第 124 話食大陸から渡った粉ひく技が、太く白い一筋の麺となって里の常食に根づいた日のこと
〜碾臼にしがみついて粉を挽きつづけた老女は、なぜ一椀の白い麺にあれほどこだわったのか〜
饂飩というのは、小麦の粉を水でこね、打ち延ばして、太く切った一筋の麺だ。
もとは、なんということもない、ただの粉のかたまりだった。麦を碾臼で挽き、ふるって、白い粉にする。それを水でこねれば、手にべたつくばかりの、つかみどころのない生地になる。あたためた湯へ落とせば、ほどけて重湯のようになってしまう。麦というのは、米のように粒のまま炊いてもうまくはならぬ、扱いにくい穀物だった。だからこそ、人は粉に挽くという手間をかけたのさ。
ところがその粉を、こね、ねかせ、薄く延ばして、細く切る。たったそれだけのことで、生地は一本の腰の通った麺に変わる。湯のなかでもほどけず、箸でたぐれば、つるりと喉をすべっていく。挽くという技と、延ばし切るという技、その二つが重なったとき、つかみどころのなかった粉が、はじめて「食べもの」の姿をとった。
ボクが見てきたのは、その白い粉が、海の向こうから渡ってきた挽く技と打つ技にみちびかれて、里の者の腹を毎日みたす常の食べものへと根づいていく、その移り変わりだ。一椀の温かな麺が、暮らしのまんなかへ据わっていった、そのあたりのことさ。
◇ ◇ ◇
寛正三年(一四六二年)の冬のことだ。おれは近江の在所の、ちいさな寺の門前で、下働きをして暮らしていた。
その年は、ひどい飢饉のあとだった。都では数えきれぬ者が餓えて倒れ、在所もまた、田の実りが薄く、米はとうに底をついていた。秋の刈り入れのころから雨が長く居すわって、稲は穂を垂れたまま黒ずみ、穂先の実は爪でしごけば空ばかりがこぼれた。冬に入ると、村の道ばたには、骨と皮ばかりになって動かなくなった者が、筵をかけられて転がっていた。寺の門前にも、椀を抱えた手をふるわせて、ただ立ちつくす者の影が絶えなかった。
それでも麦だけは、痩せた畑のはしでも穂をつける。人々はその麦を煮たり炒ったりして、どうにか腹のたしにしていたが、麦の飯は固くぱさついて、噛んでも噛んでも口のなかでほどけず、喉を通りにくかった。歯の弱った年寄りは、そのひと粒を呑みこむのにも肩で息をついていた。
その寺に、唐の国の作法を学んだという老いた僧がいた。僧は、若いころに海を渡った商人から、粉をこねて延ばし切る技を聞き覚えていた。海の向こうでは、麦を粒のまま炊くことはせず、こぞって粉に挽き、こねて打ち、湯で食べるのだという。麦は粒のまま食うより、粉に挽いて打つほうが、ずっと食いやすく、腹もちもよい。寺の僧たちも、肉を断つかわりに、その白い麺をたびたび口にしていたと、僧は乾いた声で語った。
「向こうの寺では、人寄りのたびに大釜の湯を沸かし、白い麺を打って客にふるまうのよ。湯気のなかで湯を切る音が、まるで雨のようでなあ」
はじめ、里の者たちは、その話を、半ば作り話のように聞いていた。麦といえば、固く煎って噛みしめるか、粥に炊いて流しこむか、この土地ではそれくらいしか作らなかったからだ。粉に挽いてどうなるものか、たいていの者は見当もつかなかった。粉などというものは、こぼせば風に飛び、水に落とせば溶けて消える、たよりないものだとばかり思われていた。
僧の差配で、寺の庭に碾臼が据えられた。上下二枚の石を重ね、上の石をぐるぐると回すと、あいだに落とした麦の粒が砕け、縁から白い粉がこぼれてくる。石と石のすれあう、ごり、ごり、という低い音が、朝の冷えた庭にいつまでも響いていた。その臼を、朝から晩まで回しつづけたのが、村の老女のひとり、おしのという者だった。
おれは、薪を割る手を止めて、たびたびその臼を見にいった。おしのは、腰を曲げ、皺だらけの手で重い挽き木にしがみつき、ぎりぎりと石を回しつづける。息は白く、まばらな白髪に粉の白がうっすらと積もって、まるで霜をかぶったようだった。額に汗を浮かべ、肩で息を切らしながら、それでも手を止めない。臼のまわりには、挽きたての粉の、ほのかに甘く青いにおいが立ちこめていた。
「婆さま、そう根をつめずとも。粒のまま煮れば、手間はかからぬに」
おれが言うと、おしのは挽く手を止めずに、しわがれた声で返した。
「粒のままでは、年寄りも子も、喉を通らぬのよ。歯のない口にも、病み上がりの腹にも、すうっと入っていく。この粉を打って延ばせば、そういう食いものになる。挽く手間は、そのためのものさ」
言いながら、おしのは指先で臼の縁の粉をすくい、おれの掌へ落としてみせた。さらりと乾いて、白粉のようにこまやかな、つめたい粉だった。
◇ ◇ ◇
挽きためた粉を、おしのは木の鉢へあけ、塩を溶いた水を少しずつ加えて、こねはじめた。
はじめはぼろぼろと崩れていた粉が、こねるほどに、ひとかたまりにまとまっていく。指のあいだからはみ出すのを押しもどし、鉢の底へ体ごとのしかかるようにして、押しては返し、折っては押す。やがて生地は、つやを帯びてしっとりとまとまり、おしのの掌に吸いつくようになった。それを布にくるんで、囲炉裏のそばのあたたかいところへ、しばらくねかせる。「こうして寝かせてやると、生地が落ち着いて、腰が出るのよ」と、おしのは布の上を、子をあやすように撫でた。
