ持ち込む気にはなれなかった。
おれは払った。腹の内では、つまらぬ銭を使うものだと思った。久米蔵は壁の釘から桝をおろした。桝をつかむ指の腹は、種の脂が染みて黒光りし、釘にかけた布でぬぐっても、つるりと滑るのが見えた。辻の男の乾いた指とは、まるで違った。久米蔵は、おれの竹筒へ一合を量って注いだ。桝の縁には、細い木の札が釘で打たれていた。山崎の離宮の名が、焼き印で一行。
「それは」
「八幡さまのだ。この札のない桝で量った油は、この店では油と呼ばぬ」
それだけ言って、久米蔵は桝を布で拭き、釘へ戻した。
竹筒に栓をして、帰ろうとしたとき、久米蔵が棚から、縁の深い小さな土器をひとつ取って、おれの手へ置いた。峠の風よけに、灯す皿はこれを使え、と。代は、取られなかった。おれは手のひらにのった素焼きの重みを、見た。そのとき、小僧が竈ばたの二枚の皿へ目を動かした。見よ、という顔だった。

辻の油の皿は、底が白く曇っていた。濁りが皿の縁から一筋、沈んでたまっている。久米蔵の油の皿は、灯の色をそのまま通して、土器の肌まで見えた。同じ油のつもりで買ったものが、一刻足らずのあいだに、別のものの顔になっていた。
久米蔵は、白いほうの底へ小指の先を沈めて、ひとすくいした。指の腹にのったのは、油でなく水だった。それを土間の土へ落とすと、土は黙って吸った。
それから小僧へ、二枚の皿を下げて洗えと顎で示した。小僧は洗った皿を、竈のそばの棚のいつもの端へ戻した。次の仕事が決まっているときの、迷いのない手だった。
店を出るとき、小僧はまだ鍋の前に膝をついたままだった。鍋の脇の笊には、もう次の種が、山になってあけてあった。
その夜、宿の板間でともした火は、煤をひとすじも立てなかった。炎は細く、まっすぐに立ち、隣の客が何を言うでもなく、その火のそばで針の目を数え直した。
明け方、おれは足の裏に石の冷たさを一歩ずつ数えながら、暗い峠道を登った。竹筒の油を、もらった深い皿へ移して手燭に据え、火を入れると、風が吹いても、炎は細いまま踏みとどまった。峠の上に出たころ、東の空がうすく割れて、麓の宿場の屋根が、一枚ずつ灰色から茶色に変わっていった。竹筒の油は、まだ半分ほど残っていた。辻の半値の一合で、あの夜は煤に咳きこんだ者が出た。倍の一合は、峠を越えてなお余った。倍の値を払ったのに、おれは損をした気がしなかった。足の裏の冷たさのほうが、よほど腹にこたえた。
◇ ◇ ◇
座というものは、習って知っていた。同じ品を扱う者が仲間を結び、値を揃えて、よその安売りを締め出す仕組みだと。ボクが習ったのは本の一行で、札の木目を指でなぞったのは、あの宿場がはじめてだ。桝の縁の札は、遠い神社へ納めを届けるかわりに、その品の商いを許される印だったと伝わる。値が辻の倍だったのも、その納めのぶんだろう。あの油屋の指の黒光りを思うと、値の倍の中身が、ようやく手の中でひとつにまとまる。
あの深い皿は、いまも手元に残っていない。旅から旅へ渡るうちに、どこかの宿で割ったのだろう。砕けたあとに残るのは、手のひらにのった素焼きの重みだけだ。物は失われても、重みだけは、土間の冷たさといっしょに、いつまでも覚えている。
辻の男が、その後どうなったか。のちに宿の主がこぼすのを聞いた。札のない桝で量る者は、宿場の寄合から締め出される。男はまもなく荷をまとめて、街道を東へ去ったという。
◇ ◇ ◇
あれから三年して、ボクは同じ宿場を用で通ったことがある。辻に半値の声は立っていなかった。角の店の土間をのぞくと、鍋の前に若い男が膝をついて、木べらを鳴らしていた。あの小僧だ。背丈が伸び、手の甲に火傷の跡が三つ。
鍋の前の筵に、膝のかたちの窪みが二つ。
参考文献・もっと詳しく
※ 中世の座は、同じ生業の商人や職人が結んだ同業の団体で、貴族や寺社を本所と仰いでその保護を受けるかわりに、特定の品の製造・販売を独占し、技や商いの掟を仲間うちで守り合ったとされる。やがて近世には、こうした結びが幕府や藩公認の株仲間や、職人の組合へと姿を変えて受け継がれていったと伝わる。大永四年は一五二四年(大永は一五二一〜一五二八年)。※本文の人物・会話・情景は創作。
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