第 121 話宗教籠りがちな女が、はじめて山道に出たとき——祈ることと旅することが、ひとつになった日のこと
〜壁の内に暮らす女たちは、なぜ寺へ詣でる道を、あんなに待ちわびたのか〜
物詣でというのは、よくよく考えると、ふしぎな言葉だ。
神や仏に願いを届けに行く、というだけなら、近くの社で手を合わせれば足りる。それを、わざわざ何日もかけて遠くの寺まで歩いてゆく。山を越え、川を渡り、見知らぬ宿に泊まり、足を腫らして、ようやくたどり着いて拝む。願いごとだけが目当てなら、ずいぶんと遠回りな話だ。
けれど人は、その遠回りのほうを、むしろ大事にした。とりわけ、家の奥にこもって暮らす女たちにとって、物詣では、ただの参拝ではなかった。
今の暮らしなら、行きたいところへはいつでも出かけられる。遠い土地も、半日もあれば着いてしまう。出かけることそのものに、特別な意味など誰もこめはしない。
けれど壁と御簾の内に一日を過ごす人にとって、外に出るというのは、それだけで大ごとだった。祈ることと、旅すること。その二つが、わかちがたくひとつに溶けあったところに、物詣でという楽しみは生まれた。
ボクが見てきたのは、はじめて山道に立った女の、あの顔のことだ。
◇ ◇ ◇
永承五年(一〇五〇年)の春のことだった。われは京から大和の長谷へ下る詣での一行に、荷を担ぐ供のひとりとして加わっていた。
主筋は、さるお邸に仕える女房たちだった。なかに、さきという、年若い女がいた。生まれてこのかた、邸の奥より遠くへ出たことがないという。御簾の内で文を書き、琴を爪びき、庭の桜を眺めて季節を数える——それが、さきの世界のすべてだった。
詣でが決まってから、邸の女たちのはしゃぎようは、ただごとではなかった。日和を占い、潔斎の日を数え、道中の沓や被衣をあらためては、また仕舞いなおす。何を着てゆくか、何日かかるか、宿の支度はどうかと、御簾の奥のひそひそ話が、夜ごと尽きなかった。さきだけが、その輪のはしで、まだ見ぬ道のことを思いえがけずにいるふうだった。
その朝、門を出るときの、さきの顔を、われはよく覚えている。
はじめて履く沓に、足もとを何度も確かめている。新しい藁の匂いがまだ抜けていない。袿の裾を、長谷詣での身軽な装いに括りあげて、被衣を目深にかぶってはいるけれど、その布のあいだから覗く目だけが、落ち着きなく左右へ動いていた。怖がっているのでも、はしゃいでいるのでもない。世のひろさに、まだ目が慣れていない、そういう顔だった。門の閾をまたぐとき、さきの足は、ほんの一瞬ためらった。それから、思いきったように、外の土へ降りた。
京を出て、ほどなく田の道にかかる。
「土が……柔らかいのですね」と、さきが小さく言った。築地の内の、掃ききよめられた庭の土とはちがう。雨を吸い、人と牛に踏まれ、草の根を抱いた、生きている土だ。沓の裏がわずかに沈み、また押しかえしてくる。その柔らかさが足の裏に伝わってくるのが、さきには珍しくてならないらしかった。一歩ごとに、自分の重みを地が受けとめてくれるのを、確かめながら歩いているように見えた。
道のかたわらでは、田を打つ男がいた。鍬の刃が泥を返すたび、ぬめった土の匂いがあたりに立ちのぼる。畦には、名も知らぬ黄色い花が、これでもかと咲いている。雲雀が高く啼いて、そのまま空に吸いこまれていく。日は背に暖かく、汗ばむほどだった。邸の庭にも花は咲く。けれど、誰の手も入らぬところで、好き勝手に咲き乱れる花を、さきははじめて見たのだった。被衣の下から、その目が、いちいち見ひらかれていくのがわかった。男が顔を上げ、詣での一行に気づいて、腰を伸ばして見送った。さきは、その目を、おずおずと返した。
川を渡るところでは、舟が出た。さきは舷をかたく握りしめ、はじめは水面を覗くのも怖がっていた。舟底を打つ水の音、櫂のきしみ、船頭のかけ声。揺れるたびに、ちいさく息を呑む。けれど対岸に着くころには、流れに散る日の光を、飽きずに見つめていた。掌のなかへ、こぼれた光をすくおうとでもするように、水面へ手を伸べかけて、やめた。
市のはずれを過ぎれば、店先には干物や塩や、見たこともない器が並ぶ。生魚と潮の匂い、煮炊きの煙、人いきれ。物を売る声、牛を追う声、子の泣く声。邸の奥の、しずもりかえった刻とはちがう、人の世のざわめきが、道いっぱいに満ちていた。さきは、その音のひとつひとつに、耳をそばだてていた。物乞いの子が、痩せた手をさし出してくる。さきは少しおびえ、それから袂をさぐって、握り飯をひとつ、その手にのせた。
◇ ◇ ◇
詣での道のりは、楽なものではなかった。
日が傾けば、見知らぬ里の宿に草鞋を脱ぐ。板の間は冷え、夜具は薄く、邸の臥所とはくらべものにならない。隙間風が灯をゆらし、どこかで犬が吠える。それでも女たちは、火桶を囲んで、夜どおし語りあった。炭のはぜる音と、女たちのささめきとが、せまい板の間にこもる。昼の道で見たもの——川を渡る舟の揺れ、市の店先に並んだ干物の匂い、物乞いの子に握り飯を分けてやったこと。邸にいては、けっして口にのぼらぬような話ばかりが、宿の灯のもとで尽きることなく続いた。足の豆をいたわりあい、明日の峠を案じあい、それでいて、誰の顔も、どこか弾んでいた。