ねかせた生地を、こんどは板の上で、麺棒でぐいぐいと延ばす。薄く、平らに、根気よく。延ばしては畳み、また延ばす。麺棒の下で生地が、みち、みち、と低く鳴る。おしのの細い腕の、どこにそんな力が残っているのかと、おれは目をみはった。延びた生地はうっすらと透けて、板の木目がすけて見えるほどになった。
じゅうぶんに薄く延びた生地を、おしのは打ち粉をふって折りたたみ、よく研いだ庖丁で、端から細く切っていった。とん、とん、と俎板を鳴らして、白い帯が一筋ずつ切り離されていく。手もとを少しでもあやまれば、太さがそろわず、煮えむらが出るのだという。おしのの庖丁は、長年の手なれで、寸分たがわぬ太さに刻んでいく。切るたびに庖丁を少しずらして打ち粉をまとわせ、麺どうしがくっつかぬよう、軽くほぐして広げる。切り口のそろった、太く白い麺の山が、みるみる板の上へ積もっていった。
おれは、その手つきに見入った。固い麦の粒が、挽かれ、こねられ、延ばされ、いま、こうして一筋ずつの白い麺に姿を変えていく。粒のままでは喉を通らなかったものが、人の手をいくつもくぐるうちに、まるで別の食べものへと姿を移していく。その移りようが、なんとも不思議だった。
それを、ぐらぐらと沸いた大釜の湯へ、ぱらりと放つ。
白い帯が湯のなかへ散ると、しゅっと音を立てて、湯の面が一度しずまり、また大きく沸きかえった。はじめ底へ沈んだ麺が、しばらくするとふわりと浮きあがってくる。透きとおるように艶を増し、湯のなかでゆらゆらと泳ぐ。麺をゆでる湯の、麦のにおいのまじったあたたかな湯気が、寒い庭にもうもうと立ちのぼった。その湯気のなかに立つおしのの姿が、白くにじんで見えた。煮えばなを笊にとり、ざっと湯を切って、味噌を溶いた熱い汁へ沈めて、ひとつ椀へよそうたびに白い湯気がふわりと立った。それを寺の門前へ運んだ。
その冬、飢えてやせ細った在所の者たちが、椀を抱えて集まってきた。子も、年寄りも、病み上がりの者も。かじかんだ手で椀を受けとり、湯気の立つ椀をひとくちすすると、こわばっていた顔が、ふっとほどける。
「ああ、あたたかい。これは、喉を通る」
歯の抜けた老人が、つるつると麺をたぐり、目をうるませて言った。固い麦飯を前に、ただうつむいていた幼子が、椀に顔を埋めて、湯気で頬を赤くしながら、夢中で食らいついている。汁をすする音と、すすり泣くような吐息とが、門前のあちこちで重なった。おしのは、その様子を、釜のそばからじっと見ていた。挽き木にしがみついて流した汗が、いま、人々の腹をあたためている。その顔には、疲れのなかに、ふしぎなほど穏やかな色が浮かんでいた。
おれは、そのとき腑に落ちた。おしのが朝から晩まで臼を回しつづけたのは、ただ粉を作るためではなかった。歯のない口にも、弱った腹にも入っていく、やさしい一椀を、里の者みなへ配るためだったのだ。挽くという手間、打つという手間は、いちばん弱った者を飢えから救うための、まわり道だったのさ。
◇ ◇ ◇
その白い麺は、それからの近江の在所に、すこしずつ根を張っていった。
碾臼を据える家がふえ、麦を挽いて粉にし、こねて延ばし切る手つきが、母から娘へ、姑から嫁へと伝わっていった。やがてそれは、寺の門前だけの食べものではなくなった。祝いの日にも、人寄りの日にも、ただの常の日にも、釜から湯気を立てる一椀として、暮らしのまんなかへ据わっていった。大陸から渡った挽く技と打つ技が、海をこえ、年月をこえて、この里の腹を毎日みたすものに変わっていったのだ。
今では、その太く白い麺は、どこの里にもある、あたりまえの食べものになった。店で乾いた束を買い、湯を沸かして放てば、すぐに一椀ができる。碾臼を回す者も、麺棒で生地を延ばす者も、もう、そうは見かけない。
それでも、とボクは思う。
冬の夕べに、湯気の立つ一椀の白い麺をすするとき、その一筋が、どれほどの手間を経てここへ来たのかを、ほんの少しだけ思ってほしい。痩せた畑の麦を挽き、こね、ねかせ、延ばし、切る。腰の曲がった老女が、挽き木にしがみついて流した汗がある。飢えた里の者の腹をあたためたいと願った、まわり道の手間がある。
饂飩は、ただ椀のなかで湯気を立てているだけだ。箸でたぐれば、つるりと喉をすべっていくばかりさ。それでも、その一筋には、海をこえて渡ってきた技と、弱った者へ温かいものを食わせたいと願った人の手とが、白く撚りこまれている。ボクは、そういうものが、好きなんだ。
参考文献・もっと詳しく
※ 小麦を粉に挽いて湯で食べる粉食の技法は、碾臼や麺を打つ作法とともに大陸からもたらされたとされ、寺院や門前を通じて各地へ広まったと伝わる。太く切った麺をあたたかい汁で食べる食べものが、寺社の門前や祝儀の膳を通じて里の常食として根づいていくのは、おおむね中世のころからと伝わる。寛正三年は一四六二年(寛正は一四六〇〜一四六六年)で、元号と西暦の対応は史実に整合する。なお寛正のはじめには「寛正の飢饉」と呼ばれる大飢饉があったと伝わる。※本文の人物・会話・情景は創作。
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