さきは、はじめのうち、その輪の隅で黙って聞いていた。膝を抱え、火桶の炭の色を見つめている。けれど幾晩か重ねるうちに、ぽつり、ぽつりと、昼に見たものを口にするようになった。
「今日の峠の、あの楓の若葉が……邸のどの絵よりも、きれいでございました」
そう言うときの声が邸で聞いた琴の音より、ずっと弾んでいた。火に照らされた頬が、ほんのり赤らんでいる。籠りの日々のあいだ、この人のなかに、こんな声がしまわれていたのかと、われは思った。
古参の女房が笑って、「物詣ではね、半分は道中が楽しみなのよ」と言った。願をかけるのは、まことのこと。けれど壁の内にこもる身には、こうして空の下を幾日も歩くこと、それ自体が、なにより得がたい楽しみなのだと。仏の前で手を合わせるためだけなら、人はこんなに浮き立ちはしない。歩く道のりのひとつひとつが、籠りの日々への、ささやかな埋め合わせなのだった。火桶の炭が、ひとつ、ぱちりとはぜた。
道はやがて、初瀬の山へとかかる。
山道は、これまでとはちがった。木の根が段をなし、苔のむした石が足をすべらせる。木々のあいだから差す光は青く、土の匂いはいよいよ深い。鶯が、どこか高いところで鳴いている。さきは裾をいっそう高く括り、額に汗を浮かべて、ひと足ひと足、登っていった。
長谷の御寺は、谷を見おろす高みに、長い登廊を抜けて建っていた。屋根のかかった廊が、石段の上へ上へと、果てしなく続いている。さきは、息を切らして石段をのぼりきると、欄に手をかけて、来た道のほうを振りかえった。
幾重にも重なる春の山が、霞の奥まで、どこまでも続いていた。山ふところには、桜の白がぽつ、ぽつと滲んでいる。あの山のひとつひとつを自分の足で越えてきたのだ。京の邸は、もう、あの霞のずっとむこうにある。
さきは、しばらく、ものも言わずに、その眺めに見入っていた。被衣は、いつのまにか、肩へ落ちていた。ほつれた髪が、頬に貼りついている。日に灼けた頬をかくそうともしていない。御簾の内で季節を数えていた女の顔は、もう、どこにもなかった。
御堂に上がり、十一面の御前にぬかずいて、女たちは思い思いに願をこめた。堂のうちは薄暗く、灯明のゆらぎと香の匂いが満ちている。さきが何を祈ったのか、われは知らない。ただ、合わせた手をなかなか解こうとしなかった、その横顔だけを覚えている。祈りのなかに、ここまで歩いてきた幾日もの道が、ぜんぶ畳みこまれているような、そういう手の合わせかただった。
帰り道、さきは、もう怯えてはいなかった。
ぬかるみを来た裾は泥にまみれ、足には豆をこしらえていた。それでも、行きには黙って俯いていた峠の道を、帰りには自分から先に立って、楓の若葉を指さしては、後ろの女房たちを呼びとめた。「ごらんなさいませ、あの谷の桜を」と、声まではずませて。世のひろさに、その足が、その目が、もう、すっかり慣れていた。来たときの、あのおずおずとした娘は、どこにもいなかった。
◇ ◇ ◇
物詣ではそれから、長く、人びとの暮らしのなかにあった。
石山へ、初瀬へ、熊野へ。やんごとない女君も、市井の女も、こぞって寺社の道を歩いた。後の世の日記や物語には、詣での道すがらに見たもの、宿で出会うた人びとのことが、こまやかに書き残されているという。願をかけることと、旅をすること。その二つは、長いあいだ、わかちがたくひとつだった。
今では、遠い社寺へも、苦もなく詣でられる。歩いて山を越える者は、もう、ほとんどいない。願いだけなら、家に居ながら、掌のなかでさえ手を合わせられるという。
それでも、と、ボクは思う。
壁の内にこもっていた人が、はじめて土の柔らかさを足に知り、名も知らぬ花の咲きみだれを目にし、来た道を高みから振りかえる——祈りに添えられた、あの幾日もの道のりこそが、ほんとうは、いちばんの願いごとだったのかもしれない。
あなたも、どこか遠くへ手を合わせに行くなら、その道のりを、急がずに歩いてみるといい。被衣を肩に落として、来た山を振りかえった、あの女の顔を、ボクは、まだ覚えている。
ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 物詣で(ものもうで)は、寺社へ参拝するための外出をさし、平安期には長谷(初瀬)・石山・清水・熊野などが女性をふくむ参詣者を集めたとされる。家内にこもりがちな貴族女性にとって、詣では信仰の行為であると同時に、外界に触れ旅情を味わう数少ない機会でもあったと伝わり、『蜻蛉日記』『更級日記』などに、その道中の見聞がこまやかに記されているという。長谷観音への信仰は霊験譚とともに広く知られ、後世の参詣文化の源流のひとつとも言われる。本話の人物・会話・情景は創作。永承五年は一〇五〇年(永承は一〇四六〜一〇五三年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。長谷は大和国、京から南へ下る初瀬の地として用いた。
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